第29話ジョセフ・ピュリッツァー
Joseph Pulitzer(1847.4.10~1911.10.29)。アメリカン工業化と対外拡張の時代、ハーストとともに大衆紙の基礎を築いた新聞編集・経営者。ハンガリーからの移民。ジャーナリズム界最高権威の「ピュリッツァー賞」の創設者。
アメリカでは、新聞の歴史の方が政府の歴史より古い。1776年に合衆国政府ができる以前に新聞があった。それらのうちには、独立宣言の起草でトマス・ジェファソン(第三代大統領)を助けた啓蒙思想家ベンジャミン・フランクリンの「ペンシルバニア・ガゼット」紙なども含まれていた。歴史家アーサー・シュレジンジャーは、「独立運動は、機敏でひたむきなプレスの力がなかったら成功しなかっただろう」と述べている。だから建国の父祖たちは、連邦憲法の修正条項のなかで「言論・出版の自由の制限の禁止」を強くうたった。その精神は今も生きている。
その「言論・出版の自由」発現の形も、この国が南北戦争(1861年~1865年)を経て工業化の時代に入ったころから、大きく様変わりする。その具現者の一人が、ハンガリーからの移住者の身で新聞経営に乗り出し、その斬新な編集方針によって新聞の大衆化をもたらした末、現代アメリカ・ジャーナリズムの最高の栄誉とされる「ピュリッツァー賞」の創設者となったジョセフ・ピュリッツァーである。
ハンガリーの名家に生まれたピュリッツァーが新大陸にやってきたのは、南北戦争に義勇軍として参加するためだった。北軍の騎兵隊に雇われたが、戦争はすぐ終わった。英語がほとんどできなかったので、セントルイスのドイツ人コミュニティーに移った。そこでドイツ語新聞「ベストリッヘ・ポスト」の記者になり、ジャーナリストとしての第一歩を踏み出した。1867年のことである。ピュリッツァーの生涯のハイライトは、その16年後、「ニューヨーク・ワールド」を買収してニューヨークに進出、当時としては革命的な新聞経営を展開した時期にあるが、その萌芽はセントルイス時代に生まれた。
一時、ミズーリ州下院議員として州政界で改革派として活躍したこともあるが、1878年までに、セントルイスで競合していた二つの新聞を買収・合併して「ポスト・ディスパッチ」を創刊したあたりから、新聞経営者として独自の編集方針を追求しはじめる。ミシシッピとミズーリ両川の合流点に位置し、大西部への玄関とされた商業都市セントルイスは、次第にその地位をシカゴに奪われつつあった。過度の繁栄に酔っていた市、州政府、そして上流階層に腐敗、汚職、偽善が蔓延し、下層庶民の不満だけが高まっていた。
ピュリッツァーの新聞は、そうした社会問題をセンセーショナルに取り上げた。暴露とゴシップをふんだんに盛り込んだ報道に大衆は喜び、発行部数は5年間で2000部から30000部に増えた。「犯罪、不道徳の抑止力となるのは、法律、道徳律よりはむしろ、新聞に暴露されることへの恐れである」とは、当時のピュリッツァーの言葉である。
この編集理念は、1883年、赤字経営に苦しんでいた「ニューヨーク・ワールド」を買収してニューヨークに進出したのちも貫かれる。1887年には「イブニング・ワールド」も創刊。両紙合計して37万4000部という、19世紀末としてはニューヨークはおろか全米随一の発行部数を誇る新聞に仕立て上げた。「わたしは自分の読者にいかなる人びとも除外しない」と言うピュリッツァーの理想は、すべてのアメリカ人に読ませる記事と物語を載せることにあった。
暴露とセンセーショナリズムに、派手な挿画とマンガが加わった。リチャード・アウトコールというマンガ家に「イエロー・キッズ」という、当時としては画期的な色刷りマンガを連載で描かせ、読者を労働者階層まで広げたのも、この方針と関係がある。この連載マンガは、ピュリッツァーの大衆紙スタイルを踏襲して追い上げた若い新聞経営者ウィリアム・ハーストとの、作家アウトコールの引き抜きまで含めた泥仕合的な販売戦争から「イエロージャーナリズム」の言葉を生むことにつながった。
晩年のピュリッツァーは大衆紙からの方向転換を志し、自分の育て上げた「ニューヨーク・ワールド」を模範的な新聞として永久化したいと思った。だが、読まれる新聞ではあったが、尊敬される新聞ではなかった「ワールド」は、20世紀に入ると衰退してゆく。身体的に半盲目となったこと、さらに過度なセンセーショナリズムに対する知識層からの嘲笑が神経系統の病気を募らせたこともあって、かつての攻撃的な新聞人は隠遁的にすらなった。
「自由号」と名付けた専用船で各地を転々としながら、毎日、電報による指令を「ワールド」編集部に送るという生活をしていたが、1911年10月29日、サウスカロライナ州チャールストン沖合いの船上で、64歳の波乱の生涯を閉じた。その遺言で、コロンビア大学に200万ドルが寄贈され、ジャーナリズム大学院が創設された。その後、1915年には同大学は「ピュリッツァー賞」を設け、彼の名前と功績を恒久化した。
ピュリッツァーとは竜馬はおもにサッコ・ヴァンゼッティ事件とそれに付随するイエロージャーナリズムを通じて親交を深めた竜馬であった。日本にいる平民新聞社の幸徳秋水(木戸孝允)にもピュリッツァーの話はずいぶんしていたのだ。はじめは、師匠のジョン・デューイがサッコ・ヴァンゼッティ事件を解決するために面白いジャーナリストがいると竜馬に紹介してくれたのであった。
ピュリッツァーも幸徳秋水(木戸孝允)も同じ社会主義者でジャーナリスト。竜馬の社会主義思想はマルクスの資本論(the capital)や師匠のジョン・デューイの影響が大きかったが、幸徳秋水(木戸孝允)の社会主義思想は明治の哲学者、中江兆民に師事した影響からであった。ピュリッツァーや幸徳秋水(木戸孝允)の社会主義思想が、ジャーナリズムで終わってしまったのに対して、竜馬の社会主義思想は、フランクリン・ルーズベルトとはじめたニューディール政策に生かされ、さらに日本の石橋湛山や高橋是清の積極財政政策、時局匡救事業にも応用されたところが、少し違っていた。
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