7 龍王の花嫁(8)

 イナノメ殿はわたしの考えを掬い上げるように浅くうなずいた。


「不老不死、とまではいかないだろう。でもおれたちは龍王から血を与えられ、龍王が支配できる存在になった。龍王の許可なく老いることも死ぬこともない」


 おそらく多くのものにとっては毒なのだろう。だが龍王の力の断片を受け入れるだけの素地を備えていれば、血は力となる。

 残念ながら帝国兵や侍女は龍王の血に打ち克つことができなかった。黒騎士殿は帝国軍のなかで最高齢の指揮官だった。本来は力のあるかただが、老いのためだろう肉体が順応しきれなかったということか。


「支配というのは、眷属、というやつか?」

「そうだ。多くの悪魔にとっては単なる上下関係をあらわす言葉だが、龍王にかぎってはほんとうにそのいのちを握っている」


 潮騒にシロカネの笑い声が混じる。イナノメ殿は目を伏せた。


「あの日シロカネを置いていったのも龍王が突然あらわれたからだ。気配を感じたときにはもう遅く、すでにベッドの横に立っていた。聞きたいことがあるというから、お茶でも出そうと言ってどうにかシロカネを隠したんだ。あの化け物をシロカネに近づけさせたくなかった」

「龍王はこれまでにも?」

「いや、はじめてのことだ。フィオーレさんのことを聞かれたよ」

「フィオーレの……」


 イナノメ殿は静かにうなずく。

 ワインを飲んで、帝国兵と侍女が倒れ、また黒騎士殿も助からなかった。そうしてイナノメ殿とテオリアが残され……、いや、ふたりだけではない。その場にはもうひとりいる。

 つまり。


「フィオーレも、生きて……」


 イナノメ殿はわずかに顔を曇らせる。


「ああ。しばらく会っていないが、おそらく変わらず花のようにうつくしいまま」


 わたしはイナノメ殿の顔を見つめたまま、息をするのも忘れてしまう。


 この世界に、フィオーレがいる。

 会えるかもしれない。


 そう心が華やいだ一瞬あとに、わたしは背すじがぞっとした。

 あの子も龍王の血を飲んだ。それはつまり、そのとき殺されていたかもしれないということだ。いまも生きているのは結果にすぎない。


 誰よりも会いたいと願っていたフィオーレだからこそ、そのおそろしさが一気に現実味を帯びた。


「すまない、イナノメ殿……」

「なぜきみが謝る。そんな必要はない」

「しかしこの喜びと罪深さ、そして怒り。フィオーレとおなじ境遇であるのに、わたしはあなたに対しては思いが至らなかった」


 わたしは両手で顔を覆い、体を折り曲げた。そうしていないと叫び出し、暴れ出してしまいそうだった。龍王に対する怒りだけではない。その矛先はわたし自身にも向けられていた。


「ひどい、なんてひどいことを……こんなのはあまりに……」


 恐れと怒りが綯い交ぜになって体の震えがとまらない。

 うずくまるわたしの肩に、イナノメ殿の手が置かれる。


「おれも受け入れるのに時間がかかった。そもそもシロカネと出会っていなかったら、いまでも龍王のことを許せなかっただろう」

「どうして龍王はこんなことを」

「さあ。おれはそれを訊ねる前に龍王に斬りかかって片目を失った。それからは一度も政庁を訪れてはいない。斬りかかるのではなく問いかけるべきだったと思うこともある。だが後悔はしていない。視野の半分を失ったけれど、その分、残った世界は鮮明になった気がするよ。そこにはいつも、あの子がいてくれたから」


 やさしい声音に、わたしは顔をあげた。

 イナノメ殿の視線の先には、メテオラと砂の城を作っているシロカネの姿があった。


「黒騎士や、兵士や、侍女だけではない。大勢殺されたし、おれは大勢を殺した。だがそれを償わせることも、償うこともできないんだ。失われたものは、二度と戻らない。このいびつな生命は、その報いなのだと思っている。おそらく赤騎士もおなじように考えているはずだ。おれのように逃げ出すこともなく……」


