第3話

 身構えるようなこともせず、軽く言葉を交わしながら自然体で向かい合う少年と男性。そして2人から視線を外すことができない若者2人。いわゆる膠着状態ともいうべき路地裏での奇妙な均衡を崩したのは、男性の次の一言だった。


「それで、君は私をどうするつもりだい?」


 世間話を続けるようにゆったりとしたその声色自体は、先ほどまでとあまり変わらない。しかし1つ1つの音の中に微かに混じる乾いた殺気。日常の中で感じたことがないはずの者にすら、確かにそれとわからせてしまう明確な敵意。とぼけた言動で取り繕われた男性の本性、決して気の長い性格ではない苛立った内面が滲み出ている。


 若者2人は背筋に走る悪寒と足の震えが更に増し、本格的に身動きが取れなくなってしまった。なにせ悪ぶっているとはいえ、彼らもまだ未成年の学生の身。学校ではそれほど目立った素行の悪さもなく、知り合いがいなさそうなところで夜だけはっちゃける程度の、いわゆる『ちょっとだけ不良っぽいことをしている』雰囲気を楽しんでいただけだった。


 今夜は偶然いつもより調子に乗って他人に絡み、その相手が想定外の危険人物。自業自得といえばそれまでだが、単純に運が悪かったとしか言いようがない。喧嘩も修羅場も経験のない2人は深い後悔と罪悪感に苛まれていた。彼らが心の中で柄にもない神頼みまでし始めたとき、少年がゆっくりと口を開く。


「それはあんたの心がけ次第だ」


 先ほどまで一応は敬語で、しかもかなり気だるげに喋っていた者が、急に低い声で語気を強める。予想外の反応に若者2人はハッと少年を見やり、男性は目を丸くする。


「心がけ…大人しく警察に出頭しろとでも?」


「そんな面倒なことをしろとまでは言わない。ただこの場にいる全員、このまま黙って解散すれば俺も何もしない」


「急に割り込んできたと思ったら急に仕切りだすねぇ君。しかもさっきまでと喋り方とか色々違くないかい?」


「あんたが先に喧嘩の意思を示したんだ。こっちだって警戒するに決まってる。自分以外の人間が巻き込まれそうになってるなら尚更な」


 2人の会話は最早、先ほどまでの通りすがりの世間話ではなくなっている。お互いにいつ衝突してもおかしくないような敵意に溢れるものだ。男性は少し考えて、それから軽くため息をついた。


「君が彼らを助ける義理も理由もないと思うんだけどね。それに先に仕掛けてきたのは彼らだ。僕は彼らに年上として礼儀を教えてあげようと思ったんだよ」


「先に手を出した方が悪いのは当然だ。それは後で俺からも言って聞かせる。けどもしあんたが手を出したら、まず病院送りじゃすまなくなるだろ。それぐらいはなんとなくわかるし、分かった以上は見て見ぬ振りもできない」


 少年の言葉に若者2人は更に驚く。だが次の瞬間の男性の変化に対する驚きは更に大きく、恐怖で動けないはずの身体が思わず本能で後ずさるほどだった。


 目に見える変化が起こったのは男性の体格だった。170cmあるかないかといったくらいの中年男性は、気が付けば190cmにも届きそうな屈強な肉体へと変貌している。メリメリと音を立てて男性のスーツが破れ始めたかと思えば、破れた箇所から覗くのは人肌ではなく、なんと獣の毛皮だった。

 上半身は今や隙間なく太い体毛で覆われている。そして首から上は骨格すらも変化しているのか、毛が生えながらゆっくりと肉食獣のような様相になっていく。その姿はまさしく獣人と呼ぶにふさわしい。


 若者2人は一瞬あの有名な『狼男』を想像した。だが目の前のそれは彼らの知っている狼とはどこか違う顔つきだった。頭は犬のように長くも猫のように丸くもなく、体は狸のようにずんぐりも狐のようにスラリともしていない。およそ見当のつかない不思議な様子の獣を見て、口を開いたのはまたしても少年の方だった。


