第7話 どこへ?
7-1 <出会い>
柴崎富子は、偽名で、東京から西に向かったある町の民宿に投宿していた。海辺の町である。民宿の主人は、生活苦で社会が困窮し、当然のごとく、観光業が流行らない昨今、わずかとは言え、資金を提供してくれる存在として、民宿の主人は、彼女を歓迎してはくれたようである。
民宿2階の自室にて、富子は呟いた。
「何で、こんなことに・・・・・」
1人で投宿している部屋である。彼女のその声に、誰も反応はしない。少くとも、彼女が見る限りは、である。とりあえず、この部屋の中では、自分1人のみので世界である。しかし、それは、自身が関与した事件に起因していることは無論である。
初め、富子は、既に30歳に達そうかという年齢になっていたことから、黒川慎一と出会い、付き合い始めた時、初めての本格的な彼氏ができた、と嬉しかった。かつての女学校時代の友人だった妙子が結婚する等しているのを見て、何か、自身のみが置いてきぼりにされ、取り残されたように感じていた。
「30近くにもなって、未だ、実家住まい」
そのように周囲から言われているようにも思えた。自身が自立できていないような気がした。常に食料を始め、物資不足の昨今である。この実家を何らかの理由で追われたら、生活の基本たる
<食>
にも困るにも違いない。其の意味では、実家ぐらしは最低の生活は一応、保障してくれていたとは言えるものの、やはり、年齢が年齢である。後ろめたさを感じざるを得ない。
勿論、富子とて、電信局で働いている立場であり、職と収入はあった。それ故に、一定の現金収入はあったものの、やはり、
<女>
も立場は、<家制度>が存続し、なおまだ、参政権のない、ここ大日本帝国では弱い。国中に蔓延する物資不足に加えて、自立した生活の前途には、曖昧とは言え、暗雲が漂っていた。
「30近くにもなって」
なおも、生活の現実の不安は、漠然と、富子の胃を重くしていた。
加えて、何が、
<表>
で、何が、
<闇>
なのやら、区別のつかないのが常識である昨今である。
<闇>
の象徴たる<闇経済>が半ば、<表>と化している中、生活物資は様々に高騰している。最早、給与等は、物価高騰に追いつかない。今後、給与は、いくらあっても足りなくなるかも知れない。
「しかし、世の中、住みにくいよな。悪い奴なんかも多いし」
黒川は、ある時、富子に行ったことがあった。無論、
<良い人>
ばかりが、この社会にいるわけではないことは、ある種の常識として、富子とて了解済みことであった。
「そんなこと、当たり前じゃない」
富子は、半ば笑いながら、黒川に返した。富子は了解していた常識について言ったのであろう。しかし、同時に、最早、闇物資の蔓延を始め、
<住みにくい>
この社会について、
「社会なんて、こんなものだ、我々、庶民たる個々人には、どうにも出来ない」
という、ある種の諦観のようなものの換言であったかもしれない。
「そうか?」
「え?」
「俺達の祖国、大日本帝国は今、不正義がはびこり、未来あるはずの子供達は苦しんでいる。北海道と東北には日本人民共和国が成立し、皆が苦しみ、不安を感じている」
これも周知の事実である。富子も既に了解していた。黒川は話を続けた。
「だからこそ、俺達は今、先を見据えて、子供達のために、できることをしなくてはいけないんだ」
こうした台詞は、大日本帝国政府が、マスコミ等を通じて喧伝し、又、街中の日常の風景と化している
<護れ!我が皇土!>
<大東亜共栄圏死守!>
といった、月並みな標語とも重なるものがあった。しかし、それらは正に、
<月並み>
であるからこそ、何等、気に留めるものでもなかった。単に存在しているのみの存在であった。黒川と2人であるいている道の脇にも、そうした標語が書かれ、また、ポスターとして、貼り出されてあった。今更、何等、気にとめるものではなかった。
しかし、黒川の口調には、何か熱いものが感じられた。
「これからの時代を担っていくのは、俺達、若い世代だ」
・<非常時>=<常時>
の日々の中、久しぶりに聞く前向きな台詞であった。「上部構造」(政治権力)が言う
