塵灰のレゾンデートル

ガリアンデル

序章

プロローグ 魂の端数

 世界が反転する音を聞いた。

​ 場所は〈不羈ふきなる暗渠〉、地下三層。

 

 迷宮の壁面を覆う発光苔が、不規則に明滅している。湿度は不快なほど高く、腐った水苔と、古い鉄錆のような血の臭いが充満していた。


 その突き当たりの小部屋玄室で、パーティ〈流浪の刃〉は、遭遇してはならない「死」と対峙していた。 



​「――っ、ヒール! 早く、前衛にヒールをォッ!」

​ リーダーである戦士の絶叫が、石造りの回廊に木霊する。



 彼は最前列でタワーシールドを構え、必死に何かを食い止めていた。だが、その自慢のミスリル製の盾は、まるで熱したフライパンに乗せたバターのように、じゅわじゅわと嫌な音を立てて溶解し始めていた。



​「間に合わない! 回復ヒールが追いつかない! 装甲が溶かされてる!」

​ 後衛にいた僧侶の女が、引き攣った悲鳴を上げる。



 彼らの眼前にいるのは、不定形の「影」だった。

 輪郭は定まらず、光を吸い込むような漆黒のタールが、空間に染み出したように揺らめいている。剣を振るえば水のようにすり抜け、炎を放てば嘲笑うかのように霧散し、即座に再凝縮する。物理無効、魔法耐性、そして――接触即死クリティカル



​ メイレは最後列で杖を握りしめ、酸欠になりそうなほど早口で詠唱を繰り返していた。



「《星の守り》! 《敏捷性強化》! 《継続治癒》!」



 メイレの杖から放たれる淡い光が、前衛の戦士を幾重にも包み込む。


 完璧な支援だった。防御力を極限まで高め、傷を即座に塞ぐ、教科書通りの鉄壁の布陣。

​ だが、圧倒的な「暴力」の前では、防御など薄紙一枚に等しかった。



​「が、あ、あァァァッ!?」



​ 盾が完全に溶け落ちた。

 影から伸びた黒い触手が、戦士のフルプレートメイルを紙細工のように貫通する。

 あばら骨が砕ける湿った音。内臓が圧迫され、口からごぼりと大量の鮮血が吐き出される。



 リーダーの屈強な体が、ボロ雑巾のように宙を舞い、壁に叩きつけられた。



​「リ、リーダー!?」

​ 盗賊の少年が、恐怖で裏返った声を上げる。



 彼は影の側面へ回り込み、短剣を突き立てようとした――それが致命的なミスだった。

 影の一部が鞭のようにしなり、少年の上半身を包み込む。



「た、助け――」

 言葉は続かなかった。



 ジュルリ、という捕食音が響き、影が退いた後には、下半身だけが残された少年の遺体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。