「あー…、『むじな』って奴かなぁ」


 頭を掻きながら落ち着き払って喋る目の前の相手に、獣人は苦々しげに語りかける。


「気に入らないねぇその態度。すべてお見通しだとでも言いたげなその余裕、ますます叩き潰したくなる」


「ますますってことは、やっぱり最初から暴力に訴えるつもりだったのか」


「当たり前だろう?日々の会社のストレスの数少ない発散方法なんだ。それを社会の厳しさも知らないガキに邪魔されたら誰だってムカつくさ」


「真面目に働いてるならこんな事せずに帰ってゆっくり休めばいいだろ。こんな時間にわざわざ自分から不良に絡まれに行ってるのか?俺は確かに社会の厳しさは知らないが、少なくとも常識はあんたよりあるみたい――」


少年が喋り終わるのを待たずに、獣人は腹立たしげに壁に拳を叩きつけた。多少古びているとはいえ、コンクリートの壁には長い亀裂が走り、空気が震える。壁から離した拳をゆっくりと開くと、太い指先からは鋭い爪が覗いている。


「あまり喋らないでくれるかい。もうさっきまでと違って気長じゃないんだ」


「さっきもあまり気長じゃなかっただろ…」


「少なくとも君が割り込むまでは落ち着いていたさ。調子に乗ったガキどもをこの姿で軽く返り討ちにすればそれで良かったんだ。君のせいだよ。君が私を怒らせたせいで君も彼らも病院のお世話になるんだ」


「結局は大けがするだろ、それ。どっちが悪いとか簡単には言えないけど、少なくともあんたのは彼らよりヤバそうだった。だから、あんたの方を止める」


 もはや獣人の台詞に冷静さは感じられない。忌々しげな呼吸は徐々に荒くなり、全身の毛は逆立っている。いつ少年に襲い掛かっても不思議ではない。


「止めるだと?私を?訳の分からんことを!これ以上私を苛立たせないことだ。もう病院送りでは済まさん。運ばれた病院ごと滅茶苦茶にしてやる!!」


 喋り続けるほどに、その言葉からは正気が失われていくように思えた。錯乱状態にも等しい相手に対し、あろうことか少年は火に油を注ぐことを選んだ。


「どうやら身体だけじゃなくてらしい。それとも寂しかった頭がフサフサになってテンション上がってんのか?そっちこそにでも行った方がいい。薄毛治療と精神科、お好きなほうをどーぞ」


 獣人が咆哮と共に少年へ突進したのは言うまでもない。若者2人の血の気が引いていくよりも早く、その毛に覆われた腕と5本の爪は少年を切り裂ける距離まで近づいた。金髪の若者は思わず目をつぶり、もう1人の若者の腕にすがり付いた。

 茶髪はそのせいでバランスを崩し、目の前にもうすぐ訪れるであろう凄惨な現実から目をそらすのが一瞬遅れてしまった。だが次の瞬間彼の目に飛び込んできたものは、想像からはあまりにもかけ離れたものだった。


 眼前に迫る獣人の腕を、少年は僅かに横にズレて難なく躱す。初撃のために重心が乗った足に自らの足を体重と共にぶつける。前方への勢いを殺し切れなくなった毛むくじゃらの腕を片手で掴み、もう片方の腕は胸倉の毛を束ねて握る。

 この一連の動作の経過時間は1秒にも満たない。


 相手の勢いを一切殺すことのない、流れるような一本背負い。


 自らの生み出した運動エネルギーはそのままに、獣人はアスファルトへと叩きつけられる。人口の堅い大地に背骨は軋み、咆哮と共に大量の空気を吐き出した肺は更に限界以上の酸素を手放してしまった。衝撃と酸欠で視界は霞み、自分の身に何が起こったのか考えることもできない。


 そんな獣人に対し少年が繰り出した、ダメ押しの喉元への下段突き。


 垂直に撃ち込まれた拳は獣人の気道を圧迫し、酸素を欲する肺を無情にも体外の空気から突き放す。呼吸困難に陥った獣人はなすすべもなく昏倒し、白目をむいて動かなくなってしまった。


