15-11

 インターホン越しに母の不機嫌そうな声が聞こえてくる。先日お電話した水村です、と水村の母親が答える。ややあって、ぎいいと不快な音を立ててドアが開いた。声だけではなくて表情も不機嫌そうな母の顔が隙間から見える。やはりいつものように化粧っ気はない。どうぞ、と促されて俺達は家の中に入る。玄関にはバラバラに散らばった靴がひしめき合っていて、靴箱の上には父がお土産に買ってきたよく分からない置物と、自転車や家の鍵が乱雑に置かれていた。見慣れていたその光景が今はだらしなくてみっともないものに見えてきてしまう。

「べつにわざわざ来ていただかなくてもよかったんですけどね」

「そんな、こちらとしては娘を助けていただいた身ですから、ご挨拶しないことには」

 しつけな母の態度にも、水村の母親は平身低頭の様相を崩さない。なんだか情けなくなる。玄関先にずっと立たせたままで、中に入れる気もさらさらないようだ。母をじっと見つめていると、不意に目が合った。慌てて視線を爪先に向ける。それでもつむじ辺りに湿った視線を感じていた。母にとって、水村まなみは敵なのだと知った。それがはっきり分かるくらい母の視線には敵意がたっぷりと詰まっていた。どうしてこんなに嫌われてしまったのか分からない。視界の中の青いスニーカーが歪む。息がしづらくなる。こんなことなら、やっぱり会いに来なければよかった。

「これ、つまらないものですけど、どうぞ」

 そう言うと水村の母親は菓子折りの入った紙袋を渡す。母はそれを受け取り袋の口を開きいちべつすると、「どうも」と小さく礼を言った。

「禄!」

 急に部屋の奥に向かって声を張り上げる。遠くに見えるふすまが開き、少年が鼻の頭をやたらとこすりながらひょっこりと顔を出した。禄だ、と思った。いがぐり頭もくりくりとした両目も右の眉毛の上のほくろも中学二年生にしては低い背も、何も変わっていない。久し振りに見る弟の姿に喉元が熱くなるのを感じた。許されることなら、かつてそうしていたようにぎゅっと両頰を手で挟んで、そのざらざらとした頭を撫で回してやりたかった。

「これ、もらったよ。食べなさい」

 禄は紙袋ごと菓子折りを受け取ると、ありがとうございますとちょこんと頭を下げ、また部屋の奥へと消えて行った。

「あの、よかったら陸くんに直接お礼を言いたいんですけども」

 水村の母親がおずおずと申し出ると、母がぎろりと黒目を動かして睨みつけた。

「陸は会うのをいやがってますので」

「あの、一言だけでいいんですけど」

「すみませんが、今日はもうお引き取り下さい」

 そう言って母が踵を返そうとしたとき、また奥の襖が開いた。水村だった。そのまままっすぐこちらへ向かってくる。

「陸、あんたは出てこなくていいって言ったでしょ」

 そう吐き捨てられるも水村は意に介さぬ様子で俺達の目の前に立つと、ぺこりと頭を下げた。

「すみません、わざわざ来てもらっちゃいまして」

「そんな、助けてもらったのは私たちなんだから、いいのよ。ね、まなみ」

「うん。坂平君、ありがとうね」

 倣って礼を言うと、水村がゆっくりとこちらに視線を向けた。目が合う。そしてすぐについと視線を水村の母親に戻し、やたらと丁寧な口調で水村が言う。

「おばさん。ちょっとまなみさん借りてもいいですか」

「え? ええまあ、いいけど」

「ありがとうございます。水村、ちょっといい?」

 半ば強引に誘いながら水村が靴を履くと、「あんた自宅謹慎中でしょう!」と母の怒声が飛んでくる。思わず身構えるが、水村は平然とした様子で、そこの公園まで行くだけだからと顔すら見ようとしない。

「あ、それじゃあ私たちはここで。お邪魔しました」

 出て行こうとする俺たちに合わせて、水村の母親も頭を下げて部屋を出る。ドアが閉まる最後の瞬間まで、母はじいっと俺を睨み続けていた。

 ほんとうに今回はありがとうね、と過剰なほど頭を下げ続ける水村の母親と別れて、俺たちは団地のすぐ近くの公園のベンチに腰を下ろした。昼間の公園にはさほど人はおらず、小さな子供を遊ばせる母親たちの姿がちらほら見える程度だった。

「いやあほんとうに今回はごめんね、坂平くん」

 へらへらと笑う水村を、ほんとだよと肘で小突く。

「あそこで殴るか、普通? みんなポカーン状態だったぞ」

「いやあなんかカッとなっちゃって。我を忘れるってああいうのを言うんだねえ」

「カッとなるとか、水村にしては珍しいじゃん」

 はは、と乾いた笑いを浮かべる。その視線はどこを見るともなく、ただ虚空に向けられていた。

「なんか、磯矢にああいうことされても、ただ黙ってじっと耐えてる坂平くん見てたらさ、すっごくムカついてきちゃって。私もずっとああやって我慢してきてたんだなあって思ったら、いてもたってもいられなくなって、ついつい、ね」

