第31話 桜木怜と引き籠り脱出作戦!

「助けて欲しいのよ!」

 バンッ、と屋上へと続く扉が勢いよく開け放たれる。

 時刻はまさにお昼時。俺は玲から弁当のおかずをあーんされていた状態のまま、制止した。

 ええと……ここからどうしたら?

「大変なのよ!」

 俺と玲の訝しげ……というより若干迷惑そうな感じの出ている視線を無視して、闖入者は猛然と続ける。

「私……私の親友が大変なの……」

「お、おいおい……一体どうしたってんだ?」

 俺と玲はようやくのことであーんの体勢から解き放たれ、冷静に事態を飲み込もうと努力する。

 そいつはがっくりと膝を突き、項垂れていた。声に潤みが混じり、嗚咽を漏らし始める。

「いや、ナギ……そんな泣いてちゃわからねぇって」

 俺はベンチから立ち上がって、ナギ――亜城渚に駆け寄った。

 男子のような広い肩に手を置いて、何とか宥めようとする。そのかいあってか、ナギは多少、落ち着きを取り戻したようだった。

 制服の膝の部分に着いた砂ぼこりを払い、ナギが立ち上がる。

「……ごめんなさい。少し取り乱していたわ」

「いや、それはいいんだけれど」

 ちらりと玲を振り返る。玲も、事態をうまく飲み込めていないようだ。怪訝そうな顔だ。

「一体何があったんだ? おまえがそんな……珍しいんじゃないか?」

「うう……それが、実は相談があって」

「相談?」

「ええ。それも、ぜひ桜木さんにお話ししたいことなの」

「私?」

 玲は自分が指名されるとは思っていなかったのだろう。すごく不思議そうに目を見開いていた。まあ俺だって意外だったのだから、当然だろう。

「きっと、桜木さんなら何かいいアイデアをくれるんじゃないかって」

 言葉の端々に深刻そうなニュアンスが含まれている。

 俺も玲も、ごくりと喉を鳴らした。

「……え、ええと、お昼休みが終わるまでなら」

「ありがとう。……感謝するわ」

 ナギは胸のポケットからハンカチを取り出すと、それを目尻に当てていた。

 それほど深刻な問題が、ナギの身に起こっているらしい。これは大事だぞ。

 俺は内心でそう思ったが、口にはしなかった。

 とりあえずナギを玲の隣に座らせ、俺は二人の目の前に立っていた。

「ええと、それでどうしたんですか、亜城さん?」

 玲がナギの顔を覗き込んで訊ねる。ナギは若干顔を逸らしつつ、ハンカチで目許を拭っている。

 よくわからんが、乙女的に泣き顔を見られるのNGらしい。何せ体は男だが心は乙女だからな。

「……実は、私の親友に大きな問題が」

「問題?」

「ええ。……私にはよくわからないんだけれど、どうやらゲームに鬼はまりしているらしいの」

 ぴくりと玲のまゆが動いた。たぶん、ゲームのことを悪く言われたのが気に入らないのだろう。

「ああ、ごめんなさい。別にそれ自体が悪いというわけではないの」

「え? ああ、そうか」

 なぜか俺に謝ってくるナギ。俺が玲の方をじっと見ていたのを、気を悪くしたのだと勘違いしたのだろうか。

 実際に気を悪くしたのはおまえの隣にいる『深層の令嬢』だけれど。

 玲は学校内では真相の令嬢、と呼ばれている。どうしてそんな通り名が定着してしまったのかについては諸説あるが、一番の理由はそのお嬢様然とした立ち居振る舞いと優秀な成績のお陰だろう。

 何せ学業はトップクラス。運動においても平均よりこなし、更には裁縫、家事など大抵のことは何でもこなす。そんな玲を高値の花だと言ったり、目の上のたんこぶだと言ったりする連中は多い。もちろん、後者は面と向かって言われたことはないけれど。

