1. 執務室にて
中央図書館四階の一角にあるここ、通常執務室は、周囲の建物のほぼ全てを見下ろせるほど、高いところにある。なのだけど、ほとんど窓がないためか、なかなかその高度を実感することはなかった。
高所恐怖症の私にとって、それはとてもありがたかった。いやまあ、高い以外にも、怖いのもグロいのも、ついでに芋虫も、割と無理なんだけどね。つくづく生きにくい性格してるよなあ、私……
そんなガラスのメンタルを持つ私にとって、この落ち着いた空気に満ちた執務室は、まさに心のオアシスだった。本を痛めないオレンジっぽい柔らかな照明も好きだし、机も椅子も、幼い頃からずっと入り浸っていた図書館の雰囲気がある。半分本棚の地縛霊みたいな存在だった自分にとって、この仕事場はまさしくホームみたいな環境だった。
並べられた木製の机と椅子にはそれぞれ、ジュノさんお手製らしい小さな人形と、刺繍の入ったマットレスが常備されていた。私の机の上には、柔らかなキルト生地でできた灰色の猫が、ちょこんとすました顔で座っている。
先ほどこれからの仕事場として案内された時に、最近では一番の自信作なのだと嬉しそうに自慢されたこの子を、私もとても気に入った。心の中でこっそり"キルティ"と名付け、この仕事を続ける限り、ずっと可愛がっていこうと思った。……そんなに長くいれるかも分からないけれど。
いやいや、と心に生まれる嫌な雲を振り払う。俗世を生きるにはあまりに脆い私にとって、ここは世界に僅かしかない自分がうまく息ができる場所なのだ。きちんと仕事をして、必要とされて、ここで生きていく他に私が私らしく生きる術はない、と思う。まずは自分自身を肯定してあげようと『新人一年目の心得百選』の七十五ページに書いてあったじゃないか。
それに、と自分を奮い立たせるように目線を壁側に上げる。今の私にはこれがある。この部屋における何よりのお気に入り。窓側以外の壁ほぼ全てを埋め尽くす大量の本たちだった。
ここにある魔導書たちは、そのほとんどが魔本。つまり作成途中の状態なのだが、それでもやっぱり背表紙の質感だったり、ほのかな紙の匂いだったりは、私の気持ちを優しく静めてくれる気がした。
……そんなに多くの安らぎに囲まれてなお、抗うことのできないほどの緊張がこの世に存在することは、たった今身に染みて学んだわけだけど。
「もういいぜ。ご苦労さん」
私がカチコチになりながら椅子に座っている前で、持続していた映写魔術を解除し終えたアテムさんが、ぶっきらぼうにこちらを労ってくれる。その言葉で一気に肩の力が抜け、思わず机に突っ伏してしまう。キルティはすまし顔のまま、空気の抜けた風船みたいにグロッキーな私を見守っていた。
新人の抱負発表を行う、ということを聞かされたのが今日の朝。それを映像記録として残すのがこの課の昔からの習わしだというのを聞かされたのがついさっきだったから、話すことから何から、オールアドリブもいいところだった。
こういう行事があるならせめて事前に教えて欲しかったなあ。そしたらあらかじめ、言うこととか色々考えてきたのに。むくりと机から身体を起こして、対岸の机で何かの作業を進めるアテムさんを振り返る。
「さっきみたいなので、本当に大丈夫だったんでしょうか?」
「ああ?」
ちょっと問いかけただけなのに、振り返ってギロリと睨まれた。わ、私そんな怒られるようなこと聞きましたかね? この先輩、いい人なのはなんとなくわかるんだけど、ちょっと話すの怖いんだよなあ……
背は女性の中でも低い方の私よりもさらに少し低いし、着ている青い魔法服も少しサイズがぶかぶか気味だし、顔立ちとかも可愛い部類のはずなのに、肝心の表情、特に目つきの威圧感がすごい。ずっとガンを飛ばし続けてるみたい。
本人は「目が良くないから仕方なくだ」とか言ってたけど、それなら眼鏡をかければいいのにといつも思う。そういった頑固なところも含めて、見た目は子供、態度は偏屈親父、という感じ。
普通なら子供が目一杯背伸びしてるみたいな微笑ましい絵になるところなのに、不思議とちゃんと様になっているのはなんでなんだろう。これが社会人としての年季ってやつなんだろうか。
「いいんだよ。こんくらいごちゃついてる方がいいんだ」
「ごちゃついてるって……」
第一印象で”デキる新人”を演出したかったのに、その目論見はどうやら失敗したようだった。やっぱり世の中うまくいかないものだ。
「あら、気にすることないわよ。みんな最初はこんな感じ。ドンマイドンマイ」
奥の方のデスクから聞こえるジュノさんののんびり優しいフォローが、今はかえって傷口に染みる。おっとりと笑うこの人がジュノさんで、私とアテムさんの所属する執筆課全体の長にあたる。
白地に銀の縁があしらわれた魔法服。大きな帽子の下から見える鮮やかなピンクの髪が、白の衣装とコントラストをなしていて、とても印象的だった。常にニコニコしていて優しいお姉さんなのだけれど、余裕がある中にも隙の無さみたいなものも確かに感じられる。
ああ、なんていうか、社会人だなあ。自分もあんなカッコいい大人にいつかはなれるんだろうか。無意識に自分のおかっぱ気味の髪を触ってみた。……このままじゃきっと無理なんだろうなあ。
「ふふ。じゃあ今日は初日だし、私の方から色々説明していくわね。最初はこの課の話、あなたの担当のお話をしてから、各窓口に一緒にご挨拶に行きましょうか」
「はいっ!」
羽ペンとメモ帳を片手に、勢いよく立ち上がる。新人は元気とフレッシュさだけが取り柄だと『大人のイロハ』の37ページ、20行目にも書いてあった。初手でつまずいた分、ここからどんどんアピールしていかないと。
「はい、良いお返事。ここじゃなんだし、局の案内も兼ねて小会議室にでも行きましょう」
ジュノさんが廊下の方へ向かうのに遅れないようついて行く。すぐ横を通る時に、ほんのりと良い香りがした。この香水は、ラベンダーかな? それともカモミール?
それっぽいカタカナを並べることしかできない、オシャレとは縁遠い生活を送ってきた過去の自分が恨めしい。カッコいい大人への道のりは、きっと果てしなく長い。
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