第7話 入学式
朝、まだ陽が昇りきらない薄明の空気の中で、咲良は一人、部屋の鏡の前に立っていた。
制服のブレザーの袖を通しながら、胸の前のリボンを結ぶ。
けれど、鏡に映る自分の姿にどこか違和感が残っていた。
(高校生って、こんな感じだったっけ……)
鏡の中の少女は、どこかまだ中学生のように幼くて、けれど制服だけが急に大人びて見えた。
スカートの裾を両手でそっと整え、咲良は視線を落とす。
右足の膝から下――義足が、朝の光を反射してほんのりと輝いていた。
(今日から、私はここで生きるんだ)
小さくうなずくと、咲良は義足のカバーに触れながら、深く呼吸した。
ブレザーのポケットに、小さな防水タオルを忍ばせてある。
不安で、何度も汗をぬぐってしまうから。
階段を下りると、すでに兄たちの声が聞こえてきた。
「咲良、おはようー!制服、いいじゃん!」
そう声をかけてきたのは次男・海人。
今日も寝癖を直しきれていない髪のまま、トーストを咥えていた。
「やっぱ咲良って、正統派って感じよな〜。なんか、清楚」
「……変なこと言わないの」
小声で咲良が返すと、海人は笑って「照れてる?」とからかってきた。
長男の颯真は、玄関の近くでスーツのジャケットに袖を通しているところだった。
大学のオリエンテーションがあるらしく、朝から外出らしい。
「咲良、気をつけてな。今日からやな。頑張ってこい」
「……うん、ありがとう」
そう答えながらも、咲良の視線は、玄関先に立つ一人の姿に引き寄せられていた。
蒼――高校二年生の三男で、同じ学校の先輩。
朝日を背にして立つその姿は、どこか影のように冷たく見える。
蒼は何も言わず、咲良の義足に一瞥をくれたかと思うと、低い声で言った。
「学校では、介護するつもりはないから」
その言葉に、一瞬、空気が凍ったような気がした。
咲良は眉をひそめ、蒼の冷たい視線を正面から受け止める。
「……頼るつもりはありません」
その一言に、蒼の表情がかすかに動いた。
けれどすぐに目を逸らし、無言で靴を履いて、玄関を出ていった。
「朝からピリピリしてるなぁ、あの二人」
海人が苦笑する。
「ま、蒼も蒼なりに気にしてんだよ。ああ見えて」
六男の凛がそう言って、咲良の鞄を持ってくれた。
「じゃ、途中まで一緒に行くよ。初日だし、道わかんないっしょ?」
「……うん。ありがとう」
外に出ると、春の風が制服の裾を揺らした。
少しひんやりした空気が、咲良の緊張を和らげてくれるようだった。
学校に着くと、正門の前にはすでにたくさんの新入生たちが集まっていた。
制服姿の男女が、それぞれ緊張した面持ちで写真を撮ったり、家族と話したりしている。
咲良は鞄の中から受験票を取り出し、受付の場所へと向かった。
義足の足音が、石畳の上でカツン、カツンと響く。
普段は気にならないその音が、今はとても目立つように思えた。
受付を済ませ、クラス発表の掲示板に向かう。
ずらりと並ぶ名前の中に、自分の文字を見つける。
「相沢咲良……B組か」
そう呟いたとき、不意に背後から声をかけられた。
「相沢咲良さん?」
振り向くと、眼鏡をかけた女性教師が立っていた。
「私は1年B組担任の石田です。まだ教室まで案内してないので、一緒に来てくれますか?」
「……はい」
廊下を歩く間も、咲良は義足の足音に神経を尖らせていた。
石田先生は特に触れず、静かに先導してくれる。
教室に入ると、すでに何人かの生徒が席についていた。
その中の一人――前の席の女子が、ちらりと咲良の足元に視線を落とした。
(……やっぱり、気づくよね)
咲良はゆっくりと席につき、教科書の入った鞄を下ろした。
視線は前に向けていたが、斜め前の女子生徒がこちらを気にしているのがわかった。
しばらくして、その子が声をかけてきた。
「ねえ、それ……義足?」
咲良は驚き、思わず返事に詰まった。
「……うん」
そう答えると、彼女はふわっと笑った。
「かっこいいじゃん。なんか、未来感あるっていうか、シュッとしてる」
「……未来感?」
「うん。私のいとこも、事故で義足になってたんだけどね。最初はすごく塞ぎ込んでた。でも、今じゃ陸上やってるし、なんか普通にカッコいいの。だから、あんま気にすんなって言いたくなって」
その明るい言葉に、咲良はふっと息をついた。
心の中でずっと押し込めていた緊張が、少しずつ溶けていく。
「ありがとう。……名前、教えてくれる?」
「高瀬千尋。よろしくね!」
その笑顔は、春の陽射しのようにまぶしかった。
入学式が始まり、体育館へと列になって移動する。
並んだ新入生の列の中で、咲良は千尋と小さな声で会話を交わしながら、安心を得ていた。
壇上の挨拶はどこか他人事のように耳を通り過ぎる。
けれど、自分がその壇上の側に立つ場所にいることが、確かな実感として胸に残った。
(私は、ちゃんとここにいる。義足でも、ここに立ってる)
制服の袖に包まれた自分の身体が、今日から新しい日々を歩み始めるのだと、咲良は心に刻んだ。
式が終わって、教室に戻る途中。
階段の踊り場で、向こうから蒼の姿が見えた。
同じ制服姿。けれど彼は、どこか近寄りがたい雰囲気を纏っていた。
蒼はちらりと咲良に目をやった。
視線が、ほんのわずか義足へと流れる。
何も言わず、そのまま通り過ぎていった。
(……学校では関係ない。きっと、そういうこと)
咲良は蒼の背を見送りながら、ふっと息をついた。
でもそれでいい。兄妹でも、ここでは「ただの先輩と後輩」なのだから。
八つ目の椅子 窪田 郷音 @roog
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。八つ目の椅子の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます