第15話 これからのために
夕暮れというのは非常に眩しいものだと知る。
黄金の黄昏に夜をまじかとした乏しリの青。沈みゆく太陽の儚さはきたる星の一光に侵食されていく。群青に染め上がっていく夕暮れは、やはり案外に眩しい。輝きの眩しさではない。羽ばたきの眩しさとも違う。
そう、哀しみの眩しさにして、明日を願う終わりの眩しさとでも言える。
今日という一日の終わりを痛哭し、それでも明日という未来に向かって笑顔を灯す家に帰る希望の……楽しみな眩しさだ。
また明日、その言葉だけで黄昏をも超える。
太陽が沈んで夜が顔を出し、群青が闇に染まろうとも、決して不安にはならない。恐怖も覚えない。明るき時とは違う自分で生きることはない。
明日を想う心、それがきっと夕暮れに似ている。
だから眩しい。だから悲しい。だから、愛惜を抱かずにはいられない。
愛惜が憂鬱となり、鬱憤を晴らす旅に出ないといけない。俺たちみたいな死にたがりや、明日を怖いと思う奴らは、本当の自分自身を曝け出して存在を確かめないと生きていけない。虚無で生きるほどい辛いものはない。いや、虚無であればその感情すらも持ち得なく、故に消えたい衝動に駆られる。
誰もいない、何も考えなくていい、何もない世界。それを求めてしまう。救いなど滅多にない。助けなど意味がなさない。
だから、抗う姿を、同じようでありながら吼える姿を刻ませるしかない。
言葉以上に語らず、意味以上に意味はない。生きるためには存在を確証しなければダメだ。
だから、夕暮れというのは非常に眩しい。
眼を細め視界を遮断したくなるから。
美しき夢想と息苦しい現実を。
吹き抜けた風はやけに冷たく、昼間の俺を咎めているようで、独りだけの公園はモノクロで更に乾燥的だ。いや、闇に近いとでも言えば寒々しさが増すが、寒いよりは痛いが正確で韜晦を暴いて傷つけた俺の懺悔なのだろうと得心する。
俺が俺を責める痛み。
それなのに、痛みというのは思考を奪ってくれる魔薬だ。凍りの痛みは思考をジャミングし、モノクロの視界が虚空に彷徨わせる。
過ちではなかった。罪でもない。きっと間違えでもない。これは運命。
同じ一部を持ちながら、全く違う性質で生きる相違関係にして同盟関係の矛盾を裁く定めだ。
笑顔を重んじながらも環境と収益の相違。幸せを願いながらも自由と固執の相違。
数多の二律背反は矛盾を背負って出来上がる。
そして、友達と特別。恋と仲間。互いの見る眼。
これは
俺が誰かを好きになるなんて……あるわけない……あっていいはずが、なにのに……。
くすんでいく心。それは彼女の声音で解れていった。茨のような冷たい凍りも、暗愚のようなモノクロも、また思い出し消えることのない感傷も、君だけが救ってくれる。
「——世界が蒼くなっていくよ」
やっぱり君には春の桜が良く似合う。夏めく季節、もう時期の夜、動き出す人々。桃色の髪を後ろで一つに括った少女は頬を緩めた。
「いこう、わたしたちの世界に」
背中に大きなギターを背負って黒のブラウスに白のプリーツスカートを着こなした、齢十六、七辺りの少し小柄な少女は俺を捕まえた。
見上げる瞳はくすんでいるのにどこまでも澄んでいた。その少女は太陽のようなのに、儚い月を想起させる。
「……ルナ」
「うん。わたしはルナ。これからよろしくね、綴琉」
そうだ。ここから新たに始めるために痛みがあったのだ。だから、レイナを傷つけた。けれど後悔はない。ルナを目の前にして億尾だすバカではない。深呼吸を一つ。
「こちらこそよろしく」
微笑んだ今日の始まりを俺は忘れない。…………忘れてはならない。
「それじゃあ、行こ。時間は限られているんだし」
「行くって……どこに?」
歩き出すルナの横に並んで尋ねると、俺を見ずに道の先を指さした。
「わたしの家」
ルナはあっけらかんと何の淀み疑問、不快なく言ってのけた。だが、肝心の俺は足を止め思考薄明の頭で何十回も反芻する。
……ルナの家?……家……家?……家⁉
「——家っ⁉」
「そう、わたしの家。曲創るんだったら態々スタジオとか取るの面倒くさいし。家なら一様マイク以外の機材はあるから」
「ま、そっちの方がルナにもやりやすいと思うし、俺的にもありがたいけど……いいのか?」
「何が?」
訊き返してくるルナの笑みは悪戯なそれで、言い淀む俺を見て可笑しそうに笑う。
「あと、今日誰もいないからね」
「そういうセリフを狙って言うなよ……」
「うん?わたしのこと狙ってるの?」