 閑話休題。話を戻そう。

「ゲームにはまるのが悪いことじゃないのなら、何が問題なんだ?」

「……実はその親友、ゲームにはまり過ぎて部屋から出て来ないらしいのよ」

「あー……それはそれは」

 ちらと玲を見やる。さっきまで不機嫌そうだったが、若干力が抜けたらしい。しかめ面じゃなくなっている。

 さすがにゲームにはまり過ぎで引き籠りになった、なんていうのは玲にとってもいいことだとは思えないらしい。うちにも似たような事例があるから、よくわかる。

「ほどほどに楽しむ分にはいいの。……だけれど、昼と夜となくゲーム漬けで、夜中とか関係なく奇声をあげるようになっちゃったって」

「それは……重症だね」

 何と言うことだろうか。玲も若干引いていた。

「彼女の両親も方々手を尽くしたのだけれど、結局だめだったわ」

「そう……」

「私も何度か親友の家に行ってみたのだけれど、私の話も聞いてくれなかったし」

「それは……重症だな」

 俺はナギに同情する形で、頷いた。 

 親友の話すら聞けないほどのめり込んでしまったゲーム。果たして、それほど面白いものなのだろうか。

 確かにゲームは面白い。だけれど、俺も玲もそこまでじゃないと思う。

 ……ま、玲は結構ひどいところまで行っていると思うのだけれど。

 それはそれとして、だ。

「それで……俺たちに一体何をさせたいんだ?」

「もう私たちじゃあ手に負えなくって。二人に協力してほしいのよ。どうしたらいいと思う?」

 思う? と訊かれても困る。こちとらただの高校生なのだから。

 俺と玲は顔を見合わせ、首を捻った。

 実際問題、引き籠りに対して取るべき行動というのは存在するのかもしれない。

 けれどそれだって理由があってのことだ。しかし今回は、理由という理由がない。

 どんな行動をしたら、ナギの親友を助けることができるのか、まったく想像がつかないのだ。

「……す、すまん……俺たちじゃあ協力できそうにない」

「あー……まあうん、そうよね。それが普通だわ」

「ごめんなさい」

 玲に倣って、俺ももう一度謝った。ナギはいいのよ、と言って手を振っている。

 けれど、その仕草がすごく寂しそうだった。八方塞がりに感じているのは明白だ。

 なんとかしてやりたい。だけれど、俺たちにできることなんて……。

「…………」

 俺は玲から視線を外し、空を見上げた。

 相変わらずの快晴だ。まるで俺たちの心持ちなんて気にしていないかのようだ。

 まあ、実際に気にしていないのだろう。

「……ごめんなさい、お邪魔したわね」

「そんな……」

 ナギがベンチから立ち上がる。去って行くナギの背中を追おうとして、玲も立ち上がった。

 けれど、それだけだった。それ以上、玲はどうすることもできなかった。

 その背中を追い駆けることも、声をかけることも、今の俺たちには憚られるのだった。

 

 

                         〇

  

 

 その日の放課後は、なんとなく鬱屈とした雰囲気に包まれていた。

 俺の頭の中には、ナギの悲しそうな、寂しそうな背中が何度も繰り返し映し出されていた。

 おそらく、玲もだろう。浮かない表情を見ればわかる。

「……なあ、本当によかったんだろうか?」

「うん……とは言っても、私たちじゃあどう対応したらいいのかわからないし」

「だよなぁ……」

 玲の言い分はもっともだ。俺たちでは、ナギの親友とやらに対してどんな手を使ったラいいのかわからない。

「何せこっちはただの高校生。精神科医とかじゃないんだからなぁ」

 精神科医がそこまで業務範囲内はか知らないが、どちらにしろ有効な手立てが思いつかないのが現実だ。

 親や親友があの手この手を尽くしてだめだったのだ。見ず知らずの俺たちがどうこうできるとは到底思えない。

「けれど……何とかしたいのはその通りなんだよな」

「……だね」

 こくん、と玲が頷いた。

 ナギの親友とかいう奴には会ったことすらないからあれだけれど、ナギがあれほど塞ぎ込む姿は見ていて気持ちのいいものじゃない。

 だから、まあなんだ。友達のためになんとかしたいというのが偽らざる本音なわけなのだが。

 それでいいアイデアが思いつくのなら、そもそもこんな問題が俺たちのところにまでやってくるはずがない。

 俺はううん、と唸って、視線を爪先に落とした。

 何とかならないものか……しかし。

 何度となくその言葉が頭の片隅に過ぎる。ほんと、どうにかならないか。

「そうだ。こんなのはどう?」

 玲がポンと手を打って、パッと表情を明るくする。

「新しいゲームを買いに行こうって言って、外に連れ出す。もともとは引き籠りじゃなかったんだから、それで外の楽しさを思い出すかも」

「あー……なるほどなぁ」

 確かに、それは一理ある。ある……んだけれど。

「それはたぶん難しいだろうな」

「え? なんで?」

「だって考えてもみろよ。ナギは親友の引き籠りの原因、なんて言ってた?」

「ええと、あるゲームにはまって……あっ」

 玲が口許に手を当てて、あっと驚いた顔をした。

「そう。とあるゲームにはまって……って言ったんだ」

 つまり、ナギの親友とやらは一つのゲームにとっぷりはまり込んでしまったということだ。

 それで日常生活にまで支障をきたしていたんじゃ、なんとも馬鹿げた話だけれど。

「……じゃあ、一体どうしたら……」

「……わからない、けれど」

 今の俺たちにはどうしようもないことだけは確かだ。

 俺は玲にそう言っていいものかどうか迷った。玲は今、この時にも一生懸命解決の糸口を探そうとしている。そこへ、俺が水を差してもいいものかどうか。

 たぶん、よくはない。それはきっと、玲にとっても俺にとっても。

 そして、ナギたちにとってもだ。

「……俺たちには、どうしようもないことだ」

「うん……」

 と玲は頷いた。けれども、その目は納得とは程遠いものだった。

 そこにあるのはただ残念という感情。ナギやナギの親友のために何もできないという無力感。

 そんな感情を抱えながら、俺たちはとぼとぼと帰路を歩く。

 はたして、本当に何もできなのかと考えながら。

「……たぶん、できることはあると思う」

「玲、一体何を言って……」

「だって亜城くん、あんなに困ってたんだよ。だったら……」

「いや、しかしだな……」

 俺だってあいつの力になってやりたいと思う。だけれど、引き籠りを更生させる方法なんて俺もおまえも知らないだろ。

「……第一、アテはあるのか?」

「アテ?」

「ナギの親友とやらをどうにかする方法のだ」

「ああ、それならまあ」

「……あんま自信なさそうだな」

「うん……まあね」

 玲はにこっと微かに微笑んだ。実際のところ、自信がないどころではないのだろう。

 もしかしたら、不安なのかもしれない。自分にそんな力はないんじゃないかと。

 でも、玲はやると言い出した。言い出したら、聞かない奴だ。

 この数ヶ月で、こいつの頑固さは痛いほど学んでいる。

「……わかった。明日、ナギに言ってみよう」

「うん。ありがとう」

「別に礼なんて言われる筋合いはないが、確かにこのままじゃ気持ち悪いのは事実だからな」

 だったら原因を取り除くまでだ。それが俺の精神的にもずっといい。

 俺は肩をすくめ、嘆息した。……まったく、敵わないな、玲には。

 なんとなく空を見上げる。夕日が眩しく、俺たちの影が長く伸びていた。

 

 

                       〇

 

 

「本当!」

 昨日、俺と玲が二人で話し合った内容を伝えると、ナギは目を丸くして驚いた。

 そりゃあそうか。一度は断った話だし、何よりこいつにとっては意外な朗報だろう。

「ああ。本当だ。……ただし、俺たちはその道の専門家ってわけじゃないんだ。期待するな」

「わかってるわ。ありがとう。嬉しい……これで、あの子も」

「だから、あんま期待すんなって」

 もう解決したかのように目尻に浮かんだ涙を拭うナギ。なんか俺が泣かしてる見たいだからやめてくれ。

「それで、週末にでもと思ってるんだが、いいか?」

「ええ、大丈夫よ。向こう側のご両親にも話は通しておくわ」

「頼む。それと……」

「なぁに?」

「……いや、何でもねぇ」

 不思議そうに首を傾げるナギ。

「何でもねぇ。それじゃあ次は体育だ。おまえで最後だからな」

「ええ、わかってるわ。……なかなか不便なのよねぇ、みんなが出て行ってから着替えなくちゃならないから」

「だったら他の奴と一緒に着替えればいいんじゃないか?」

「えー、それは恥ずかしいわ。えっち」

 つん、とナギが俺の胸のあたりを突いてくる。

 俺は苦笑いを浮かべ、教室を出た。大変だな、あいつも。

 体質のこともそうだし、親友のこともそうだ。

 気苦労が絶えないというか、かなり面倒な星の許に生まれてきてしまったというか。

 ナギのことを考えると、まあ他人ごとながら同情する。

 今回のことで、俺たちがあいつの役に立てるのかどうかはわからないが、それでも多少なりとは力になれることを願っている。

「……ったく、何を馬鹿なことを」

 これはあれだ。うぬぼれって奴だ。……俺じゃあナギの力になんてなれっこない。

 せいぜい、ちょっとしたきっかけにはなれるだろうけれど。

「ま、それでもいいさ」

 俺はぼそりと呟き、嘆息した。

 きっと、俺たちでは役には立たないだろう。こういうことは部外者の出る幕じゃないと思うから。

 でも、それでもナギは俺たちに助けを求めた。求められたのなら、それなりに応じたいと思うものだ。それが例え、無駄なことだとわかっていたとしても。

 俺は肩をすくめ、廊下を行く。さっさと行かねぇと、どやされてしまう。

 どやされるのは、嫌だ。ナギが悲しそうな顔をするのも、嫌だ。

 だから、やる。どれほどやれるかはわからないけれど、やる。

 大丈夫。失敗したって死ぬわけじゃあないんだから。

 俺は自分にそう言い聞かせ、小走りになった。

 果たして、何をしたらいいのだろうかと考えながら。

 

 

                        〇

 

 

 そして日曜。俺と玲はナギの案内で、ナギの親友の自宅へと来ていた。

「わー、すごく立派なおうちだね」

「ああ……案外金持ちか?」

「ははは……そんなことないわよ。ただの見栄っ張りなだけだから」

 ナギが苦笑しながら、俺たちが立派と評した家に最終評価を下す。

 いくら親友宅だからって、勝手にそんなふうに言っていいのだろうかと疑問に思ったが、いいんだろう、別に。

 それくらい、気安い関係だということだ。うん。

「ご両親は? 今、家にいるの?」

「いないわ。二人とも共働きだから。日中は彼女一人だけのはずよ」

「彼女……前々から気になっていたんだが、おまえの親友ってのは女?」

「ええ、そうよ」

 何を突然、とでも言いたそうに、ナギが首を傾げる。まあ、だよなぁ。

 見た目は男女だが、精神的には女女だ。親友になれる素質は十分にあったというわけだ。

 俺はやはり不思議そうにしている玲へと視線を移して、何でもないと言った。それから玲が言うところの立派な親友宅を見上げ、ふと思ったことを口にした。

「それにしても、日曜まで仕事とは。忙しいんだな」

「ええ。詳しくは知らないのだけれど、何でもかなりご立派な職業に就いていらっしゃるそうよ」

「なるほど……」

 ご立派な職業というと大学教授か女医か弁護士か国会議員か。いずれにしても、かなり厳しい親なんだろうということは何となく想像できる。

 そして、そういう親の許で育った子供ってのは歪みやすいものだ。アニメやゲームだけではなく、そうした事例は現実でもままあることだったりするしな。

「ま、変に犯罪に走ったりしなくてよかったな」

「何を考えているのかわからないけれど、失礼なことを言うのね」

 ナギがじとーっと、ねめつけるような視線を送ってくる。親友を馬鹿にされたとでも思ったのだろうか。そんなつもりはなかったのだが。

 俺はただ、心に思ったことを言っただけだ。それ以上でもそれ以下でもない。

 それでも、ナギには不服だったらしい。ので、ここは素直に謝っておいた方がいいだろう。

「すまん、別に悪気があったわけじゃないんだ」

「……いいのよ。私も悪かったわ」

「さてと、仲直りができたところで、中に入れてくれる?」

「ええ、わかったわ」

 玲の言葉を受け、ナギがポケットから他人様の家の鍵を取り出す。いくら親友宅ったってそれはどうなんだ……? 信用されすぎじゃね?

 俺は社会的に立派な職業に就いているという親友の両親へと思いを馳せた。

 心は乙女とはいえ、肉体的には男に女の子一人でいる家の鍵を渡しておくとか。いや、例えナギが正真正銘の女だったとしても、赤の他人に鍵を渡したりはしないだろう、普通。

 そう考えると、ナギってすげぇと思わなくもなかった。この人たらしの才能を別のことにいかしたら、さぞ儲かるだろうな、などと考えてみる。けれども、具体的にどうしたら儲かるかなど俺にわかるはずもなかった。

「絵里ちゃん、いるかしらぁー?」

 ナギが家の中へと呼びかけた。が、シンと静まり返った屋内からは返事はなく、ただの無音だった。

「……留守、かな?」

「いいえ、そんなはずはないわ」

 ナギの声音が若干鋭いものへと変わる。何だろう? 苛ついているのか?