​「いやぁぁぁッ! 来ないで、来ないでよぉッ!」

​ 僧侶の女が錯乱し、祈りの言葉すら忘れて聖印を振り回す。



 影は愉悦に震えるように膨張し、彼女へ殺到した。



 メイレは見た。仲間だった女性が、黒い濁流に飲み込まれ、その中で手足があらぬ方向へねじ曲がり、顔面の皮膚が泡立って溶けていく様を。

 断末魔すら上げられず、彼女はただの肉塊へと変わった。



​ 静寂が訪れる。



 残されたのは、溶解音と、遠くで滴る水滴の音だけ。



​ メイレは杖を構えたまま、動けなかった。



 震える指先。枯渇しかけた魔力。



 彼女の支援魔法は、まだ効果を持続していた。だが、守るべき対象は全員、物言わぬ屍となっていた。



​『お前の支援は完璧だ。だが、決定打がない』

『火力不足なんだよ、メイレ。結局、敵を殺せなきゃジリ貧なんだ』



​ かつて酒場で、リーダーに苦笑いと共に言われた言葉が、呪いのように脳裏でリフレインする。



 そうだ。



 私がもっと強ければ。守るだけでなく、あの影を焼き尽くすほどの閃光を放てれば。



 あと一押し、敵を殲滅する火力さえあれば、こんな結末にはならなかった。



​ 影が、ゆっくりとこちらを向く。



 目はないはずなのに、視線を感じた。



 冷たく、冒涜的な、「餌」を見る視線。



​ メイレは震える足で一歩踏み出し、最後のあがきとして杖を振り上げる。



 だが、影は慈悲もなく、公平に、彼女にも訪れた。



​ 眼前に迫る漆黒。

 痛みはなかった。

 ただ、プツン、と。



 世界を映していた視界の電源が、唐突に切断されただけだった。



 意識が闇に溶け、彼女は自分が「モノ」に変わる音を聞いた。




​ †




​ 次にメイレが感じたのは、石畳の冷たさと、鼻をつく線香の匂いだった。


 重たい瞼を開ける。


 薄暗い天井。ステンドグラスから差し込む光は、しかし埃っぽく濁っている。


 ここは教会だ。冒険者たちが「死体カダヴァ」となって運び込まれる、再生と審判の場。



​ メイレは体を起こそうとして、指先が触れた自分の首筋に、あるはずのない感触を認めた。



 乾いた土器のような、ザラついた亀裂。



 そして何より――寒い。



 心臓が動いていない。脈動がない。呼吸をする必要も感じない。



​「……ああ」

​ メイレは瞬時に悟った。



 鏡を見る必要すらない。この感覚を、彼女は知っている。



 酒場の片隅で、誰ともパーティを組めずにうずくまっている連中と同じだ。



​「お目覚めですか。祝福された子よ」

​ 頭上から降ってきたのは、熱に浮かれたような、それでいてひどく事務的な声だった。



 黒い法衣を纏ったシスターが、恍惚とした表情でメイレを見下ろしている。



​「仲間は……」

 問いかける声は、擦れた紙のように乾いていた。



「〈流浪の刃〉の皆様でしたら、先ほど出発されましたよ」



「え……?」



「リーダーである戦士様が、一人生き残って戻られました。そして、盗賊様と僧侶様のカデグラを回収し、蘇生の寄付金を支払われました。お二人は無事に蘇生に成功し、祝い酒だと酒場へ向かわれました」



​ メイレは虚ろな目でシスターを見返す。

 みんな、生きている。

 それなら、なぜ私はここに一人で、こんな体で転がっている?



​「あの、私は……」



「貴女の分だけ、お布施が足りなかったのです」

​ シスターは手元の台帳をパラパラとめくり、淡々と事実を告げた。



​「蘇生には多額の寄付が必要です。戦士様の持ち合わせと、回収した戦利品を合わせても、回収された三人全員を蘇らせるには金貨が二十枚ほど不足していました」



「二十……枚」



「ええ。ですから戦士様は、盗賊様と僧侶様を選ばれた。貴女は『ここで埋葬しておいてくれ』と」



​ 見捨てられた。

 金貨二十枚。それが私の命の値段。  


 火力不足のサポーターは、最後の最後で、コスト計算によって切り捨てられたのだ。



​「通常であれば、貴女は共同墓地へ送られるところでした。ですが、見なさい。神は貴女を見捨てなかった!」



​ シスターは大仰に両手を広げた。



​「神は貴女に『御業』を与え給うたのです! 金銭によって生を得られぬあわれな魂に、仮初めの器を与え、使命を授けたのです。これぞ慈悲! これぞ選別!」



​ ――違う。

 メイレは冷え切った思考で否定する。

 教会はこれを「御業」と呼ぶ。

 神が奈落王を討たせるために、死した冒険者を駒として再利用するシステムだと。

 だが、冒険者たちは知っている。

 これは「呪い」だ。



​ 不完全な蘇生状態、『灰人アッシュ』。



 二度目の死は完全なる消滅ロストを意味し、通常の蘇生魔法も受け付けない。



 生者の輪には入れず、パーティを組めば「死神を連れている」と嫌われる、不吉の象徴。



​「……元に戻る方法は」



「使命を果たすのです。神に仇なす元凶、ダンジョンの最奥に座す『奈落王』を討ち果たしなさい。さすれば、その呪われた……いいえ、祝福された仮初めの器は浄化され、真の生身を賜るでしょう」



​ シスターは笑っていた。

 聖職者の仮面を被った、狂信者の笑みで。



 パーティに捨てられた「火力不足の端数」が、奈落王を倒す? そんなことはどうでもいいのだ。教会にとって灰人は、勝手にダンジョンに潜って死んでいく、コストのかからない鉄砲玉に過ぎない。



​ メイレは立ち上がった。



 ふらつきはしなかった。死んだ体は、疲労も恐怖も感じにくいらしい。



 彼女はシスターに一瞥もくれず、重い扉を開けて教会の外へと踏み出す。



​ 外は夕暮れだった。

 かつては美しいと感じた街の喧騒が、今はひどく遠い。



 メイレはマントの襟を立て、首筋の亀裂を隠した。



​「……金貨二十枚」

​ 呟いた声は、風よりも冷たかった。



 もう、誰かのために祈るのはやめだ。



 利用できるものは何でも利用する。それが死者であれ、生者であれ。



 奈落王を殺して、生き返る。



 そして、私の命を値踏みした連中に、その計算が間違いだったと思い知らせてやる。



​ 灰色の少女は、影を引きずるようにして、冒険者たちが集う酒場へと歩き出した。

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