 わたしはパルコシェニコでのテオリアの言葉を思い出す。


『それがわたしの負った責任ですから』


 足もとの砂地を小さな蟹が歩いていく。ブーツの爪先が行く手を阻んでいたので、膝を抱えて足をあげてやる。蟹ははじめから障害物などなかったかのように、ひょこひょことわたしの前を横切っていった。


 潮風に、ふわりとあまい香りが混じる。蟹の残したかすかな軌跡を、跪いた膝がかき消す。


「ルーチェ」


 たぶんわたしはこの声に名を呼ばれるのがすきだ。それに出会えたのも、わたしのいのちが百年後まで続いていたから。わたしのいのちを繋いでくれたのはフィオーレと思っていたが、それは場合によっては龍王のおかげかもしれないのだ。

 わたしは抱えた膝のあいだに額を押し付けた。わたしの胸のうちにうまれるあらゆる感情が、どれもあってはいけないもののようでひどく苦しい。


 メテオラの大きな手とシロカネの小さな手が、きつく膝を抱えたわたしの手を握る。その手がどちらも砂まみれでべたついていたので、わたしはたまらず笑みをこぼした。


「おまえたち、海水でべたべただな」

「シロカネが押し倒してきたんだよ」

「違います、メテオラさんがけしかけてきたんです」

「いいから手を離せ、わたしまでべたべたになる」

「そうはいきません。いかないんです」


 シロカネはわたしとイナノメ殿のあいだに座って、わたしの腕にしがみついてきた。


「ぼく、ルーチェさんのことたくさん知ってますよ。危険を顧みずぼくのことを助けてくれたり、にこやかに捻くれてるメテオラさんを手なずけたり、神出鬼没の弓弦の魔女とふつーに喋ったり、すごい人なんです。それなのに、何でも食べるって言うわりに貝類はこっそりメテオラさんのところによそってたり、寝つきがいい夜にかぎって変な寝言をむにゃむにゃしたり、お風呂好きすぎてお風呂あがりはいつも茹でダコみたいになってたり。ぼくはそんなルーチェさんがだいすきです」


 シロカネの高い体温が潮風で冷えた体に心地いい。


「だから、ひとりでそんな悲しい顔しないでください。ぼくたちにも分けてください。ここにはルーチェさんのほかに三人もよい男がいるんですから。まあ、いちばんは僅差でぼくですけどね」

「それ、二番はもちろんおれだよね」

「はあ? 寝ぼけてるんですか、メテオラさん。ぼくと甲乙つけがたいのは師匠に決まってるでしょうが。あなたはぶっちぎりの三番です」


 メテオラとシロカネはわたしを挟んで頬のつねり合いになる。イナノメ殿はそれを微笑ましそうに眺めて笑うばかりだ。


「もう、やるなら向こうでやれ!」


 たまらずわたしが声をあげると、ふたりは顔を見合わせて、グータッチを交わした。

 シロカネは突然あっとこぼしたかと思うと、お城見てくださいと妙に騒いで、イナノメ殿を波打ち際へと連れていってしまう。


「いいのか、あれはおまえの手柄じゃないのか」

「いいよ」


 メテオラはわたしの正面にしゃがみこみ、わたしの膝に両腕を置く。そうして微笑むでもない、やわらかな目をした。


「ここにいる」


 スカイブルーの瞳には星が流れつづけている。わたしはその瞳をいつまでだって見つめていたいと思う。


「ありがとう」


 わたしはメテオラの前髪についた砂を払ってやった。

 漁村で風呂とご馳走をいただいたあと、シロカネが眠るのを待ち、イナノメ殿に挨拶をして、わたしとメテオラは馬を駆って政庁へ向かった。



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