第5話 恋愛の下克上
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(
「じゃぶじゃぶと洗ってと……」
どこからかで拾った赤い取っ手の洗車ブラシを使い、丁寧に手入れする靴の裏には、ガムと排泄物の付着物。
相手が相手だけに、そう簡単には取れそうにない。
「おい、嬢ちゃん」
「はい、何でしょう?」
私のすぐ後ろに、二メートルくらいの巨人のスキンヘッドおじさんが、煙草を吹かせながら立っていた。
「俺と
「意味が分かりません……」
「ああん? 地面に掘られた、この線をよく見てみろ」
男が何かしらの棒で線を引いた跡を、ゴツい指でツンツンと指す。
その線の内側に、私は片足を踏み入れていた。
場内への踏み出しは、およそ一センチといったところかな。
「嬢ちゃんのせいで、
この人、最低ね。
自分に不都合があったら、身近な他人に当たる男って。
年齢からして、男の更年期というものかな。
自分が正しいということを、人に押しつけるのは良くない。
プライドが高くて、譲れない気持ちも分かるけど、女から見たら、駄々っ子を言っているお子様。
でも、こういう男って、好きな女にだけは優しいんだよね。
心を開いた相手にはデレデレする。
まあ、それも人によりけりだし、私からして見れば、ツンデレ男ってイタイだけだけど。
しかもそれプラス、女のようなネチネチとした細かい性格ときたものだ。
私が好きな優希君とは大違いだ。
……というか、おじさん、その歳でゲームの女の子を推してるの?
思わず、心の中でウケてしまう。
「何、笑ってるんだ。そんなにおかしいのか、このビッチが!!」
「きゃっ!?」
男が私の手を強引に持っていき、木陰で胸ぐらを掴む。
この男は見ず知らずの女に対して、急に暴行を起こすのか?
「ちょっとおじさん。そこまでにしなよ!」
そこへ飛びかかる甲高い声。
誰、白馬の王子さま?
「何だと、この
「うっさい。チェイスとっ!」
「ぐぶっ!?」
何ごとかと叫んでいた男の顔面に、缶コーヒーの空き缶が突っ込んでいた。
ズズーンという音を立てて、地面に降下する大きな体。
男は顔面蒼白のまま、白目を剥いている……。
「刹那、怪我はない?」
「えっ、
その相手は見慣れた女の子だった。
白いランニングシャツの鵺朱ちゃんが、男の枯れ果てた姿に腰を抜かした私に、そっと手を差し出した。
「モスド(ハンバーガー店)行った帰りに、偶然、見知った姿があったから、もしかしてと思ってさ」
「ありがとう。助かったよ」
私は鵺朱ちゃんに、お礼の頭を下げる。
「よしてよ、そんな大層なことはしていないんだから」
鵺朱ちゃんは赤面しながら、頬をポリポリと掻く。
何か、可愛いな。
いつもと違う、彼女の一面が見れた。
そう、ちょうど私の妹みたいで。
あっ、そうだった!
「鵺朱ちゃん、
「いつもの妹ちゃん? ボクは見てないよ?」
「そうなんだ……」
私は落胆して、芝生にしゃがみこんだ。
『ちょっとズボンが汚れるよ』と、止める鵺朱ちゃんの声も、お構いなしに……。
「何々、いつもの喧嘩?」
「ううん、今回は、ちょっと違って……」
私は、さっきあったばかりのありったけの想いを口に出した。
そんな私の一方通行の話に、鵺朱ちゃんは特に突っ込まずに、聞き手役になっていた。
「──なるほど。そんなことがあったのかあ」
「ねえ、刹那から謝るべきかな」
「いや、刹那、喧嘩両成敗という言葉を知ってる?」
鵺朱ちゃんの質問に無言で頷く。
喧嘩は仕掛ける方も、加わる方も悪いと言う言葉だ。
「そうそう。どっちにも原因があると言うことよ。見つけたら、ちゃっちゃっと話し合って仲直りしなよ」
「うん、分かった」
私は再度立って、公園の空気をあおぐ。
水源が近いせいか、湿っぽい土の香りがした。
「それよりも彼氏とデート中じゃなかったの? さっきから、
「あっ、忘れてた!?」
「ははっ、刹那らしいドジっ子ぶりやね」
「もう、からかうのはやめてよ」
「ごめん、ごめん」
照れ隠しに、鵺朱ちゃんの背中をポカポカと叩く。
彼女は無神経に、ケラケラと笑っていた。
「じゃあ、ボクは帰るからさ」
ひとしきり笑った鵺朱ちゃんが、公園から離れていく。
私は彼女の姿が見えなくなるまで、大きく手を振っていた……。
****
(優希Side)
「すみません、こんな女の子を見ませんでしたか?」