 ナギが靴を脱いで、上がり込んだ。ので、俺たちもそれに続いた。

「絵里ちゃん、いるんでしょー? 出てきてちょうだい」

「ええと……絵里ちゃんって言うの?」

「ええそうよ。言ってなかったかしら? 渋沢絵里って名前なの」

 聞いてねぇよ。俺はよほどそう言いそうになったのを堪えた。

 ここでそんなことを言えば、件の絵里ちゃんに警戒されかねない。まあ、知らない奴が二人も押しかけてる時点でそんなことを言うのも変なのかもしれないけれど。

 俺たちはナギに続いて、二階へつ続く階段を昇った。部屋は二つあったが、ナギは手前の部屋の前へで立ち止まった。

「奥の部屋は絵里ちゃんのお兄さんの部屋だったんだけれど、大学に進学してから一人暮らしを始めちゃって今は使われていないの」

「そ、そうなんだ……」

 詳し過ぎじゃね、他人んちの状況に。

 俺はよほどそう突っ込んでやろうかと思ったが、ここでもぐっと我慢する。

 そんなことより今は渋沢絵里だ。一体どんな奴なんだろう?

 俺は不安半分、期待半分といった心持ちでナギが部屋のドアを開けるのを待った。

 そして、がちゃりとドアが開く。ぎぃぃ、と蝶番の擦れる嫌な音が響く。

 露わになる、渋沢絵里の部屋。そして本人の姿。

「……彼女が、渋沢絵里ちゃんよ」

「…………!」

「何……だと!」

 俺と玲は二人して息を飲んだ。あまりのことに、ガンッと背後から鈍器で一撃もらったかのような衝撃を受ける。

 まず、部屋の中もそうだ。スナック菓子の袋が散乱し、某有名宅配サービス会社のマークの入った段ボールが山と積まれている。

 電気は点けておらず、暗い部屋の中での唯一の光源といえばモニタの中で展開されるイケメンとの恋愛模様のみ。

 部屋の中央には、ヘッドフォンをつけた人物が一人。結構大きな音を出しているのか、こちらに気がついた様子はまるでなかった。

 ただ一心不乱に、画面の中のイケメンを食い入るように見つめていた。

 その後ろ姿は、丸々としている。たぶん、正面から見ても同じだろう。

 勝手に美少女を連想していただけに、どことなくがっかり感があったが、そんなことはおくびにも出さないよう気をつけよう。

 ともかく、俺はそいつの後ろ姿に驚愕した。……だってこれだぜ?

「あー……こいつが例の?」

「ええ。その通りよ」

 俺がナギに耳打ちすると、ナギはどことなく恥じらうように目を伏せた。

 きっと、以前はこうではなかったに違いない。それが今や見る影もない状態になってしまっている。

「前はこうじゃあなかったのだけれど」

「そうか……まあいいや」

 今重要なのはそこではない。俺はふぅと呼吸を整え、一歩前に出た。

「あーと、初めまして。俺は石宮健斗っていいます」

「あっ……私、桜木玲……って言うんだけれど」

 と、俺たちが挨拶をしているのにも関わらずナギの親友は、一心不乱に画面を見続けていた。時折、デュフフッ、と気味の悪い笑い声を漏らしている

「あの……なぁ」

 他人が話かけてんのになんだこいつ。……ったくよぉ。

「ちょっと絵里ちゃん、二人に失礼でしょう!」

 ナギがずかずかと部屋の中に入る。床の上に山と積まれた乙女ゲーのパッケージを避けながら、渋沢絵里の側へと近寄る。

 がっと、その肩を掴んだ。指が肉に喰い込んでいる。

「んあ? ……あれ、ナギちゃん。どうしたの?」

「どうしたのじゃないわ。さっきから話かけてるのにどうして無視するのよ?」

「話しかけて……え? いつ?」

 渋沢絵里が小首を傾げている。心の底から不思議そうだ。

 たぶん、本当にわかっていないのだろう。

「だから、さっきからよ。そっちの二人も」

「二人……ええと、どちら様?」

「…………」

「…………」

 俺と玲は呆然とそのやりとりを聞いていた。

 まあ、突然見ず知らずの他人が部屋の入口に突っ立っていたらそんな反応になるのもわかる。わかるが……何だろうな、すごく釈然としない。

「俺たちは……ナギに頼まれたんだ。あんたをどうにかしてくれって」

「ナギちゃんに? ……というか、どうやって入ったの?」

「あたしが入れたのよ」

「なぜナギちゃんが?」

「あなたのお父さんとお母さんはお仕事だからよ」

 渋沢絵里がこれまた不思議そうな顔をする。それもわかるぞ。

 どうしてナギが渋沢家の鍵を持っているのか、たぶん十人に話して納得する奴は一人もいないだろう。

 それはいい。俺たちの気にすることじゃない。

「それで、どうしてあたしたちが話しかけてるのに無視したの?」

「ごめん。でも話しかけられてるなんて思わなかったから」

「だからって……」

「集中、していたんですよね?」

 また何かお小言を言いそうになったナギを遮って、それまで黙っていた玲が口を挟んだ。

 玲の視線は親友二人を通り越して、暗い部屋の中で唯一の光源であるモニタの画面へと向けられていた。

「彼は京極京志郎。攻略対象の一人で、なおかつ一番遠回りな手順を踏まなければいけない相手ですから」

「あっ……あなた、京志郎様を知っているの?」

 さ、様……?

