玄関先の背中

 知り合いのKさんから聞いた話だ。


 その日Kさんは、友人に頼まれて家の留守番を任された。

 友人は家族で旅行に出かけるそうだが、残していくハムスターが気がかりなので、家を開けている間の世話をお願いしたい、と頼まれたのだ。

 Kさんは元来より動物好きだし、友人家族が行くその旅行というのも一泊二日なので長くはないし、なにより友人の家には以前より何度も訪問していたので、二つ返事で快諾した。

 勝手知ったる他人の家、Kさんは友人一家が帰ってくるまで、可愛らしいハムスターを眺めつつ気楽に過ごした。


 一日の世話と言ってもハムスターは昼間には寝ているだけだった。餌と水は夜に補充し、その際に糞の掃除をするだけ。とても簡単だ。

 ケージの床材に潜り込み、丸くなって寝ているその様子があまりにも可愛かったため、自分の家でも飼おうかと検討しながら過ごしていると、すっかり夜も更けてしまった。

 ハムスターの世話だけを頼まれたわけではない。家主が留守の間に家を守る事こそ留守番を任された者の使命だ。

 何より自分の家ではないので、いつも以上に防犯意識を高く持ち、Kさんは戸締まりを確認しに行った。

 各部屋の窓に鍵が掛かっているのを確認し、お勝手、玄関と続いてドアの施錠を確認した。田舎の事とはいえ施錠はしっかりしなくてはいけない。

 古い玄関の引き戸につけられた鍵をしっかり施錠し、そして玄関の外灯を点け、しっかり点いているか確認しようと振り向いた、その時だった。

 外灯に照らされて、玄関に誰かが立っていた。

 格子状に組まれた枠の隙間、磨りガラスの奥にぼんやりと佇む何者かの影。その影はどうも背中を向けており、ぴくりとも動かなかった。

 突然のことに驚いたKさんだったが、誰かが訪ねてきたのだ、と思い直し、「気付かなくてすみません」と声をかけようとして、立ち止まる。

 もう一度その影をよく見てみると、なんだかサイズが大きいような気がした。

 普通の人の背丈ではない、Kさん自身の身長が180センチと高いので、余計に変だった。

 自分よりも背がでかくないか?

 そう思って改めて見てみると、玄関ドアの欄間に肩があるくらいに見えた。街灯の光によってできる影の具合がそう物語っている。

 確かにただ背の高い人なら普通にいるだろう。だが、玄関の欄間の位置に肩が見えるということは相当大きい背丈ということになる。

 しかし、相当大きいにもかかわらず、下半身は普通に見えた。

 何かがおかしかった。

 Kさんはしかし、訪問者ならば留守番を任された身として失礼があったらいけない、と再び思い直し、土間に足を下ろし、声を出そうとして、やはり立ち止まった。

 訪問者──?

 Kさんは自分の腕時計に目線を落とす。時刻は深夜十二時を回っていた。

 この時間に訪問者なんて変だ。もし緊急を要する要件なのであれば、玄関先で何事なのか伝えてくるのではないか?

 何故この人は黙ったまま、しかも後ろを向いたまま、何も言わずただ立っているのだろうか?

 背筋に冷たいものが走った。

 目線を上げると、それはさっきより近づいていた。

 先程は玄関先に人がいる、くらいの認識だったが、今度は違う。玄関のドアすれすれの位置で、磨りガラスでもはっきりと映るくらい、息のかかるほどの距離に居る。

 街灯の光の位置が変わり、中から視えるその姿は真っ黒な影。だが、近すぎるがゆえにガラス越しに映るそれは背広を着ていることが分かった。

 Kさんはその場で固まって動けなくなってしまった。もうこの頃には絶対におかしいと確信していた。

 多分、人間じゃない。

 何か聞かれても答えてはいけないし、何よりも、絶対に家の中に入れてはいけない。

 半ば強制的に脳が命令を発しているような気分で、Kさんはしばらくその場で息を殺した。

 古い家だ、下手に後ずさりでもしたら気が軋んでしまうかもしれない。そうなったらこの距離では気付かれてしまうのではないだろうか。もしかしたら衣擦れの音だけでも。

 Kさんは生きた心地がしなかったという。

 しばらく経ち、居間の方からカラカラカラ……と音が聞こえてきた。ハムスターが起きてしまったのだ。

 すっかり目が覚めた様子のハムスターは、元気よく回し車を走っている。音でその様子が伝わってくる。

 Kさんは高鳴る鼓動を抑え、どうか気付かないでくれと祈ることしか出来なかった。

 どれだけそうしていたか、目を強く瞑って頭の中で思いつく限りの念仏を唱えていたが、もう思い出せる範囲を超えた頃、革靴の音が外から聞こえた。

 それはどんどん遠ざかり、やがては聞こえなくなった。

 Kさんが恐る恐る目を開けると、玄関先にはもう誰も居なかった。


 翌日の夕方ごろ、帰ってきた友人一家を迎え、ハムスターの世話を感謝された。

 どうしてか、あの訪問者のことは聞けなかった。

 お礼にと夕飯に誘われたが、Kさんは夜まで居るのがどうしても嫌だったのでやんわりと断った。

 その後も、何故か友人にあの日のことを聞く気にはなれなかった。何となく、聞いてはいけないような気がしたのだ。

 だから、あれが何だったのかは今でも分からないし、分かりたくもないという。


 ただ、一つ引っかかるのは「絶対に家に入れてはいけない」という確信の気持ちを抱いたことだ。

 Kさんは自他ともに認めるようなおおらかな人柄で、普段他人に対してあまり厳しい態度を取らない人間である。

 人を嫌うこと自体が嫌いなので、苦手だなと思う人間に対してはゆっくりと関係をフェードアウトさせていく、そんな人だ。

 そんな自覚があるにも関わらず、あの訪問者に対しては、異常なほど嫌悪感を抱いたという。

「本能の警告ってヤツなんですかねぇ。あの時玄関を開けなくて良かったって、心底思ってます」

 Kさんはそう言っていた。

 今後、自分の家に来ないとも限らない。

 もし次にあれと相対した時、今度は叫ばずにいられるかどうか、気付かれないで忍べるかどうか自信はない。

 だからハムスターも飼わないことに決めた。と、さんは残念そうに笑った。

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