「いや、あの。もう行っていいですか?」
居なくなった刹那を探し求め、公園から少しそれた路地裏で、僕がメモ帳に書いた漫画イラストを見せる度に、カップルが逃げるように去っていく。
「何だ、僕の書いたイラストが、そんなに上手くてビックリなのか?」
こんな時に備えて、絵の勉強をしていて良かった。
僕は感傷にふけり、拳を大空に突き上げる。
「そんなわけないでしょ」
「のわっ、鵺朱じゃないか? どうしてこんな場所に?」
「別に。たまたま通りかかっただけよ。それよりも、そのキモいイラストをしまってよ」
「これのどこが変なんだよ。今日まで萌えイラストの練習を積み重ねてきたんだぞ」
「どこが? 背がちんちくりんで、鼻がほとんどなくて、目がやたらと大きくてさ。どこの異星人よ?」
「何だと。お前には、この萌えの絵による、素晴らしい構図は分かるまい」
「いや、分かりたくもないんだけど……」
『ヒクわ』と言いながら、僕から一歩後ずさる鵺朱。
鵺朱はいつにもなく、顔色が悪かった。
「まあ、それはともかく、愛しの彼女の刹那が公園内で探していたわよ。早く行け、リア充」
「なっ、何で刹那の話はしてもないのに、分かるんだよ?」
「言わなくても、言動でバレバレだって」
鵺朱が、僕の腹に拳を小突く。
「いい? 彼女を泣かしたら、ボクが許さないんだからね!」
それっきり、鵺朱はその場から離れていった。
その時の僕は、まだ理解していなかった。
彼女による、恋愛の下克上に……。
****
『ピンポーン♪』
「はいっ! 少々お待ちください!」
──お客さんからの呼び鈴に、真っ直ぐに向かう一人の少女。
ここは
その店舗ネームのごとく、女性店員がマニアックなメイド服を着て、飲食の接待をするお店だ。
ちなみに勘違いしないで欲しい。
黒をメインとし、白のフリルのエプロンを基調とした衣装は奇抜だが、中身は純粋なファミレスだ。
男性店員は、白い蝶ネクタイで首元を飾るだけの地味な黒いタキシード風の格好だったが……。
(僕は男の子で良かったよ)
毎回ながら見えそうな絶対領域の上のスカートに、僕の揺るぎなき心が揺さぶられていた……。
──マニアッグ本社は東京にあり、神奈川にある小田屋金名市にあるここは姉妹店にあたる。
僕も一人暮らしも兼ねて、この付近に引っ越してきて、ここでバイトを始めたのだが、爪が甘かった。
「はいはい、響、邪魔だから、そんなところでボーと突っ立てないで。オーダー入るわよ」
鵺朱も追いかけるように、このバイト先に入ってくるなんて……。
◇◆◇◆
一週間前……。
「優希君、この前、人手が足りないと嘆いていたよね」
キッチンでの皿洗いを終えて休憩にいこうとした時、鼻の下にちょび髭を生やした、中年男性の
「ええ。この前の休日の昼ピークなんて、厨房に接客と、あちこち動いて大変でしたよ」
「そうか、話はかねがね聞いているよ。いつもすまないね」
「いえいえ。賃金を貰っているからには、真面目に働きませんと」
「うむ、良い答えだ。他の子たちに、その垢を煎じて飲ませたい気分だよ」
「ありがとうございます」
食材を扱う店で、垢の表現力である慣用句の使い方は、どうかと思ったが、取り合えず、礼儀を通しておく。
「そんな優希君に朗報だ。土日と休日限定だが、新しいバイトの子を一人採用することになった」
「えっ、急にですね?」
「ふふっ、優希君を驚かせたくてね。相手は優希君も振り返るような絶世の美少女だからね」
「店長、からかわないで下さい。僕は彼女持ちですよ」
「ふふっ、三角関係も萌えるねえ」
「店長、僕の話を聞いてます?」
「あはは、冗談だよ。そんなにマジになるなよ。じゃあ、今日からだから、よろしく頼むよ」
本人は意識してないようだけど、店長の冗談は、たまにキツい時があるからなあ。
それにしても、絶世の美少女か。
エジブドから、クレオパトリの祖先でもやって来るのか?
(まあ、僕は刹那一途だからな)
僕は休憩室で、まかないのしょうが焼きを食べながら、物思いにふけっていた。
「ああー、やっぱり響じゃん♪」
「うっ、ゴホゴホ!?」
突然の来訪者に、僕は麦茶を喉に引っかけた。
驚くのも無理もない。
その新入のバイトの子が、幼馴染みの鵺朱だったのだ……。
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