「ええ、もちろんです。私もそのゲーム、大好きですから」

 玲がにこりと微笑んだ。まあそうだろうなぁと思う。

 このゲームだって、玲の守備範囲内だ。当然、やり込んでるだろうなぁ。

「あ、ああ……そんな……神様」

 渋沢絵里が感極まったように全身を震わせている。ええ……そんなに嬉しいの?

 俺は彼女の心情が理解できず、困惑した。ナギも同じようで、眉間に皺を寄せている。

 唯一、この場で渋沢の気持ちがわかるのは玲だけだろう。その玲はといえば、微笑みを讃えたまま、ゆっくりと部屋の中へと歩み入る。

「まだ選択肢を選んでいるところを見ると、二週目ですね」

「ええ、その通りよ。……信じられない。こんなところで同士に出会うなんて」

 自分の家をこんなところ呼ばわりとは。なんて無粋なことは言わないでおこう。

 俺は渋沢と玲の不思議なやりとりに耳を傾けつつ、ナギを見やった。

 ナギはふるふると首を振っていた。まあナギがこの会話に参加できるはずもない。

「舞台は学園もの。他の登場人物はみんな学生ですが、京志郎だけは教師。生徒と教師の禁断の恋。それを実らせるためには大きく遠回りしなくてはならない」

「そう……だからこそ彼の覚悟の強さ、絆の強固な部分が描かれる」

「二人の前には巨大な壁がいくつも立ち塞がり、京志郎と主人公を二分していく」

「だけれど、二人はそれを乗り越え、恋はやがて愛へと変わる」

 ……ふむ、なるほど。わからん。

 俺は玲と渋沢の言葉を聞きながら、首を捻った。

 確かにこの話だけを聞いているといい話っぽくもある。でも、実際問題それほど難しいことか? いや……別に卒業まで待てばいいんじゃね? とかそんなことを言うつもりは毛頭ないけれど。

 それでも、なんらかの手段はあるだろう。もし二人が本当に愛し合っているのなら。

 壁なんて二人が勝手に作り出しただけだろうと思うのだが、何分俺はこのゲームをプレイしていないから、あまりわかったようなことも言えない。

「……ええと、絵里ちゃんと桜木さんは何を言っているの?」

「俺に訊くな」

「そうね……」

 本当にわかっているのかいないのか、ナギはたはは、と苦笑いを浮かべたまま、二人を見やる。その表情は、どことなく腑に落ちない感じだった。

「……どうしたんだ?」

「へ? ええと、何が?」

「えっ……ああ、いや」

 何でもない、と俺は首を振った。

 今のナギの表情は、普通だ。ついさっきのことなんて何でもなかったかのようだった。

 ……気のせい、か?