「我が大日本帝国は、そして、大東亜共栄圏死守は、婦女子を含め、お前ら若い世代にかかっている!」
こうした言葉は、女学校時代から、盛んに聞かされていた。それは、換言すれば、
「若者どもは、前向きに努力せよ!」
という「上部構造」(政治権力)からの声掛けであった。
しかし、それは、昭和17年(1942年)の戦勝と言う、まぎれもない
<過去>
のためのものであった。富子等は<過去>の鎖に縛られた存在であった。黒川の言葉は、しかし、過去のためではない、未来のため、という意味合いが感じられ、真に、前向きの言葉であるかのように感じられた。
さらに、黒川は、なぜ、この大日本帝国に闇経済がはびこり、それが、半ば
<表>
と化しているかを説明してくれた。
つまり、物資不足の昨今の社会において、その不足に付け込み、高値で生活物資等を売りつけることで、大儲けしようという
<悪い奴>
もいる。つまり、この社会は必ずしも、
<良い人>
ばかりが存在しているのではないのである。そうなると、一般庶民としては、物価の高騰を恐れて、買い溜め、売り惜しみに走り、さらなる物資不足に陥る。結果として、生活に必要な各物資は、せりのような形で、奪い合いとなり、ますます高騰する。又、このような状況の中で、自身が何かを販売しようという時には、なるべく高値で売りつけようとする。物資不足に歯止めがかかる見込みが見えない以上、なるべく沢山の現金を有さねば、自身が消費者になった時、他の人々との<せり>に負けてしまうかも知れない、という恐怖から、自身も又、高値で売りつけようとするだろう。
こうしたことが分りやすく、富子に教えてくれた黒川は、其の話の新鮮さのみならず、分かりやすい口ぶりも又、富子にとっては魅力的だった。富子は心中で思ったものだった。
「かつての女学校の教員達なんかより、遥かに新鮮で魅力的!」
と何かしら、久し振りに心がときめくものがあった。彼女を導いてくれる新鮮な男性に思われたのである。
それから、黒川との重ねた富子であった。富子は、全ては
<過去>
のために停頓し、殆ど面白みのない毎日の中で、一筋の新鮮さを見出したのであった。但し、黒川との関係については、自宅では口にしていなかった。現行の体制を作った
<大東亜戦争世代>
とでも言うべき親とは世代間ギャップが有り、話が通じないような気がした、というより、そのことで-いずれは話さねばならないであろうことは分かっていたものの-生活を乱すことにはなりたくなかった。
7-2 互いに
言葉の弾んだ逢瀬の日々にて、やはり、話題となったのは、
<日常>
について、であった。
食料を含め、生活物資の不足している日々のことである。どうしても、生活についての愚痴をこぼしがちである。しかし、黒川は、そんな彼女の
<愚痴>
も嫌がらず、聞いてくれた。普段の不平不満を吐き出させてくれる黒川は、正に
<頼れる彼氏>
であった。生活における不平不満といえば、当然、職場のことも含まれた。電信局に勤めている電話交換手たる富子は、ある日、職場での先輩女性について、口にしていた。
「職場にね、嫌ない人が居るのよ」
「どんな」
「何だか知らないないけど、何時も威張っている。何だか、こう、お局さんみたいな人なのよ」
「へえ」
黒川は、富子の話題に興味を示したようであった。
「それって、どんな人なの?」
「30にもなって、未だ結婚していないのかとか、皇国と大東亜共栄圏の未来を担う子弟を産めないなんて、何かあるんじゃないのとか、ほんと、うるさいったら、ありゃしない」
「半ば、我々の皇国日本の脱落者か、落ちこぼれみたいに、扱われているのだね」
まさに、その通りだった。このことについての怒りを口にしようと思っていたところ、半ば、その内容が、黒川の口から先に出たのであった。黒川は上手く、富子の内心を察してくれた。正に、
<頼れる彼氏>
であった。黒川は言葉を続けた。
「大変だったね」
「そうよ、大変なのよ」
富子は、普段の憤懣を吐き出し、少し、心が楽になった気がした。
「それで、そのお局さんって、どんな人なわけ?」
「旦那が軍の幹部で、親戚には、貴族院議員もいるんだとか。いつも、あなた達、庶民は、気合が足りないんだなんて、偉ぶっている」
