第8話
桃子は眉間に皺をよせて、あれだけ気をつかって整えたのに、店のドアを開ける頃には髪は普段のようにほどけていた。
幸い、彼は来ていなかった。20分も早くついてしまったのだ。
「小黒様でご予約ですね、承っております。こちらへどうぞ」
蝶ネクタイと店の絢爛さに圧倒されそうだった。そういえば、マップアプリで検索したら、このホテル、いわゆる星、が2つ、ついていた。
なんでこんな高級な場所を選んだのだろう、という疑問より、走って来たために、急いで汗を拭きノリの悪い化粧を修正するのが先で
疑問を振り返る余裕はなかった。
「お連れ様が、御出でございます」
巨大なクリスタルガラスの窓際、日本庭園を横にした、よく陽の当たる場所だった。
「すいませーん」
小黒が速足で、焦ったように、椅子を引いた。先に引こうと待ち構えていた蝶ネクタイはとっさの出来事にギョッとして、「失礼しました」と身を避けた。
待ち合わせ10分前の午後12時20分、二人はようやく席についた。
アラカルト、と聞いていたが、それは紛れもなく、お上品なフランス料理のコースだった。昼間からこんな豪勢なもの、いや、夜の祝い事やボーナスが入った時でさえ、食べたことがない。
「お口に合いますか」
ニンジンやカボチャのソース、おそらくその色から想像するに、他にも混入しているとは思うが、生まれの貧相な私にはわからない。ベビーリーフが散って色彩が明るくて、サーモンも生ハムもミニトマトも、いかにもヨーロッパの絵画というふうで食べるのがもったいない。
「美味しいです、とても」
「ワインもどうぞ」
さっき、泡を飲み干したばかりだ。喉が渇いていたのと、自己暗示をかけるにはちょっとくらい酔った方がいいと、家飲みのビールのように扱った。泡の喉越しと粒の浮き立ちは、細いグラスの中でほんのり黄色に染まって、いかにも幸せな気分になる。安酒の身分からは想像もできない。
最初のシャンパンが空腹の胃をつたると、どうにか落ち着いた。
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