 俺は眉間に皺を寄せ、考える。が、すぐに諦めた。

 他人の心を読もうなんて、俺にそんな大それたことができるはずがない。

「それにしても、すぐ仲良くなったな、あいつら」

「本当ね。ずっとしていたあたしの苦労が馬鹿みたいだわ」

「……ま、そうだな」

「ここは否定するべきじゃないかしら?」

 ナギが困ったような笑顔を俺に向けてくる。

 もちろん、ほんの一瞬ではあるが、否定するべきだと俺も思った。

 だけれど、ことナギと渋沢の間においてそれは無意味だと思ったんのだ。

 二人の間にある絆を考えれば。ナギはそれほどオタク文化に詳しいわけじゃないからな。

 それに比べて、玲はその手の話に詳しい。よく驚かれるが。

 それにしても、だ。最近の玲はごく一部に対して、そういうことを隠さなくなった。

 いいこと……なんだろう、たぶん。

「まあでもあれだな。これで問題はすぐに解決……」

「ああん? 桜木玲とか言ったっけ? あんた何言ってんの?」

「あなたこそ、どういうことですか? というか、頭おかしいんじゃありませんか?」

「頭おかしいのはあんたでしょうが!」

「……なんだか喧嘩が始まったのだけれど、すぐに何?」

「何でもねぇよ」

 俺ははぁと溜息を吐いた。まあ、すんなり物事がうまくいくとは思ってなかったけれど。

 それにしても、これほど奇麗に、まるでゲームか何かのようにあっさりとそれまで親交を深めていた二人が決裂するとは。

 本当に、オタクって奴は謎だ。

 俺とナギはぎゃーぎゃー、と怒鳴り合う二人を引き剥がし、どうどうと落ち着かせる。

「落ち着けって玲。何があったのか知らんが、とりあえず深呼吸だ」

「絵里ちゃん、お客様なんだから、もうちょっと柔らかな対応をして」

「だってこいつが……」

「彼女が先に変なことを……」

 お互いがお互いを指差す。やめろ、みっともない。

 俺とナギは顔を見合わせ、溜息を再び溜息を吐いた。まったく、こいつらは。

「それで、何の話をしていたんだ?」

「このゲーム」

 と、渋沢が画面に映るイケメン教師の映ったモニタを示す。

 俺と玲、ナギの三人はその画面へと視線を落とした。

「このゲームがどうかしたのか?」

「どうかしたのか? じゃねーよ!」

 何だろう……すごく腹立たしい。女を殴りたいと思ったのは初めてだ。

「彼の攻略法についてだけれど、その意見が合わないの」

 玲が渋沢の言葉を引き継ぎ、補足説明してくる。実は仲いいな、おまえら?