<お局さん>は、大日本帝国という現行の体制の下、食料等、生活物資の配給も、より恵まれた地位にいるのであろう。
「きっと、自分は恵まれた地位に居るんだろうよ、その<お局さん>って」
またも、黒川から、富子が心中にて思っていた台詞が出た。黒川は人の心中を読むのがうまく、富子の心を掴んでくれるようだ。黒川は続けた。
「そういう連中って、自分だけは、半ば特別な地位にいながら、現場の苦しい周囲の人々には、偉そうにするんだよね」
富子にとって、まさしく、
<御名答!>
であった。その黒川の台詞こそ、富子が言いたかったことであった。
思えば、女学校時代の軍将校出身の体罰教師・橋田至誠とて、周囲に偉そうにしていた一方、自身は、
<帝国陸軍>
という、大日本帝国の中核を担っていたことから、何か、食料配給について、特別な地位にある、と噂されていた。
自分達は、当然のごとく、恵まれた地位にいながら、一般庶民には偉そうに命令し、厳しいことを言う。
「偉い我々が、皇国日本や大東亜共栄圏のために、下々に命令するのは当たり前、だから、厳しく言って当然」
と言わんばかりに、自身の勝手な言動を正当化しているのである。
食料配給の件をも含めて、<庶民>、つまりは、
<社会>
の側からの不満は高まる一方があった。しかし、それを公然と口にするわけにいかなかった。それは、それこそ、同じく体制の中核を担う特高や憲兵による弾圧という
<恐怖>
を自ら招き寄せることに他ならなかった。
しかし、黒川に、その時、聞いてもらったことは、口に出来ない体制批判を口にできたことであった。溜飲が下がるものがあった。
「色々、大変だね」
黒川は改めて、富子をねぎらった。
「有難う」
富子は礼を言った。
富子は、不安を吐き出せる相手が居ることが嬉しかった。彼女は、職場でのことについて、黒川に話すことも多くなっていた。
「電信局で電話交換手しているとね、色々なことが分かるのよ」
そのような前置きしつつ、富子は電話を通して、人々が不満を口にしていること、あるいは、場合によっては、帝国陸海軍幹部の家族の会話を聞いたことがあることを知った。
「どんな?」
「大日本帝国と大東亜共栄圏が続いてくれないと困る。私達の主人が勤める体制が倒れたら、私達、困りますわ、って言っていた」
富子は続けた。
「それでね、だけど、占領地では反日ゲリラが出ていて、軍としては困るとか」
「なるほど」
黒川は、富子の話にうなぎつつ、言った。
「だけど、気をつけたほうがいいぜ。電信局の職員が情報を外に漏らしている、なんてことがばれたら、ただじゃ済まないだろうから」
確かにそうであろう。
「そうね」
微笑しながら、富子は返した。彼女は、黒川がこうした気遣いをしてくれることが嬉しかった。
7-3 ある夜
ある日、富子は、黒川から、数日後、退勤後に夜にデートすることに誘われた。昨今では、<非常時>の継続によって、内地では燃料等が不足し、街路灯もほとんど、点いていない。夜間は、特には女性にとっては、かなり、
<恐怖>
を感じさせる時間帯であった。しかし、それでも、<頼れる彼氏>たる黒川となら、大丈夫な気がした。むしろ、明かりがない夜間の方が、
<周囲の目>
-それは、<密告>等を通して、特高、憲兵といった権力の側に、つながっているかもしれない-等を気にしなくても良いような気がした。
富子は、黒川の提案に承諾した。
富子は、黒川と共に歩き、ある建物が建ち並ぶ地区の路地裏に誘い込まれた。
不審に思った富子は問うた。
「どうしたの?」
「ちょっと、相談があるんだ」
「君もこの国に色々と、不満だよね」
「ええ」
富子は、少し、戸惑いつつ答えた。
「この国を帰るために、やりたいことがあるんだ」
「え?」
富子は何か、ただならぬものを感じざるを得なかった。
「何のこと?」
黒川は少し、顔を上げ、夜空を見上げた。月が見え、雲が風のせいか、月明かりに照らされつつも、結構、速いスピードで流れて行った。確かにその日は、少々、風が強いのを感じさせられていた。