「心が腐っていても男子ということを吟味してほしい」
「じゃあ、女性、または男性がある特定の異性を誰もいない家に招くのはどうしてだと思う?」
デリケートな質問にため息が漏れてしまう。俺とルナは男女以前に同士だ。いや、言葉に出来ない関係性だ。そこに男女、友達、親友なんて定義するのは拒絶や否定と同じ。
ましてやそれに目が映ったとなれば、全くの恋などではなく、固執した極限の孤独からなる妄執。そしてただの満たしたい欲情の性欲。
そう言った事実に否定はしない。
だけれど、俺とルナの関係性を穢すことは誰よりも俺たちが許さない。許してしまうのなら、レイナに対してあまりには失礼極まりない。だから、沈黙が正しく、答えは彼女だけが持ち合わせている。俺の意図を汲んだ大きな瞳。俺は訊ねた。
「どうして?」
石ころを蹴り飛ばした足の逆足を軸に振り返り、目にかかる髪を抑えて笑みをみせた。
「大切な二人だけの時間と世界を作るためだよ」
愛おし気に微笑んで歩き始める小さな背中に、呆然としながら笑みを一つ、歩き始める。
なら、君にとって俺は大切な時間の共有者であるのだろうか……。それは曲という一点でしかないのだろうか……。
こんなことを考えても意味はない。訊くことなんて烏滸がましく愚門だ。だから変わりに問う。
「それは信頼なのか?」
「違うよ。信じているだよ」
夕暮れを背に彼女の影は、俺には見えないように伸びていた。
だから、やっぱり夕暮れは眩しい。
俺には眩しく、眩しくて——眼を細めてしまった。
ストリート街への境界を右に曲がり、入り組んだ路を進み上っていくと、そこはストリート街裏通りの少しばかりの住宅が並ぶ立地だった。本拠地から離れたそこからはあまり音は聞こえにくく、騒音とはならない。賑わいはわかれども、家の中にいれば問題はないように思える。
「ここらは一帯と反対の西には、あそこで働いている人が大半を占めているの」
「なるほど……向こうにもあるのか?」
「うん。あっちはここよりも大きくてもっと賑やかだよ。マンションとかもあるから、クレナやヒロもあっちに住んでる」
本当に芸術の街のような造形に感心と唖然が組み合わさる。それはきっと俺の住んでる住宅街が普通で、夜とかの騒音などの対策が成されているからだ。例外がストリート街だけだろうと、やはり珍しい物を見た感慨は湧くもの。
「夜中もあの通りなの?」
「まーピークは十九時から二十三時あたりで、歌とかのパフォーマンスは屋内だけになってる」
「そこは配慮してるんだ」
「でも、明かりとか消えないから新しく来た人とかは引っ越していったり、市役所とかに連絡することも多いんだって」
「へー……ちなみ何で知っているの?普通わからないもんじゃないのか?」
「うん?それはね、市役所の雑務バイトをちょっとだけしたことがあってね。その時のお世話になった人が教えてくれたの」
ルナのバイト事情は気になるが、それよりも確かに、夜中十蛍光が刺激して来たら、違う環境との歴然に出て行っても、連絡を取りつけても仕方ないように思える。俺自身も耐えられるのかと訊かれれば、口をへの字に曲げるだろう。
それでも、ストリートで生きる者たちが住んでいるから成り立っている。噂ではもうかれこれ数十年はそういう街なんだと。有名アーティストなどの誕生の地とも言われていると母に聞いたことがある。
物珍しさにきょろきょろ見渡す俺をルナは面白そうに見ていた。
「そう言えば、ルナの個人情報教えてもらうの初めてだ」
急に頭に発現した驚愕に、ルナはキョトンとする。
「わたし、何も教えてなかったっけ?」
「本名も歳も家族構成も何も聞いてないけど……」
「うそっ⁉ほんとに?」
信じられないとばかりに俺に詰め寄るルナ。その瞳や表情は焦りがあり、どこか戸惑っているよう。
「あっああ。そうだな……」
頷く俺にガーンとオノマトペが表示されていてもおかしくない凹みように、戸惑う俺であった。
冬斗によればこう言った場合、友達、家族、仲間以前に男性であるか女性であるかを確認して、女性であれば女性としての何かを傷つけた場合が多い。そう言っていた気がする。だからと言って、俺の何が女性としてのルナを傷つけたのかわからない。まず本当に女性としてなのか、ルナとしての個人ではないのか。女性経験など俺には無であり、それこそ一番仲が良かったのはレイナか中学の同級生くらい。同級生は高校進学で離れ、レイナとは今日、衝突したばかりだ。別れしか経験していないとも言えるこの身、どうして女性の悩める問題を簡単に解くことが出来ようか、いや出来まい。
