男前先生 (3)

 町内の地区対抗イベントは運動会だけではない。

 五月にソフトボール、六月に野球、八月にバレーボール。

 マサキは、どれも得手ではないがことごとくかり出された。

 これは多分に父親の影響が大だ。

 父親はもう出場しないが、地区の役員と太いコネがある(仲良し)ため、なにかと息子に話が下りてくる。用事がないかぎり、断らない。

 運動会に出て以来、守谷夫妻はよく会場に顔を見せた。

 旦那さんは運動ができないため、専ら応援のためだけに顔を出し、しかも飲み物など差し入れまで持ってきてくれた。

 試合は大抵一回戦で負けてしまう。応援のし甲斐もないだろうが、純子の応援は誰よりも活力に溢れていた。

 終わった後の慰労会にも出席してくれる。そういう中で、マサキは守谷夫妻と段々仲良くなり、マツコーなどで会っても話ができるようになっていった。


 日付が変わる頃、初めてのねぇさんからのライン。〈どうだった?〉といった内容に対して、〈楽しくやれました〉、〈けっこうよかったと思います〉、と当たり障りのない返信。

〈またいかせるから。何曜日でも大丈夫?〉

〈平日でお願いします。できれば夜九時以降がいいんすけど〉

 職人さんは朝が早くて大変だろうが。時間を書こうかどうか、迷ったが。

〈了解。最低週二回はいかせるようにするから〉

 週二回。「九時以降」と遅い時間を指定して、少し気が引けた。ちょっと、意地悪だったかな。

〈くるときは昼間にでもラインください〉

〈ありがとう。お礼は、か・ら・だ・で〉

 こちらの気が進まないことを、やはりねぇさんには見透かされている、のか。

〈期待してます。おやすみなさい〉

 ねぇさん、サトルさんは真剣にタケルたちのことを考えている。こちらも真剣にやらなければ。みんなの将来がかかっている。

 自分自身の将来も。

 気を取りなして、次の題材を物色し始めた。


 バイトしている……。

 学生時代にバイトしていたファストフード店、自分は、昔の自分ではなく、現在の自分(夢ではいつも「今」なのか)、カウンターで、注文を聞いている、昔もやってたから、お客さんの注文を聞いてPOSに入力する、

 見つからない、どんなに探しても、頼まれたものが見つからない、周りの人に聞く、見てもらう、なぜだろう、

 自分は、落ち着いている、前にお客さんが列を作って待っているのに、変に落ち着いている自分、

 マネージャー、社員さん、見たことあるような、でも、見たことないような、どこ、頼まれたハンバーガー、見つからない……。


 水曜日の朝、目が覚める。蒸し暑さのためか、体が重い。

 夢を反芻する。不安と落ち着き。見つからない不安と、なぜか落ち着いている自分。

 妙なリアリティと疲労、夢でよかったという安堵感が、目が覚めたばかりの体をいきなり重くした。

 ――いったい、なにを象徴している……。

 夢は現実からの逃避ではない。現実に耐えられない人のために夢があるのではなく、夢に耐えられない人のために現実はある。

 不安から逃れるように、マサキは夢から離脱する。

「見つからないもの」とは、一体なんだ。

 妙に落ち着いていたのは、どういうことだ。見つからなくても、大丈夫だ、ということか。

 不安の原因は、昨晩のタケルとの勉強にあるような気がしたが、舞台がかつてのバイト先(ブランドは同じだが店舗は別物)だったということから、あるいは島方美穂のもたらしたものなのか……。

 夢の中に無意識が、「欲望」が構造化する。あそこで仕事するのは、誰のためだ?

 ――なにが欲しい? 誰を喜ばせたいんだ?

