08_#5
特殊鑑識班の長い廊下を突き進んだ真実也は、蛭間の背中を追いながら進んでいく。血相を変えて逃げてきた白衣姿の研究員たちと肩がぶつかりそうになるのを避けつつ、角を曲がった。真実也はプレートに『研究室-A』と書かれた両開きのドアに蛭間が入っていくのに気がつくと、対暴人用拳銃 Matildaを上着の下から取り出し、部屋に入った。
暴人は──河内奏太はどこにいる。
拳銃を構えながら、広々とした研究室をぐるりと見渡す。壁際に設置された大型のモニター。山積みの資料、無数のデスク、顕微鏡に試験管。物陰に隠れる研究員。情報量の多い室内を、真実也基は心臓の鼓動を抑えながら高速で目を走らせる。目まぐるしく動く視線は中央に狙いを定めた。スーツの上着を靡かせながら研究室の真ん中を突っ切る黒い背中、班長・蛭間に目が留まる。真実也は考えるよりも先に彼の背中を追っていった。
突然、短い悲鳴と怒鳴り声が響いた。部屋の最奥、診察台のような大きなテーブルのそばに、河内はいた。テーブルに取り付けられたであろう拘束具は容易く壊され、いくつかの部品が床にちらばっている。肩をいからせ白い蒸気を吐き出す河内はこちらに背を向け、壁際に追いやられた女研究員に歩み寄った。逃げそびれた女研究員は腰を抜かしているのか、その場で動けず座り込んでいた。暴人化した河内は、自身の体に触れた椅子や資料を蹴散らし、暴れながら研究員に近づいていく。真実也は構えた拳銃で撃とうとするも、頭を揺らしながら激しく動く河内に照準が定められない。
「“まだ” 撃つな」
河内が女性に向かって腕を振り回し、怒号を上げた直後。蛭間は静かなその言葉と共に、地面を蹴って体を浮かせた。右足を思いきり上げると、自身の頭ほどまで上げられた脚を振り下ろし、右上から叩きつけるように河内の首を蹴った。
ゴツ、という音をたて蹴り飛ばされた河内は、息が詰まるような唸り声を上げて左側に大きく転倒する。一体、何が起こった……?真実也は思わず呆気に取られ、数秒固まる。
「さ、サンプリングを……!」
ゼーゼーと息を切らしながら部屋に入ってきた研究員・押野のひ弱な声で真実也は我に返った。押野は疲れきった様子で、震える右腕を上げる。振り返った真実也は項垂れる押野を気遣いつつも、彼の言葉を聞き返した。
「サンプリング?」
「体の一部を、サンプリングしてくださいっ」
息を吐き切ると同時にそう言い切った押野は、河内を指さしながらもう限界、と言わんばかりにへたり込んだ。真実也は反射的に、河内の方へ視線を向ける。
蛭間の蹴りによって喉を圧迫され、呼吸を忘れた河内は苦しそうに喘ぎながら横たわった。蛭間は河内の上に跨ると、自身のジャケットの内側に手を忍ばせる。ガチャガチャと何かが重なる音の後、手のひらサイズのポケットナイフが取り出された。蛭間が手にしたナイフの黒と赤のツートンカラーに、真実也はすぐにこのナイフが対暴人用の武器であることを察した。
蛭間は河内の手足を固定しながら、ナイフを持った手に力を込める。真実也の理解が追いつかないうちに、河内奏太の服を剥いで生身の体にナイフを突き立てた。
*
暴人・河内奏太の声にならない叫び声が、研究室に空気の振動となって響き渡る。蛭間がナイフの角度を変える度に、ビリビリと空気が揺れるような気がする。耳を塞ぎたくなるのを耐えた真実也は、目を逸らしたくて堪らないにも関わらず、蛭間から目が離せなくなった。
蛭間は無駄のない手つきで、ナイフをぐるりと回転させる。空いた左手は再び上着の内側を探りはじめ、やがて小さく畳まれた小型のポリ袋を取り出した。器用に抉り取られた拳大ほどの肉片をポリ袋に入れた蛭間は、袋の口をきつく閉める。ポリ袋に入れられた肉片は、墨汁のように真っ黒な血液で満たされた。
蛭間と目が合った瞬間、真実也の胸元に肉片の入ったポリ袋が投げ渡された。黒々とした血に濡れる肉片を受け取った真実也は、手を滑らせ落としそうになるのをすんでのところで抑える。
「あ、あ……」
