無軌道連作怪談集「繰括る談」

棺桶六

第壱話 爺さんがいる家

 正月の予定? 家で寝正月だよ。実家には……帰らない。というか、帰ってない。10年くらい。いや、仲が悪いとかではないよ。多分、自信ないけれど。


 ……理由、ていうか。きっかけはあるんだよ。 家にさ、爺さんがいるんだ。……いや、ボケて帰り辛いとかじゃないよ。むしろ歳の割にはしっかりしてるんだろうな、と思う。何歳かなんて知らねぇけど。母方じゃない。……父方、でもない。


 酒の席だからさ。何を馬鹿言ってんだ、って笑ってほしいから話すんだが。


 生まれた時は知らないけれど、少なくとも物心ついた時から爺さんはいて。俺も昔はじいちゃんじいちゃん、って懐いてた。その爺さん、日がな一日ベッドに腰かけてて、ぼーっと外見てるだけで。あとは一日二回、飯食って、風呂入って、たまにトイレ行って、寝てるだけで。何かを話していた記憶は一度もない。でも俺と妹の良子が行くと、ちょっと笑いながら頭を撫でてくれた。


 ある時、学校の宿題で家族のことを調べてこい、っていうのがあって。家に帰ってから母さんに聞いたんだよ。父さんはどこの出身だ、とか。母さんに兄弟はいるのか、とか。そういうことを。 そしたら、父さんも母さんも父親はすでに死んでいるって聞かされて。そこで、え?と思って爺さんがいる部屋の方を振り向いた。我が家で一番日当たりのいい、大きな窓がある座敷。その時も、多分爺さんは外を見ながらぼーっとしてたんだろう。 でも、確かに母さんの言う通りだった。祖父の命日には、家族一緒で帰省して、法事に参加している記憶があった。父方も母方も。その時まで全く違和感を抱かなかったんだよ。 それで、母さんに聞いたんだ。「じゃあうちにいるおじいちゃんは、誰なの?」って。……母さん、「お爺ちゃんはお爺ちゃんよ」としか言ってくれなかった。何が不思議なのか、聞き分けのない子供に言い聞かせるように、ちょっと呆れながら。


 ……そうだよ。うちにはずっと、誰か分からない爺さんがいたんだ。


 当時の俺は「でも、僕のお祖父ちゃんは、二人とももう死んでるんじゃ」って、母さんに食い下がった。当たり前だよな、そんな状況を飲み込めるはずがない。


 そしたら、母さん。す、って目つきを変えて言ったんだ。「お爺ちゃんは※※※※※※だからいいの」って。 ……何て言ったか分からないよな。でも確かに、間違いなく「※※※※※※」って言ったんだよ。それがどこの言葉なのかも、何を意味するのかも分からないけれど。それだけ言うと、母さんは元の目つきに戻って「そんなことより宿題はやったの?」って急かしてきた。ついさっき、家族のことを調べる宿題の話をしたばかりなのに。 俺、それ以上はもう何も言えなくて。適当に誤魔化して自分の部屋へ急いで戻ったよ。


 その目つきが、俺を向いてはいるんだけど、視線はどこか、ここではない遠くにあるような――一度見たら絶対に忘れられないようなものだった。


 それからしばらくは、何もなかったんだ。 誰かも分からない爺さんは相変わらずぼーっとしたままで。父さんも母さんも、それから良子も、家族同然に爺さんと接していたし。良子なんて、俺と同じく家族を調べてこい、って宿題をやらされたはずなのにな。 おかしいのに、いつの間にか目をそらしていたんだ。見ないようにしていたから、気付くのが遅れた。あの爺さん、俺が物心ついてから見た目が全然変わってなかったんだ。いくら老人だからって10年以上も変わらないなんて、あり得ないだろ?


 ……それが起きたのは、俺が18歳の冬。高校を卒業して、後は大学へ通うため都心に借りたアパートへ引っ越すだけって時期だった。 高校の友達から、家で鍋パーティをやろうぜって誘われて。親に夕飯はいらないからって言ってから出かけたんだよ。本当は泊まって朝に帰る予定だったんだけれど、友達の一人が隠し持ってきたビールを呑んで急性アルコール中毒になってさ。救急車を呼ぶ羽目になって、その家の親父さんから大目玉を食らって。結局病院には行かずに、救急隊員がその場で処置してくれて、何とかなったんだけれど。流石に鍋を続ける空気でもないから、早めに解散になったんだ。俺の家は歩いて帰れる距離だったから、何の問題もなかった。 帰宅したのは、未成年にしてはそこそこ遅い時間。玄関を開けてただいま、って声をかけた。いつもなら父さんか誰かが、おかえりって言ってくれるんだけど。その日は何も言われなかった。家には電気が点いていたけれど、疑問に思うより早く音が聞こえたんだ。