 仕事は休み。時刻は朝八時四十分。窓の外は、隣の家の壁が白く輝いていた。今日も太陽が熱そうだ。

 ――今の仕事先じゃ、ただの「労働力」だからな……。

 食パンにマーガリンを塗ってモーニングとし、午前中は本を読んで過ごした。

 お昼のサイレンが鳴る直前、マサキはアパートを出る。車に乗って、図書館へと向かった。


 夜九時過ぎ、階段を上がってくる、ピンポンを鳴った。

「どうぞ」というマサキの声でドアが開く。

「ばんわっす」とタケルが入ってきた。今日は、少し遠くの現場で、今戻ってきたところだという。 

 ドアから「席」まで移動すると、部屋は「タケル臭」に染まる。半ばそれが合図であったかのように、成美は勉強道具をしまう。

 が、すぐに帰るわけではなく、漫画を読み始めた。

 マサキはタケルの前にプリントを出す。

「仕事で神社とかにいくことがよくあるって聞いたんで」

『神社のルーツ』という本からの出題だ。昨日と同じように読んでもらう。

「わたしの、めい、いのち(命)が終わったら」

 タケルは声を出して読み始めた。

 二回目で、慣れたのはどちらのほうだろうか。タケルの態度、表情に若干素直な感じを受けるのは、マサキのせいか、それともタケルの変化か。

 タケルの変化だとすれば、これは「変化」というより「気紛れ」かもしれない。

 マサキは、感受センサーの感度を落とさないように注意する必要がある。「終わりました」とタケルが顔を上げた。

「よし、じゃあ、設問にかかろう」

 問題文を読み終わったら宣言してくれ、とは言っていない。悪い人間ではない、決して。

「一問目。四行目の傍線①、『実に奇妙な』とあるけど、どういうところが奇妙なのか。その前に、まず、これがどこのことについて書いてあるかは、わかるかな?」

「日光東照宮」

「そう。いったことある?」

 タケルは、仕事でもプライベートでもまだいったことはないという。

 タケルは、文章を読むのが苦手なのかもしれない。

 ――ディスクレシアか。

 ディスクレシア。読み書き障害。読んだり書いたりすることが苦手である。

 主な原因は「音韻認識」にあるという。文字を読む場合、目で見た文字は脳内で音声に変換されて処理されるという。

 音韻認識に障害がある場合、例えば「りんご」という文字を見ても頭の中で「りんご」という音に正しく変換されないため(「いんこ」などの似た音に変換されてしまう)、「りんご」の文字から果物の「りんご」が導かれない、という。

 ただし、文字から音への変換に問題があるので、意味そのものはわかっている、という。

 これらの障害(障害というよりは「特徴」)は、脳の機能的特徴である。「やらない」からできないのではなく、「できない」からできない。

「できない」というのも違うか。

 他の人と同じようにできないだけで、時間をかけたり、やり方を少し変えればできるようになる。

 タケルがディスクレシアかどうか、はっきりしているわけではないが。

 ――ねぇさんとサトルさんに話してみるか。


 九時半になる。成美は既に降りている。

「大名とかなら、エッチしまくりなんすよね」

 タケルから聞いてきた。

「まあ、言ったら、殿様なんて子ども作るのが仕事みたいなとこあるからな」

「エッチが仕事なんすか」

 江戸時代二百六十年、殿様は数多あれど、「名君」と呼ばれた殿様はどれほどいたか。

「もちろんそれだけじゃないが、子どもが一番大事なことだったと思う。特に男子。丈夫な子どもを作ること。子どもがいなかったり、早くに亡くなったりして家が取り潰しになることもある」

「とりつぶし」

「国、というよりも会社で考えたほうが近いかもしれない。社長の跡取りは自分の子どもじゃなければならない、優秀でも血縁関係のない他人じゃ次の社長にはなれない。跡取りがいなければ、その会社はなくなる」