蛭間は真実也の方を一瞥もしない。真実也はまだ暖かい肉片の感触に全身の身の毛がよだつのを感じつつも、振り返って研究員を探す。近くにいた押野を探し出すと、名前を呼んだ。状況を見ていなかったのだろうか、へたり込む押野に肉片を見せると、顔を見上げた彼は丸い目を更に丸め、異質なものを見るような目で真実也を見上げた。──何故僕をそんな目で見るんだ。真実也は言葉をぐっと飲み込んだ。
「え。これって……?」
「さ……サンプルです!」
「サンプル?」
“ドン引き”という表現がぴったり合うような表情で、押野の声は裏返っていた。──だから、何故僕をそんな目で見るんだよ。真実也は今度は心の中で呟いた。目の焦点が合ってきたのか、ようやく状況を理解した押野は、はっと立ち上がると声を上げた
「と、とにかく。は、は、はやく冷凍保存しましょう」
起き上がった押野に手招かれ、真実也は肉片を手にしたまま冷凍ストッカーへと移動した。 移動中、押野は癖毛を揺らしながら早口で説明をはじめた。
「暴人くんは心肺機能が停止すると、その瞬間から細胞がぜんぶ死滅していっちゃうんです、だから生きてるうちに生きてる細胞を採取して、冷凍保存しておく必要があるんです」
「冷凍保存をすると、M細胞の活動が鈍くなるとか?」
「それもあるんですけど、暴人くんの肉は何より腐りやすいんですよ」
部屋の最奥からけたたましく響く河内の雄叫びを聞きながら、押野は入口の壁沿いに並ぶ、数台の冷凍ストッカーの手前で立ち止まった。凍りついて固くなったストッカーの蓋を引き上げると、白い冷気が蓋の隙間から吹き上がる。真実也が手にしたサンプルをストッカーに入れると、押野はもう一度踏ん張り、ストッカーの蓋を閉めた。
バタン、と蓋の閉まる音とほぼ同時に、研究室内に鈍い銃声が響いた。直前まで雄叫びを上げていた河内の声は途絶え、銃声の余韻が研究室内を満たし、物音一つ立てられない妙な静寂が走る。驚きで言葉を失う押野と顔を合わせたあと、真実也は蛭間のいる研究室の最奥へ近付いていった。
積み重なった資料や器具の乗ったデスクを通り越し奥へ進めば、その姿ははっきりと真実也の目に映る。壁や床に飛び散った黒い飛沫の中心に、暴人・河内奏太と蛭間はいた。
「蛭間さ……」
蛭間の名前を呼ぼうとした真実也は足を止めた。否、“これ以上近寄れない”とでも言うべきか。
河内の上に覆い被さるような体勢で俯く蛭間の表情は、こちらからでは伺えない。輝く白金色の髪や白い肌に、先ほどの衝撃で飛散した墨色の血液が付着し、数滴滴り落ちる。垂れた血液が地面に落ちる音さえも聞こえそうな静寂の中、蛭間は何も言わずに焦点を彼に定め続けていた。俯いた際に垂れた髪の隙間から、いつも細められている彼の瞳が大きく開かれているのが分かる。
『死神』
背筋に走った言い様のない寒気に、真実也は身震いを覚えた。彼の纏う空気や佇まい、その全てが、その2文字を嫌というほど連想させられた。同時に、なぜ彼が警察の間で「死神」と呼ばれているのかも、真実也は今ならわかる気がした。
河内の喉の奥で発砲された対暴人用短銃Loganは、未だバレルが見えなくなるほど彼の口内に押し込められている。はじめて“解放”を目の当たりにした時と同じ光景に、真実也の胸がざわついた。蛭間はそれをゆっくりと引き抜くと、銃を上着の内側にしまい、やがてゆらりと立ち上がった。
遺体を通り越し、壁沿いで身動きが取れなくなっている研究員の女の前まで来ると、片膝をついて目線を合わせようと試みる。
「お怪我は?」
先ほど感じた「死神」とはかけ離れた、いつもの穏やかな蛭間の声色が研究員に投げかけられた。研究員の女は怯えた表情を硬直させ、言葉を失ったまま蛭間を見上げている。
研究室に充満する錆びた鉄と腐ったような匂いが、緊張が解け息を吸った真実也の鼻腔をひりひりと刺激した。
暴人、河内奏太は“解放”された。
* * *
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