―ファンレター―果たして、物語に落とされた『転生者』は登場人物にとって恐怖になり得るのか?

天藤けいじ

プロローグ

 ひゅう、ひゅう、と呼吸する音が響いていた。

 まるで窓から入り込む隙間風のような儚く小さいもの。

 耳を澄ませなければいつの間にか消えていてもおかしくない。


 その息は、目の前に倒れている男のものだと思っていた。

 以前病院のベッドで死にゆく祖父を看取った時、最後の呼吸はこんなふうに切ないものだったからだ。


 だがやがて、それは自分の呼吸の音だったのだと気が付く。

 倒れる男の胸は、すでに上下していなかった。


 肺のあたりにいくつも穴を開けていたから、最初は吸った空気が漏れ出して苦しそうな音をたてていたのかもしれない。

 だが彼の鼻は、口は、もう二度と新鮮な酸素を取り込むことはない。


 敬愛する人は、死んだ。

 その事実を理解すると、途端に悲しさが襲ってきた。


「貴方が悪いんです。どうして僕の言う通りに描いてくれなかったんですか?」


 思わず漏れた呟きと同時に、体から力が抜けていく。

 だらりとたれ下げた腕の先から、ナイフが滑り落ちる。


 生々しい鮮血にまみれ輝きを無くしたそれは、床に体をぶつけてからんと音をたてた。

 グロテスクな光景に似合わぬ、意外にも美しい音だった。


 自分はなんて哀れで可哀想な人間なんだろう。

 これでもう愛すべき『ローゼンナイト』の続きは描かれることはなくなってしまった。


 しかしこれで良かったのだ。

 これ以上愛するものが汚されて変わっていく様はもう見たくない。


 ぽろぽろと涙をこぼして、視線を男から部屋の隅にあるデスクへと移動させる。

 その上には最新型のパソコンとペンタブレット…デジタルで作画する道具一式がそろっている。


 彼は最後までこのパソコンを気にしていた。

 この道具で最後まで彼は愛すべき『ローゼンナイト』を執筆していたのだ。

 己に胸を貫かれてなお、「せめて原稿だけは」と懇願していた。


 途端にかっと怒りが舞い戻ってくる。

 この中に忌まわしい邪悪の結果が入っているのだと思うと、頭の中が真っ白になった。


 冷たく鎮座する機械につかみかかり、声を上げてなぎ倒す。

 悲鳴のような音を立てて、モニタもタブレットも床に落ちていく。


 丈夫な構造なのか傷一つついていない機械にさらに腹をたてて、今度は足で何度も踏みつけた。

 万力の力を込めれば、がしゃん、がしゃん、と見る間にモニタはひび割れ、タブレットは配線や部品がむき出しになっていく。


 彼の仕事道具が見るも無残な姿になってようやく、膝をついて破壊を止めた。

 足の裏が痛くて仕方ない。あれほど固いものを踏みつけたのだ。怪我をしているのかもしれない。


 そんな自分が、ないがしろにされた自分の心があまりにも哀れだった。


「もう……もう何も見たくない……」


 う、う、と涙を流しきったあと、よろよろと立ち上がると部屋の扉へと歩み寄る。

 逃げるつもりは無い。全てを終わらせるだけだった。


 顔を歪めながら用意していたポリタンクを運び込み、中身を部屋にまいていく。

 ガソリン独特の鼻につく嫌な臭いが立ち込めた。


 すっかり床をびしゃびしゃにしたあと、本当に最後と思い倒れる男を振り返った。

 彼はもう動かない。その右腕は二度とペンを握ることはない。

 『ローゼンナイト』の最新話がこの世に送り出されることはもうないのだ。


 それに酷く安心した。同時に酷く悲しかった。


 枯れたはずの涙が、また一つぽろりと頬を伝う。

 嗚咽が漏れる前にポケットをまさぐり、隠し持っていたライターを握る。


「さようなら、愛しています。僕の先生」


 それだけ言い残すと、ためらわずライターに火をつけた。

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