第三十二話 必要な措置

小戴しょうたい殿。あなたが聞いた報告ではいつから雨が降っていないことになっているのかな」

「昨年の秋から――だ」

「では僕はその解を否定しよう。嘉台州かだいしゅう宇多郡うたぐん中嶺県ちゅうれいけん沢陽口たくようこう城郭まちにおいてこの『多雨』はもう一年以上続いている」


 嘘でも偽りでもないと委哉いさいは断言した。彼が伴った赤虎せっこ――とう華軍かぐんだったものに視線を投げる。一縷の望みを一刀両断して、黄金色の双眸が文輝の迷いを否定した。


「小戴。現実を見たのなら実利ある判断をしろ。『怪異』に触れて正気を失いたいほどお前もまだ人生に飽いてはいないだろう」

「ですが――」

初校尉しょこうい殿。山中は討論すべき場所ではないと進言する」

子公しこう。でも――」

「そこな赤虎の言う通りだ。現実はその目で見ているだろう。それとも貴様は目視以上の確信が必要なほど愚昧だったのか」


 質問の形をした否定の言葉に文輝は唇を噛んだ。子公とて今、この場所で起こっていることの全てを理解したわけではないだろう。それでも、彼はこの場所で即時対応することを選ばなかった。討論――検討と審議が必要だと彼は判断している。つまり、子公は結論に至るまでに更なる情報が必要であることを示した。


「小戴殿。姿ある迷いが必要だというのなら、僕はもう一つあなたにそれを示そう。干ばつを危惧しているのなら、測量組を派兵するのは『灌漑班かんがいはんの役割だった』のではないかな?」

「――っ!」

「湖水の沿岸のことだから、治水班ちすいはんが管轄する、というのは一つの考え方として間違っていない。それでも、真に渇水の対処をするのであれば、それは灌漑班が当たるべきで、治水班が渡河してきた、と言う事実は『かつてあなたたちに正しい情報を伝えた通信士がいるが今は不在である』という解を示しているということだろう?」


 委哉が示した「姿ある迷い」が文輝に二つのことを理解させた。

 沢陽口の城郭の外側である東山には雨が降り続く区画がある、ということと、何らかの理由または現象により沢陽口は正確な情報を報告する能力がない、ということの二つだ。

 これらを文輝の独断で解決することは事実上不可能で――たとえ文輝の上官だとしてもそれは叶わず、であれば文輝は誰かの助力を必要としている。どの段階まで力を借りることが出来るのか。その程度に至るまでの調整を行わなければならない。

 だから。


「委哉、この多雨は本当に今日明日、どうなることじゃないんだな?」

「僕の見立てではそうだね。渇水も土砂崩落の危険性もまだ遠い」


 降雨というのは通常、より高い場所で発生すると山野に染みわたり、何重もの地層を経てろ過されることで地下水となる。主に東山の山頂を覆ったこの多雨が続く限り、東山で水が涸れることはない。そして、多すぎる雨は地面に必要以上の水分を与えるが、未だ飽和状態にはない、と委哉が断言する。多分、この山頂以外で降雨しないことである種の均衡が保たれているのだろう。怪異が出現している以上、問題は排除されねばならない。それでも、綱渡りの綱はまだまだ太く、早晩途切れることではないのなら、取り急ぎ文輝がしなければならないことは現状をただ傍観することでないのもまた自明だ。


「なら帰るか」

「どこに?」

「お前たちのいた『怪異の空間』に決まってるだろ。沢陽口の連中はもう俺たちのことを認知出来ない。そう言ったのはお前じゃないか」

「僕と夕明せきめは記憶の共有が出来るけれど、夕明があなたのことを評価している理由が僕にもわかった気がするよ」


 自ら怪異と関わり合いになることを望み、交流し、そしてなお偏見や差別的言動を取ることがない右官、など文輝ぐらいのものではないか。そんなことを言われたが、怪異と関わっているのは成り行き上仕方なく、で偏見や差別的言動に至らないのは旧知――華軍がいるからだ。

 文輝の頭の一番奥には神がいる。西方守護・白帝はくていという絶対にして唯一の存在がいる。

 その、神をして不要と排除された華軍と慣れ合うのが天意に反していると知らないほど文輝は純粋でない。神意を無視する、ということはいずれ遠くない未来、文輝は何らかの報いを受けるだろう。それでも。自らの保身を優先し、不条理に目を瞑り、弱者にしわ寄せを強要してそうして繕われる偽りの安寧にはもう何の興味もないのだ。何の矛盾もなく、誰もが幸福を享受することは決してない。乱暴な言い方をすれば、文輝が幸福を得るということは誰かが不幸に耐えるということだ。百人を救う為に一人の犠牲が必要であれば、文輝は一人の犠牲を肯定するだろう。それが、官吏という職業の宿命だ。私情で、感情論で、その場の同情で決定を下すことは決して許されない。

 だから。文輝は知っているのだ。

 どれだけ責任感や使命感があるように振舞ったところで、上官が文輝に犠牲を命じれば、文輝の好悪など何の意味も成さない。それが組織で生きる、ということの報いなのだから。


「委哉、俺は聖人君子になりてえわけじゃねえよ」

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