 どん、っていう物が床に落ちたかのような音。何だろう、って思うより早く、どん、どんって今度は2回続いて。泥棒かとも思ったけれど、なら俺が帰った時点で逃げるなり俺を襲うなりしたはず。胸をざわつかせながら、俺は音のする方へ進んだ。 音は座敷からだった。家で一番いい場所。爺さんがいつも寝ているだけの部屋。爺さん?って声をかけながら――そう呼ぶのも何年ぶりだったろうか――座敷に繋がる引き戸を開けた。 見えたのは、爺さんの背中だった。最初は爺さんがベッドから落ちて、その音だと思った。でも違ったんだ、床にうずくまる爺さんの両脇から覗いた、二本の白い足。それが畳にぶつかって、どん、って音を立てた。 目の前で何が起こっているのか、理解できなくて。頭が真っ白になって。ただ頭で分かるより先に、爺さんの向こうから「助けて」っていう、妹の……良子の声が聞こえたんだ。ようやく体が動いて、「何やってんだよ!」って叫びながら爺さんを突き飛ばした。 爺さんが覆い被さっていたのは、やっぱり良子だった。何があったのかは一目瞭然で、良子の体にはいくつも痣があったし、スカートは乱暴に脱がされていた。最近は反抗期で、俺ともしばらく口をきいていなかったけれど、やっぱり大事な妹だった。


 ……それを、あいつは。 後ろから、笑い声がしたんだ。死にかけのカラスが鳴く時はこんな風だろうなっていう、げぇげぇって笑い声。振り向くと爺さんが笑ってた。俺と良子を見ながら。指をさして、何がそんなにおかしいのかってくらい。爺さんが声を発するのはその時初めて見たけど、ひどい声だった。


 よく、「カッとなって」何かをやらかした、って言うよな。頭に血がのぼって、人を殴ったり、殺したり。その時の俺は冷静だった。何をするか十分理解した上で、爺さんの手を払い除けて、首を絞めた。こいつは、ここにいてはいけないんだと。ここで殺さなきゃ、きっともっと取り返しのつかないことをやると思って。俺が首を絞めている間も、爺さんは笑ってた。呼吸できないから声は出せずに、だけど充血した目で俺を見あげながら、間違いなく笑っていたよ。


 ごり、って鈍い感触がして、爺さんの首の骨が折れたと分かった。普通は首の骨が折れただけで死ぬ訳じゃないらしいけれど、すでに窒息死してたんだろうな。もう何も抵抗しなかったよ。 がちがちに強張った指を、苦労して爺さんの首からはがした。一本ずつ。自分の指じゃないみたいだったよ。そうしたら、ようやく落ち着いた良子が「どうするの?」って訊いてきた。何をどうするのかと問われているかなんて、訊き返さずとも分かっていた。カラカラになった口内で舌がもつれそうだったけど、なんとか「車で山まで運んで、埋めてくる」って答えた。 家の近くにはちょっと小高い山があって、木々がそれなりに生い茂っていた。今考えるとガキの浅知恵だけれど、その時はそうするしかないと思ったんだ。車の免許は春休みのうちに取っていたし、免許を取る前から親父の仕事の手伝いなんかで運転していたから、問題ないと思った。 良子は手伝うって言ってくれたけれど、もう爺さんの体に触れさせたくないから断った。爺さんの体を担いだんだけれど、痩せ細っていても人間って意外と重いんだな。 家の裏にある駐車場は、家族用の車と父さんが仕事で使う軽バンが停めてあるはずだった。でもその時は軽バンしかなくて。とはいっても死体を運ぶだけなら軽バンで十分だし、運転はそっちの方が慣れてるから問題なかった。爺さんの死体と、死体を埋める用のスコップを放り込んで、誰にも見つからないように祈りながら車を出した。 裏山にはすぐ到着して、道路脇に車を停めて、死体を担ぐと山へ分け入った。そんなに進んではいなかったけれど、ここなら大丈夫だろうっていう少し開けた場所が見つかった。木の根もなかったから、1時間くらいで死体を埋めるには十分なくらい掘れた。本当はもっと深く掘らないと野犬に掘り出されて、死体なんてすぐ発見されるんだけどな。当時の俺は、とにかく死体を隠せば何とかなると思ってたんだ。 でも……穴に埋めようと、後ろに置いてある爺さんの死体へと振り返ったら。


 爺さんが立ってたんだ。


 え、と一瞬は呆気に取られたけれど。すぐに息を吹き返したんだと思った。心臓が止まっているかまでは確かめなかったから、不思議じゃなかった。手にはまだスコップを持ったままだったから、今度こそぶん殴って、確実に息の根を止めてやろうと近寄ったんだ。 でも爺さんは、だらん――と折れてぶら下がったままの頭で俺を見た。そこまで完璧に折れているんなら神経が駄目になって、体なんてまともに動かせないと思うけれど、確かに俺を見て。また笑ったんだ。 今度は声を立てなかった。笑うのも馬鹿にするというより、なんというか……「よくやった」みたいな感じで。どう違うのか理屈で説明できないけれど、とにかく違ったんだ。 そして右手を上げて、俺を指差しながら……「※※※※※※」って言った。