「そこで、俺は、ここで放火し、風の力を利用して、大火を起こす。君も、機会を見つけて、今日のような日に放火し、東京市中の各所で大火を起こすんだ」
「!?」
何を言っているのか、犯罪そのものではないか。
「何を言っているの?どういうこと!?」
「この前、話した通りだ。俺はこの国を変革したいと思っている」
暗がりの中であり、黒川の表情はよくわからない。しかし、その言葉はすでに、ある種の恐怖を富子に抱かせるのに十分な口調となっていた。それまでの紳士さが嘘のようである。
「黒川さん、あんた、一体、何者なの?」
富子は怯えつつも、豹変した黒川に、問うた。
「俺は、この大日本帝国を親ソ国家たる日本人民共和国に対抗するため、親米国家にすべく、米国CIA から派遣された工作員のジョンポウロ=クロカワだ」
富子は騙されていたことを悟った。クロカワは言った。
「我々に協力せねば、殺す。電信局での情報を話してくれたことは有難かった。我々としては、日本の権力の側の内情の一端がわかったことは貴重だった。我々の工作組織の中に君の氏名は登録した。逃げても、いずれ、殺される」
クロカワは続けた。
「日本の官憲に通報しても無駄だ。その際には、我々の関係者が電信局員の柴崎富子は、情報を漏らした、と先回りして官憲に届ける。君は逮捕され、場合によっては拷問を食らうかも知れない。既に君は我々の組織の一員だが、最末端だ。死んでも構わない」
富子は、次の瞬間、とにかくも路地裏から、広い道に出ようと、身を翻した。クロカワが、富子に追いすがろうとした。しかし、次の瞬間、富子の背後で大音響が響いた。街灯も就かず、半ば寝静まった夜間なので、かえって大音量になったかもしれない。路地脇に積まれてあった多くの鉄管-何らかの工事のためのものだろう。東京市内の要塞化の一部になるべきものかも知れない-が棚から外れて、雪崩落ち、クロカワの身上に無造作にのしかぶさったのであった。
鉄管の群れに襲われたクロカワは後頭部を襲われたのであった。
<頼れる彼氏>・黒川慎一から豹変し、<工作員>という正体を晒した男・ジョンポウロ=クロカワは死んだ。
とにかく、すぐにこの場を去らねば、大音響に驚いた人々が集まって来るかも知れない。
富子は、咄嗟に、数本の鉄管を除け、クロカワの衣服から財布を抜き取り、その場から走り去った。
その財布は、クロカワから、
<デート>
-今となっては、詐欺でしかなかったものの-にて、よく使っていたものであった。先程のクロカワの言葉からして、富子の情報もはいっているかも知れない。自身の身元がとにかくもばれるのはとにかくも避けたかった。咄嗟にそんな判断をし、そこを走り去ったのである。
そして、そのまま、列車で西に向かい、太平洋沿いのある街での民宿に偽名で投宿したのであった。
クロカワの死は、富子による殺人というよりも、むしろ、事故というべきものであろう。しかし、既に、殺人容疑者とされていることは、途中で読んだ新聞によって、彼女自身が知っていた。彼女による殺人ではない、と証明する術はない。警察に逮捕されれば、厳しい取り調べがあるだろう。
しかし、このままでは、CIAの対日工作組織とでも言うべきものによって消されるのも時間の問題であろう。警察に自首することも出来ないであろう。
富子は改めて、クロカワの財布の中身を見てみた。特にこれと言ったものはないようである。但し、財布故に、現金が収められていたことは、彼女の逃亡を助けてくれた。
なお、新聞報道等にて、被害者名が、
「会社員・黒川慎一氏」
と記述されているのは、財布の中以外にも、自身の身分を偽る名刺が彼の衣服のポケット等に入っていたのかもしれない。
富子は日米両国の権力から目をつけられ、その谷間に、半ば自ら入り込んでしまった。最早、現状での全ての(政治)権力から睨まれる富子であった。
事件について、1人で投宿しているとはいえ、疑問詞を声にする以外のことはできなかった。声に出せば、不信を招き、確実に悲惨な結果を招くであろう。事件について、声に出せないのは当然のことであった。
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