「倒産てことですか」

「家臣、城に勤めてた従業員は失業、次の就職先を見つけないといけない」

 今のようにスマホで簡単に会社と連絡とれることもない。基本的に、自分でそこにいく、歩いて。

「子どもがいなければ養子をとることもできるのだが、そのために藩主の死亡日時を操作したり、大変だったらしい」

「でも、いろんな女の子とエッチして、それで『よくやった』て言われるんでしょ。やっぱ江戸時代いいよな」

「命がけのエッチだぞ。毒殺されたり、暗殺されたりする恐れもあった。わたしは遠慮したいね」

 二人とも自分が「君主」の立場で話していることが、マサキに少しおかしかった。二人とも、江戸時代なら立派に町民してるだろうに。

 歴史に名を残す「名君」もいる。名の残っていない名君もいただろう。

 名君たることを許されなかった名君も、きっとたくさんいたに違いない。

 十時を少し過ぎた。

「じゃあ、この辺にしとくか」

「はい。お疲れっした。ありがとうございました」

 お休みなさい、と言葉をかけ合い、パタンとドアが閉まる。

 カンカンカンカンカン、階段を降りていくスピードは、この部屋を訪れたものたちの中で一番、新聞配達のお兄さんよりも速い。

 電話で話す声は、今日はなかった。タケルの残り香、昨日よりも気にならないことに気がついた。どうやら少し、慣れたようだった。


 木曜日、タケルはこなかった。無断ではなく、昼間のうちに休むというラインがきていた。

 休んだ理由などは書いていない。マサキを悩ますのは、木曜日の昼間、純子からきたラインだった。

 マサキは木曜は仕事だった。純子からのその日最初のラインは、昼間、仕事中に届いた。

〈昨日の夜、なにか変わった様子はなかった?〉。

 タケルのことだ。特になかったが。

 何かというと、今日、タケルが怪我をして出勤してきたという。

 骨折とかいうほどの大怪我ではなく、顔を少し腫らして絆創膏を貼ってきた。

 本人は「バイクでこけた」と言っているという。

 純子とサトルには、タケルのその言葉を素直に信じることができないようだった。タケルのことについて、純子が教えてくれた。

 

 タケルが守谷夫妻の元で働き始めたのは今年の三月からだ。サトルの知人の紹介だった。

 サトルや純子にはすぐにわかった。「匂い」と「目付き」でわかる。タケルは暴走族だった。

 サトルと純子から「辞めろ」と言ったことはある。続けているから何をどうするということはない。

 より強く言ったのは「怪我をするな」ということだった。

「間違っても死ぬなよ。バイクで死んだって、全然かっこよくねぇからな」

 あと、一般の人に「あんまり迷惑をかけるな」ということ。

 高校を中退して、工事現場などで働いていたこともあったが、長くは続かず、たまにバイトして金作って、あとはほとんど遊び歩いていたということだった。

 働き始めると、仕事ぶりは思った以上に真面目だった。要領もさほど悪くない。歳の近い兄のようなオサムもいて、楽しくできているようだった。

 一ヶ月ほどまえ、タケルがサトルにふっと言ったことがあった。

「族を辞めたいんすよね」

 もちろん、サトルは喜んだ。しかし、タケルの顔を見た瞬間、悟った。

 ――簡単ではないらしい。

 サトルの時代からそういうのはあった。

 自身は「くだらない」と思い、サン爆では決してそんな真似はしなかった。

 タケルは、仕事中は決して暗い顔はしない。まるで悩みなどないように。

 無理にそう装っているのではなく、それがタケルの人間性だろう。

 オサムは対照的に、どちらかと言えばおとなしい。

 ――サトル、オサム、タケル。全部「う」段で名前が終わってるな。

 オサムも、高校時分から酒を飲んだり煙草を吸ったり、決して優等生ではなかったが、族には入っていなかった。高校は卒業して、土建屋で鳶などしていた。

 その土建屋の社長がサトルと知り合いだった。オサムの意思で土建屋からサトルの元にやってきた。鳶を辞め空師を目指す。

 族を辞めたいと言ってきたタケルに、サトルは「もし、ややこしいことになりそうなら、俺に言えよ」と言っていた。

 実際、自分に何ができるかはわからないが、今でも多少「そっち方面」に顔が利かなくもない。真面目な顔で、タケルに言った。

「なんでもかんでも俺に言えってわけじゃねぇ。けどな、困ったことがあったら、なんでも俺に相談しろ。ろくに歩いたりもできねぇくせに偉そうなこと言うけどな、おめぇはもう、俺の家族だ」