 気付けば俺は自分の布団で目を覚ました。 朝だったんだよ。あんまりにも自然に目が覚めたから、実は全部夢だったかもしれないと思うくらいには。でも服はそのままだったし、手足が土で汚れているから、夢じゃないと悟った。 何がどうなっているのか分からなかった。爺さんに「※※※※※※」って言われてから、その後の記憶が何もないんだ。結局爺さんの死体を埋めたのか、どうやって家に帰ったのか、そういう記憶が丸ごと抜け落ちている。


 慌てて階下の、居間に行ったら母さんが「あんた、もう卒業したからっていつまで寝てんのよ」って軽く怒ってきたけれど。内心それどころじゃなかった。だって、居間の隣にある座敷にはいつもと同じように、爺さんがベッドに腰かけていたから。 思わず「なんでいるんだよ」って口走ったら、母さんが何言ってんの、って呆れて。「そんなことより、あんた昨日の夜大変だったみたいじゃないの。あんまりハメを外すんじゃないわよ」 ……その「大変だった」っていうのが、鍋パーティの一件だってことは分かった。つまり鍋パーティは夢じゃなくて、間違いなくあったことなんだろう。じゃあその後、爺さんを殺して埋めようとしたのは? 俺は爺さんを盗み見たけれど、相変わらずぼーっと外を眺めたままだ。昨晩の凶行も、俺に首をへし折らへたことも嘘みたいに。 そうこうしていると、玄関が開いて良子が「ただいま」って言うのが聞こえた。良子は春休み中は朝練で、毎日昼頃には帰ってきてたんだ。あいつは状況を飲み込めない俺を一瞥すると「やっと起きたんだ」って呆れながら、止める間もなく爺さんのいる座敷へ入った。そしてベッドに腰掛けた爺さんに「ただいま、お爺ちゃん」って言ったんだ。 爺さんは何の反応もしなかったけれど、良子はそれで十分だったみたいだ。自分の部屋に戻ろうとしたから、腕を掴んで母さんに聞こえないよう「大丈夫なのかよ!?」って小声で問い詰めた。 でも良子は「何が?」って怪訝そうな顔をするだけだった。だから俺が、言いにくいけれど「だってお前、昨日爺さんに襲われて……」って切り出したら。


 良子のやつ。「あぁ、それは」って事も無げに。


「お爺ちゃんは※※※※※※だからいいの」


 あの時の母さんと全く同じことを。 あの時の母さんと全く同じ表情で。 どこを見ているのかまるで分からない目を、俺の方に、だけど絶対に俺以外の何かを見ながら。そう言ったんだ。


 多分、あの日がきっかけで。良子も母さんと"同じ"になったんだ。何がどうなったかは分からないけれど、もう手遅れなんだって。 それからの数日は、家を出るまで気が気じゃなかった。爺さんは相変わらずぼーっとしてたし、父さんと母さんと、良子は何も変わらなかったけれど。何かの拍子に、あの表情になるんじゃないかって。


 ようやく家を出る日、父さんが車を出してくれたんだ。大きな荷物は後から送ることになってたから、リュックサックだけ抱えて車に乗り込んだ。あの時の軽バンだったけれど、嫌とは言えなかった。 駅に着くまで、寂しいとかは一切感じなかった。とにかくあの家から早く離れたくて、リュックを抱えたまま前だけを見ていた。 そうしたら。父さんが「ごめんな」って、それだけ呟いて。何のことか聞き返すより先に、「お前は家を守ろうとしただけなのに」って。


 それ以上何も言わなかったけれど。父さんは、俺が何をしたかは知っていたんだ。それだけじゃない。あの日、どうして父さん達がいなかったのか……あの家に爺さんと良子の二人を残したまま出かけて、それで良子はどうなるか。分かった上で、二人で家を出たんだ。 本当なら、そこで問い詰めるべきだったんだろう。どういうつもりなんだ、あの爺さんは一体何者なんだ、母さんは何も言わなかったのか、って。 でも、言えなかった。その時の父さん、俺が見たこともないような……泣きそうな顔をしてたから。何か必要に迫られて、父さんじゃどうしようもない理由があってやったんだと、理解した。


 その日以来、実家には帰ってないんだ。 実家とはほとんど連絡を取っていないから、年賀状くらいでしか近況は知れないんだけれど。妹はもういい歳なのに、まだ実家で暮らしている。仕事はしているみたいだけれど、家を出るつもりはないみたいだ。 ……年賀状の写真さ、爺さんが写っているんだけれど。やっぱり見た目がずっと同じなんだ。俺が子供の頃から、ずっと。

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