 少年は2歩ほど獣人から距離を取ると、両手をすり合わせて埃を払う。そしておもむろに歩き出すと、座り込んでいる若者2人の前にしゃがみ込んだ。呆然とする2人に対し、安心させるようにゆっくりと語りかける。


「まぁ、あれだ。世の中危ない人もいるから、夜遊びもほどほどにということで」


 相変わらず抑揚のない気だるげな声だが、先ほどまでのひりついた緊張感はなくなっている。若者2人は震えながらもなんとか頷き、支え合いながら立ち上がろうとする。しかし茶髪の方がよろけてスマホを落としてしまい、そのはずみで画面が明るく灯る。少年がそれを拾って手渡した時、2人は初めて少年の顔をはっきりと見た。


 ボサついた黒髪は目元が隠れそうな長さだが、毛先に行くにつれ白くなっており、その奥の金色の瞳がよく見える。やや隈のあるその眼差しは鋭く、しかし凶暴さは感じられない不思議なものだった。


「じゃあ、お互い気を付けて帰ろうか」


 2人の感謝と謝罪の言葉を聞き流しながら、少年はその場を後にした。しかし少し歩いたところですぐに立ち止まった。そこは行きで通った道の反対側、路地裏を抜けた先だったのだが、目の前に見覚えのある黒い塊がちょこんと座っていた。

 そしてそれに気づいた直後、パトカーのサイレンが路地裏の方へ近づいているのがわかった。若者2人や獣人が呼んだとも思えず、時間的にもタイミングが良すぎる。


「もしかして警察を呼びに?」


 少年を路地裏に呼び込んだ張本人(猫)は、どこか申し訳なさそうに低い姿勢で止まっている。手段は不明だが、どうやら小動物なりに対応してくれていたらしい。


「一応ありがとう…かな」


 元を辿れば、黒猫が少年を巻き込んだのがそもそもの始まりであり、警察を呼んだくらいでどうこうなる問題ではない。だが少年はこの件について既に『自分が首を突っ込んだ』ということで飲み込んでいた。

 そのため、得体のしれない小動物に対しても律儀に感謝の気持ちを伝えるのだった。少年の言葉に安堵したのか、黒猫は踵を返して走り去っていった。


 少年のとある一夜は、こうして幕を閉じた。家に帰り、軽く風呂に入りなおした少年は、床に就いた瞬間に意識を失った。


 少年が目を覚ましたのは、午前10時を過ぎた頃だった。祖父がいなくなったことと連日の夜歩きが重なったことで、生活リズムは徐々に乱れている。少年自身それを何とかしたいと思っていたが、注意する人間がいないとどうにも楽な方へと流されてしまう。

 せめて食事くらいはしっかり摂ろうと立ち上がったそのとき、突然玄関のチャイムが鳴った。


 寝間着姿のまま玄関の戸を開けた少年は、少し後悔した。玄関の前に立っていた相手は自分と同い年くらいの、それもどこかの学校の制服を綺麗に着込んだ礼儀正しそうな少女だった。自分のだらしなさが改めて恥ずかしくなる。しかしその考えは少女の次の一言で消え去った。


「突然お伺いして申し訳ありません。えっと、立髪たつがみ穿司せんじさんは御在宅でしょうか」


 久しく呼ばれていなかった自分の名前。予想もしなかった言葉に意表を突かれつつも、少年は答える。


「俺が立髪穿司ですけど」


「あ、よかった。いつ頃家にいらっしゃるかわからなかったので、入れ違いにならないか不安だったんです」


 純朴そうな雰囲気の少女はホッと胸を撫で下ろし、そしてそんな自分にハッとして慌てて咳払いをする。真面目な性格のようだ。改まった態度で少年に向き直る。


「自己紹介が遅れました。私は私立守加櫛かみかくし学園1年、川野かわの流華るか。あなたのクラスメートになる予定の者です。」


 予想外の単語の数々と、寝起き直後のふわふわとした意識。少年は最初、その言葉の意味がよくわからなかった。


わかったのは、小川のせせらぎのような少女の声が心地いいということだけだった。

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