「ついついね、じゃねえよ。まあ殴りたくなる気持ちも分かるけどさ」

「でしょ。あー気持ちよかった」

 そう言って水村は伸びをする。その言葉とは裏腹に、表情には晴れやかさはちっとも見られなかった。さぞかし嫌だっただろうな、と想像してみる。俺だって目の前で自分の体が、誰か他人から苦痛を与えられているのを見てしまったら、同じことをしてしまったかもしれない。

「それより水村、ママになんか言われなかった?」

「なんかって?」

「あの人、今日もめっちゃピリピリしてたじゃん。怒られたりしなかったかなって」

「まあ、怒られはしたけど」

 困ったように笑いながら、首筋に垂れた汗を手のひらで拭っている。相変わらず、その体は汗っかきのようだ。

「でも、坂平くんが言うほど、お母さんって怖くないと思うよ」

「えー。そうかなあ」

「うん。今回だって怒られはしたけど、私になんて声をかけていいか、わからないから怒ってるって感じだった。うまく言えないけど……怒りたくって怒ってるんじゃないって感じがする」

 なんだそれ。よく分からない。怒りたくないなら怒らなければいい。昔みたいに笑っていてくれればいいのに。

 そう心中で毒づきながらも、今日俺に向けられた敵意は、自分の息子をまもろうとしたためだったのかもしれないとも思い始めていた。母にとって水村まなみはきっと、息子を脅かす存在なのだ。

「あ、そうそう。これを渡したかったんですよ」

 押し黙ってしまった俺に、わざとらしく明るく言う。シャツの背に隠していた二冊のノートを取り出す。赤と緑のリングノートだった。その内の緑色の方を渡してくる。

「何だよ、これ」

「夏休み入っちゃったからさ、私たちあんまりもう頻繁に会えないでしょ。田崎くんと遊びに行く約束してるくらいでさ。だから、このノートに一日の出来事書きとめておいたらどうかなあと思って。そしたらとつぜん元に戻ったときでも、このノート見たらいろいろわかるでしょ。ま、日記みたいなもんかな」

「なるほどね。なんか恥ずかしいけど、了解」

 渡されたノートをぺらぺらとめくる。夏休みの日記ですら満足に書けた記憶がなかったが、そうも言っていられないだろう。戻ったときに困るのは水村なのだ。

「戻るとき、来るのかなあ」

 思わず口に出してしまう。しまった、と慌てて唇を嚙んだがしっかり水村に聞こえてしまっていたようだった。もうその類の言葉は口にしないと決めていたのに。

「夏だよ。今年の夏が終わるまでは我慢しよう」

 それでも水村は、ただ屈託なく笑う。

「夏?」

「そう、夏。なんていうかさ、こういう不思議なお話って、ひと夏の物語って感じしない?」

 なんだそりゃ、と思わず笑う。

「だからさ、今年の夏だけがんばって乗り切ろ」

「おう、そうだな」

 結局そうやって水村に励まされてしまう。体のずっと奥の方が自己嫌悪で沈み込む。いっそ水村も弱音を吐いてくれればいいのに。二度と戻れなかったらどうしよう、と二人で泣き合えたらいいのに。無意味な傷の舐め合いでも、無理に笑顔を作るよりはずっといいのに。

「月乃くんとさ、夏休みどっか行こうとか言ってる?」

「ん。とりあえず、夏祭りには行こうって話してる」

「そっかあ。いいなああ、私も月乃くんと夏祭り行きたかったよー」

 水村がノートを胸に抱え天を仰ぐ。俺も真似をして空を見上げてみた。照り付ける日差しがまぶしくて目をすがめる。いつの間にか聞こえていた蟬の鳴き声が、余計夏の強さを感じさせている気がする。皮膚にまとわりつくような粘つく暑さで、鼻の頭に丸く汗をかいていた。

「空とか、あんまこうやって見ることないよね」

 水村が額に浮かぶ汗を手の甲で拭う。俺は何も答えず、その仕草を見届けてまた空を見上げる。空は子供が画用紙に塗りたくるような噓っぽすぎる青で、雲はその中をちらちらと泳ぐ。真ん中には自己主張の強い太陽が一つ光っている。確かに、晴れた空を眺めるのは久し振りだった。どうしてだろうと考えて、雨が降りそうな曇り空の時にしか、天気なんて確かめたりしないからだと気付く。

「また来年の夏行けばいいじゃん」

 体を戻して言う。同じように、水村も体を戻す。

「そうだね。来年の楽しみに取っとく。ありがと、坂平くん」

 そう言って水村が破顔する。あてのない希望でも、とにかくすがってみたかった。縋り続ければ、きっと神様だって見かねて助けてくれる。そうやって言い聞かせて、必死で自分の中の不安な声をかき消し、大きく息を吸い込む。

 湿った夏の匂いがした。

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