 そのときのタケルの笑顔が、サトルにはさらに嬉しかった。

 ――まだまだガキだけど、こいつは人の心がわかる。

 それはオサムも同じ。二人とも、素直で根は真面目なのだ。

 ロクな十代じゃなかっただろう。そんなものは、まだまだ取り返しがつく。生きていれば。

 そのためにも、守谷夫妻はタケルに改めて勉強をして欲しいと思っていた。少しでも取り返して欲しい。きっとこの先のためになる。

 マサキのところにいき始めたことが、二人にはとても喜ばしかった。

 だからこそ、タケルの顔の傷は気になった。

 はっきり聞くべきか、白状させるべきか、余計な口を出さないほうがいいのか、サトルも純子も決めかねてた。

 一言で言えば、それはタケルの優しさがそうさせている。「なんでも相談しろ」と言ったときも、「傷どうした?」と聞いたときも、タケルは「ありがとうございます」「大丈夫っす」と、いつもの笑顔で答えるだけだった。

 心配かけたくないというタケルの優しさを大事にしたい、そして、タケルに対する信頼の証。

「なにがあっても、俺が絶対にあいつを守る」

 サトルが純子に言った。覚悟でも決意でもない。それは「行動」だ。


〈だから、できたらタケルに聞いてみて欲しい〉

 という、純子からのラインだった。

 どうやら、タケルはマサキに(初期段階の)信頼を寄せているらしい。勉強の合間にでも〈それとなく聞いてみて〉と。

「なにかあるのか?」が無理なら、「二人がほんとに心配している」ことを、マサキの口から伝えて欲しい、ということだった。

 それほど近すぎない、且つある程度信頼できる人間のほうが、話しやすい聞きやすいということはあるだろう。

 昼間、タケルから〈今日は逝けないっす。すいません〉というラインがきたとき、妙な不安と焦り、同時に少しほっとした。

 ――「行けない」の間違いかたが。

 そのくらいの間違いは誰にでもある。

 休むというラインがきたことは純子にも伝えた。純子から不安の見えるラインが返ってきた。

 マサキにはどうにも言いようがなかったが、〈大丈夫でしょう〉と返信した。

 無責任ともとれるが、タケルのマサキに対する信頼に、マサキなりに答えたつもりだった。


 夜の十一時を過ぎた。窓の外から虫たちの鳴き声が聞こえている。パソコンに向かうも集中力が長く続かない。

 タケルのこと、純子とサトルのこと、自分のこと。

 守谷夫婦の気持ちとタケルの間で板ばさみになっている自分が、やたら小さく思えた。情けなくて、涙が出そうになる。

 それは大袈裟な比喩ではない。メンタルが落ち込む、いわゆる情緒不安定という状態。マサキのそれは、薬が必要なほど重大なものではないが、ふっと、とても悲しく、何もかも投げ出したく、そんな不安に襲われる。

 それは、一瞬、ほんの数分……。

 マサキは美穂にラインする。不自然にならないほどの明るさで、当たり障りのない、少し余計に飾った挨拶程度に。

 精神的な落ち込みを共有した、そんな気がした。

 苦しみを分かち合う仲間が欲しい、美穂もきっとそうだろう、と思った。

 返事は、すぐには返ってこなかった。


 妙な寝苦しさで目が覚めた。瞬間、ゾワゾワっと鳥肌が立った。

 目を余り動かさず、部屋の気配を探る。あるいは入り口を。

 もちろん、何もない。トイレに立つ。頭のてっぺんと腹の底に、控えめな気分の悪さがあった。

 トイレから戻ってくると。

 ――明るい……。

 ぼんやりと窓辺が白くなっている。まるで、冷たくない霜がおりているかのような。窓を開けて空を見上げた。

 ――そうか、今日は月齢十五日。

 満月。

 マサキは「フッ」と鼻で笑った。まん丸に見えるが、厳密にはこれは十五日の月ではない。

 天文年鑑ではこの木曜日が満月になるのだが、もう日付が変わっている。

 さらに天文年鑑の言う、満月は木曜日の二時三十分、すなわち、真の満月はおよそ二十四時間前ということだ。

 それでも、マサキは満足だった。

 夜は、黒い光に覆われる、満点の星さえも、黒い光に飲み込まれる。そんななか、白い光は、ただマサキの部屋の窓辺にのみあった。

 およそ五分後、マサキは再び、寝苦しい夜の中に落ちていった。

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