第百二話 伶世

「そなたら、下がるがよい」

「しかし、主上しゅじょう――」

「下がれ、と申しておるのが聞こえぬか」


 国主こくしゅの他に天仙てんせんが一人。怪異が一人と国賓こくひんが一人。この状況で万が一の状況になれば真っ先に文輝ぶんきが疑われ、罰せられるだろう。その文輝は額から流血して意識が半ば朦朧としている。誰かに危害を加えらられるような状態でないのは火を見るより明らかだった。

 結局のところ、国主の静謐な、なのに何よりも強直な声に従うように一人、一人と退出して朝議ちょうぎの間に残されたのは文輝からすればよく見知った顔ばかりになった。


伶世れいせい小戴しょうたいを治癒してもよいな?」

「勿論です。お久しゅうございますね、華軍かぐん殿」


 そのお姿を再びこの目で見ることは叶わないと思っておりました。

 その声は四年前と何も変わらない、ころころと綻ぶ方伶世の喋り方そのもので、華軍が苦笑する。


「お前には別れも言えなかったな」

「いいえ。こうして再びお会い出来たのですから別れなど最初から不要だったのでしょう」


 お元気でいらっしゃって幸いです。言って伶世が御簾みすを出た。左側に座った子公しこうも十分豪奢な格好をしているが、伶世のそれは比較にならないほど優美だった。息を呑む。華軍が文輝の身体を支えて口腔の中で何ごとかを諳んじながら、文輝の額に手をかざした。暖かい何かがそこから流れ出てきて文輝の身体を包む。決して見たこともないのにまるで母親の胎内にいたときのようなやわらぎがあった。


「文輝殿」

はい、主上」

「私の配下が無体を働いたこと、お許しください」


 階の一番外まで歩いてきた伶世が膝をつく。段にも満たない場所にいる文輝からすればそれでも十分見上げる、という行為には変わりなかったが国主が膝を折るなど前代未聞だ。身体的な損傷が癒えた文輝は反射的に跳ね起きる。


「主上! おやめください!」

「いいえ。私の不徳と致すところです。私が頼りない国主であるゆえ、私の配下は皆、私の威厳を保とうと攻撃的になってしまうのです」


 彼らにも悪意はございません。どうかお許しくださりませ。

 膝を折っているだけでも十分に鼓動は乱高下しているのに、頭まで下げられればもう混乱を極めるしかない。目の前にいるのは伶世だ。中科ちゅうかで半年だけ一緒に過ごした朋輩で――その過去と別離したこの国の王だ。ただの官吏である文輝に頭を下げるのは間違っている。

 わかっている。伶世はただ誠実を貫こうとしているだけだ。

 権威を笠に着て威張りたいのではない。人を抑圧したいのでもない。ただ、この国を支える為に国主の座を受け継いだ純然たる西白国さいはくこくの愛国者の一人だった。


「――伶世。お前は立派になったな」

「文輝殿には及びもつきません。文のやり取りで精一杯だった青東国せいとうこくから国賓が直接お出でになったなど、国史のどこを探しても前代未聞の出来ごとですよ」


 そうでしょう、皇子おうじ。頭を上げた伶世が微笑んで子公を振り返る。子公は泣き出しそうなほど潤んだ瞳で階の端を見つめていた。


「偶々そうなっただけで、俺は何もしちゃいねえよ」

「ではこうしましょう。運も実力のうち、と古の賢者が言い残しました」

「お前は――本当に頑固だよな、変わってない」

「変わっていないのはあなたもです、文輝殿」


 ありがとうございます。あなたはいつだってこの国の為に――この国の民の為に命を懸けてくださいます。言って再び文輝を見つめたかと思うと何重にも重なった豪奢な衣服のことも忘れて伶世が文輝の首に抱き着く。文輝の命が――温もりが確かにあることを首元から離れた小さな掌が何度も何度も確かめるように背中の端々まで触れようとしている。


「文輝殿。命を粗末に扱うのはおやめください。私の知らないうちに殉職などなさらないでください。あなたは人なのです。死ねば、私は二度とあなたにお会いすることが出来ないのです。この意味がお分かりですか?」

「――わかってはいる」

「全く、わかっておられないではないですか!」


 華軍殿に全てお聞きしました。

 文輝の両頬を白磁の掌で包んで、伶世の顔と向き合う。震えた声を引き絞りながら、伶世が嗚咽していた。

 この数か月の出来ごとを全て聞いた、と伶世は言う。怪異に利用されたことも天仙てんせんに利用されたことも、その結果、文輝が背負ったもののことも聞いて伶世は胸が張り裂けそうな思いをした、と涙していた。


「伶世。俺は――」

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