慌てる俺に固まったフリーズ状態のルナ。視線を落としたルナが小さな声で呟く。
「わたし…………最低だね」
「え?」
いきなりのことに意味がわからず、素の中の素で瞬きする俺が覗きこもうとして、ばっと顔を上げたルナに慌てて距離を取る。悲愴と申し訳なさ、後は自己嫌悪に苛まれているかのような顔。再びの瞬きにルナは頭を下げた。
「ごめんなさいっ!」
「え?」
再びの混乱。俺のことはお構いなしにルナは綴っていく。
「わたし、一緒に音楽をしてくれる綴琉に何も言ってなかった。一緒に音楽するならちゃんと話さないいけなのに……それじゃあ、断られて仕方なかったよね……」
「いや、あの……」
「ほんとにごめんなさい!変わりに何でも教えるから⁉」
「は?」
「胸のサイズでもホクロの位置でも、猫の撫で方でもなんでも教えるから!」
「まてまて!落ち着け。確かに魅力的だけど、一旦落ち着け」
「で、でも……」
悔やむような物言いはきっと切実なのだろう。
ルナにとって自己情報がどういった類にフォルダーされるかは知らない。軋轢を生む家族関係。虐待を教養と欲情の発散とする親のエゴ。虐めや差別による友好関係の認識。周りからの奇異な目線、異物の貴賤。二重人格による精神腐敗。病気、闘病、誰かの命。
人それぞれ何かを抱えている。勿論、深く考えずに何気なく生きているゴミみたいな……いや、楽天家、知っていてなお、道化を振舞う人間もいる。
けれど、反対に抱えた悩みが痛くて苦しくて、それでもへばりつくように生きている人間もいる。
平等の世界などありはしない。
自分の周りが自分に無条件に『何か』を与えてくるのだ。誰かを思いやれない人に誰かが穢されていく。そんな人間は大っ嫌いだ。
だから……だから、そんな関係に関して俺に切実に頭を下げるルナがあまりにも眩しかった。
「……俺もほとんど何も言ってないし……決めたのも昨日だろ。だから、これから話していけばいいと思う」
「綴琉……」
「伝えたい事を言えればいい。示したいことを言葉にすればいいんだよ」
それが俺たちの音楽だ。ルナは気づかされたと目下を光で覆い、そっと呟いた。
「そうだね……綴琉の言う通りだね。ごめんなさい。変なこと言って」
「あー……う、うん。まずは自己紹介くらいからしていけばいいんだよ」
少しばかりかっこを付けたことに後悔する自分に嫌悪を抱きながらも、これでいいんだと心から思えた。胸の辺りが毒針に刺されたかのような痛みが、何故か襲ってきた。けれど、そんな痛みを無視する。気づかないふりをする。
道を右に曲がり二番目の家の前でルナは足を止めた。白塗りの新築の家には庭付きのようで良風。二階建ての雪の民家に出てきそうな赴きは素朴で良質。
「おー」
思わず声を上げて見上げる俺にルナは呆れたように笑った。
「そんな感心するような家じゃないよ?」
「いや、あれだ。友達の家とか知らない人の家とかに案内された時に何故か感心するあれだよ。こう、この人の家はこんなのなんだなーって」
「うーん?わからないこともないけど……じゃあ、綴琉はどんな家なの?」
「俺の家?ルナの家が二十年くらい経った家かな」
「わかりそうでわからないや」
そうからから笑って、自分の家を眺めながら想像しようと頑張るルナだが、結局無理だたようで、謎を乗せたまま家に入って行く。
「話は家の中でしよ」
手罷れる俺は人の家に入るのはいつぶりだろうと考えていたが、そう言えば先週冬斗の家でテスト勉強をしたなーと思い出した。そう思うと一気に緊張感が解かれる。そんな淡い中、ふと表札に書かれた姓を見つけた。
(ローマ字で……
そう思考しては名前も知らないなと今更ながら到り、少しばかり悲しくなるが、ストリートじゃ別段珍しくもない。俺とルナも奇妙な縁から繋がった事だし、ルナも俺の姓を知らないわけだ。
「?綴琉何しているの?」
「あーごめん。今行く」
思考を後にして俺は初めて女性の家にお尋ねした。
「おっお邪魔します……」
そんな弱々しい声に「今日私以外誰もいないよって言ったなに」という正直な感想に不安が一気に逆上して緊張が上回った。
「…………そうだったな」
靴箱の上に置かれていた夏なのに雪が降るスノードームを睨んだ。その雪のようになれたのなら、と思わずにはいられない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます