第七十四話 強さの定義

「――首夏しゅかは、つよいんだね」


 文輝ぶんきの抱擁をじっと受け入れていた至蘭しらんがぽつり呟く。

 そこには強い否定の響きがあった。至蘭はそうではない。至蘭は強くないからこれ以上の苦しみには耐えられない。孤独はもう嫌だ。一人きりになるぐらいなら、このままここで文輝と終わらない永遠に逃避したい。そう含まれていて、文輝は至蘭を抱きかかえる腕にもう少し力を込めた。至蘭の鼻梁が文輝の胸板に当たる。人の体温そのものの温かさに、文輝は至蘭もまたただの思念体ではなく「生きて」いることを確認した。


「お前の方が強いさ」

「どうしてそんなことを言うの?」

「なぁ至蘭。自分を棄てた人間の祈りが聞こえるのはつらくはなかったか」


 神民しんみんの数には上限がある。その数を越えて子どもが生まれれば堕ろす、殺める、棄てるのどれかを選ばなければならない。至蘭はおそらく、棄てられたのだろう、と文輝は察していた。

 そして、棄てられた先で何らかの因果関係により天仙てんせんに昇華した。

 その辺りの子細は子公しこうが調べてくれるだろうから、文輝は精査しないが、多分、至蘭は一度死んだのだろう。魂魄の巡りの循環から弾き出されて、何らかの手続きがあって天仙――二十四白にじゅうしはくとして座に降りた。

 海藍州はいらんしゅうの鎮守とされなかったのが白帝はくていの温情なのか、それともただの偶然なのかは判然としない。

 「信天翁あほうどり」というのは海藍州で神民に仕えていた一族の末裔なのだと考えるのが自然だ。海藍州の罪を知って、贖う為に至蘭のことをそっと見守っている。飛仙ひせんなのだろう。

 信天翁、というのは鳥の名だ。海風を受けてどうにか飛べる程度の、鳥として不全である種の名だ。当然、岐崔ぎさいにも沢陽口にも生息しないが、海藍州は外洋に面している。「信天翁」が信天翁を知っていても不自然なことはどこにもなかった。

 文輝の推論はもう殆ど答えを成している。

 あとは――至蘭が同意してくれれば、この問題は解決するだろう。

 至蘭はその先を見通すだけの知恵がない。文輝が言おうとしていることを理解出来ず、翡翠を困惑で彩っていた。


「……」

「お前はその苦しみを抱えて、ずっとずっと俺たちの為に在り続けてくれた」


 嘉台州かだいしゅうにあって、このくにの民の祈りを聞き届けてくれた。時代が移り変わり、信仰心が薄くなったのだろう。文輝が儀礼的な礼拝しかしないように、沢陽口たくようこうのものも「真実の祈り」を忘れた。東山の中腹にあった白帝廟はくていびょうが朽ちても、修繕するものすらいなかった。

 その状態で人を嫌うな、というのは傲慢が過ぎる。神になら何をしても許されるのか。神は何をされても許さなければならないのか。そんなことは決してないだろうというのが文輝の考えだ。

 報われなくとも慈善を行わなければならない、という状況を望んだのが自らではないのなら、そんな価値観の押し付けは即刻改めなければならないだろう。

 人にも神にも感情がある。

 全てを愛するということは全てを受容するということではない。

 勲功を勲功として認め、過ちは過ちとして糺し、そうして明日の為に出来る何かを手を取り合って探すのが文輝の思う愛だ。寄り添い合う気持ちがないものとは共に生きていくことは出来ない。思いやり合えない相手を一方的に利用する――それはただの親切心の搾取だ。敬う気持ちをなくして、共にあることは決して出来ない。

 だから。至蘭が今日に至るまで、人々の為に耐えてきたことを否定する必要はどこにもない。

 そのうえで、文輝は言う。これから先も共に在ってほしい、と。

 文輝の嘆願を聞いた至蘭は腕の中で小さく呟いた。


「――だから、首夏。わたしと一緒にここにいようよ」


 ここにいれば苦しいことも難しいことも起きないのはわかっただろう、と至蘭が言う。その通りだ。穏やかに半年の月日が巡り、何の問題もない毎日が保証されている。朝と夜を無限に繰り返したいだけなら、ここで二人でいれば不和は決して生まれない。安全な毎日だ。

 それでも。

 どうしても、文輝はその提案を肯定してやることが出来なかった。

 文輝は人として、無秩序に過ぎ去る時間の中を生きているのだから。

 首を緩く横に振る。至蘭がどうして、という顔をした。

 その顔に別の問いを投げつける。

 超次元的な解決策が、文輝の中に一つだけあった。この選択をしたと知ったら子公はきっと怒るだろう。彼の全てを懸けて、心底憤るだろう。それでも、文輝にはもうそれぐらいしか提案してやれることがない。ここで延々と堂々巡りをしていても、現実世界の問題は何も解決しないのだ。


「至蘭、お前はどうやって天仙になったんだ?」

「――しらない。気が付いたらわたしは信梨しんりのところにいたもの」

「じゃあ信梨殿に聞けば解決するのか?」


 ということならば、文輝はやはり一度ここから出ていかなければならない。

 天仙と天仙はお互いの縄張りの座標を知らないのだろう。真理を司る白瑛ですら白喜の居場所を感知出来ない。その暗黙の了解に守られた安寧を、一時的にとは言え文輝の為に崩させるのは忍びなかった。

 至蘭が理解の上限を超えた、という顔でぽかんと文輝を見上げる。その黒髪を撫でて、文輝は出来る限り柔らかく問うた。


「――首夏、何の話をしているの?」

「なぁ、至蘭。今まで何百年も何千年も耐えて来てくれただろ?」

「――うん」

「あともう百年だけ待ってくれねえか?」

「そうしたら――首夏がこちらに来るの?」


 厳密に言えば少し違う。

 白帝を守護する二十四の天仙。その枠が欠けていることを文輝たち人間ですら認知している。天仙の志願者がどのぐらいいるのかはわからないが、可能ならばそれに応募してもいい、と文輝は思った。


「信梨殿に聞かなきゃわかんねえけどさ、もしもお前が待ってくれるなら、死んだ俺の魂と魄が巡るのをやめてもいいと俺は思う」

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