「意見が合わないって……こんなもんルートは一つじゃねぇのか?」

「ちっげーよ馬鹿!」

「こら絵里ちゃん!」

 暴言を吐く親友をたしなめようとするナギ。視線を俺に向け、ごめんなさいと言う。

 まあ別にそれほど気にしてはいないけれど、それにしても。

 何つーか、教育者の家庭に生まれ育ったから言葉使いも丁寧なんだろうと思っていたのだが、案外汚いんだな。意外だ。

「彼のルートは全部で五分岐あるの。バッドエンド、トゥルーエンド、ハッピーエンドという基本の三つは当然として」

「それ以外にも他の生徒にNTRされるルート、一緒に自殺するルートもあんだよ」

「それは……凄まじいな」

 なるほど。玲たちの言っているバッドエンドとはただ単に主人公が振られることだけをさすようだ。なかなかに奥が深いのかもしれない。

「私はすべてのルートをコンプリートしてこそ、ゲームを遊びつくしたと思うのですけれど」

「ああん? 何言ってんだあんた。ハッピーエンド以外認めるわけがねぇだろうが」

 そこに玲と渋沢という二人の異なるオタク観を持ち合わせた人間がいるから話がこじれているわけだ。

 十人十色。人間はみんな違っていて、それはオタクに関しても同様である。

 こんな対立は、こいつらにとっては普通のことなのかもしれない。

「……まあゲームなんて自分たちが楽しければそれでいいだろ?」

「なっ……! 健斗、なんてことを……」

「だろ、だろ? なんだわかってるな、あんた」

 バンバンッと渋沢が俺の背中を叩いて来る。力はそれほどでもないが、体重が乗っているため結構痛かった。

「まさにその通りだ。ゲームはやっている本人が楽しめればそれでいい。あんたの価値観を押しつけられるいわれはねーぜ」

「ぐぬぬ……」

 玲が悔しそうに歯噛みしていた。何だろう、こんな玲は初めて見る。

「で、でも……でもですよ、そこには多くのキャラクターたちがいて、そのキャラクターせべての人生を見たいじゃないですか!」

「うっ……それは」

「あなたはここにある名作たちの姿をすべて見たのですか? そこに息づくすべての人たちの人生を垣間見たのですか!」

「しかし……それじゃあいくら時間があっても足りないじゃないか」

「そんなものはただの言い訳です!」

 びしり! と玲が言い放つ。それを聞いて、渋沢は言葉を詰まらせていた。

 つい数瞬前までとは打って変わって、玲の優勢だった。なんかもう、よくわからん。

「で、でも……」

「でもでも何でもありません! ちゃんとやりなさい!」

「うぐ……」

「……なあ、二人は何を言っているんだ?」

「あたしに訊かれても困るわ……」

 ナギにそっと耳打ちする。が、ナギは何がなんだかといった様子だった。そりゃあそうだ。

 俺は二人のやりとりを聞きながら、ふぅと息を吐いた。

 ま、何だかんだといっても、話の合う奴と出会うのは嬉しいことなのだろう。

 その証拠に、玲も渋沢もどことなく楽しそうだ。それだけで、俺は来た甲斐があったかなと思う。

「……だ、だったらあんたはここにあるゲームをすべてプレイしたってのか?」

「当然です。私は既にプレイし、すべてのCGをコンプしています」

「なっ……嘘だ。ここにあるゲームはどれも最近発売されたばかりのものだ。それをすべてなんていくら何でも早過ぎる」

「人間、やろうと思ってやれないことはないのですよ」

 ……何かいいことを言い出したぞ。まあ確かにそうなんだろうけれど。

 俺は苦笑いを浮かべた。と、渋沢が突然こちらを振り返る。

「ほんとなのか!」

「お、俺……まあ本当……かな」

「な……に」

 渋沢がかみなりに打たれたような顔になった。ええ、それほど。

 俺は渋沢の反応に困惑しつつ、実際にはどうなのか知らないなぁなんて考えていた。

 ま、玲のことだ。ちゃんと全部言葉の通りにやっているだろう。

 俺は玲の方をちらりを見た。玲も俺を見ていた。当然、視線がかち合う。

 にこっと笑う玲。どうやら、俺の反応は玲のお気に召したようだ。

「貴様! 味方だと思ったのにぃ!」

「ははははは、今日会ったばかりの他人を信用するなんて馬鹿な奴だ」

「この……馬鹿ぁ」

「うべっ……」

 ガンッと手近にあったゲームのコントローラーを投げつけられ、額に当たった。

 俺はそのまま、背後に倒れ込んでしまう。めっちゃ痛ぇ……。

「うう……何なんだ、一体」

「大丈夫、健斗!」

「ちょっと絵里ちゃん!」

「くっ……だってそいつが」

 渋沢に視線を向けると、渋沢は拗ねた子供のように唇を尖らせ、そっぽ向いていた。

 子供か!

「だってじゃないでしょ。どんな理由があったって、今のはやっちゃだめなことよ」

 ナギがたしなめているが、渋沢は視線を逸らしたまま、依然としてぶすっとしている。

「まったく……ごめんなさい、絵里ちゃんが」

「別に俺は大丈夫だから」

「ほんとに大丈夫?」

 玲の手を借りつつ、俺は立ち上がった。それにしてもひどい目に遭った。

「ああ。……ところでおまえ」

「あんたにおまえ、なんて呼ばれる筋合いはないんだけれど」

「……渋沢」

「何?」

「謝れ」

「はぁ? どうしてわたしが?」

「…………」

 渋沢が本気でわからないというような顔をする。まじで言ってんの、こいつ。

 俺は渋沢の態度に信じられない思いだった。他人の顔にあんな固いものをぶつけておいて、よくもまぁこんな態度が取れるものだ。

「おまえさぁ……もうちょっとどうにかならねぇの?」

「どうにかならん。わたしはわたしだからな」

「何言ってんのかよくわからないが、他人にものぶつけておいてその態度はねぇんじゃね?」

「それは貴様が悪い」

「おまえに貴様呼ばわりされるいわれはねぇぞ」

「……なら、ええと」

 そこまで言いかけて、渋沢は言葉を詰まらせた。虚空を見上げ、視線を右往左往させている。

「……わたし、貴様の名前知らない」

「ん? ああ、そう言ってなかったか?」

 ナギに確認を取る。と、記憶を探るような仕草の後、ナギも頷いた。

「ええ、確かにそうね」

「そっか。だったら……」

 自己紹介が必要だな。と、俺は視線をナギから渋沢へと戻した。

「というわけでお互いに自己紹介しよう」

「何がというわけだ。意味がわからんぞ」

「わからないってことはないだろう。ただの自己紹介だ」

 ほれほれ、と俺が渋沢を促す。もちろん、渋沢の名前は知っているのだが。

「わたしの名前、聞いてないの?」

「それはそれ、これはこれ」

 それにナギから聞いているのは、名前と趣味くらいだ。性格その他は知らなかった。

 こんな狂暴な奴だとは思ってもみなかったしな。

「まあいいけれど。でも、何でわたしから」

「だっておまえのための集まりだし。おまえからやるのが筋だろ?」

「意味がわからない。第一、わたしはそんなこと頼んだ覚えはないんだけれど」

「おまえじゃなくても、おまえの親友が頼んだんだから仕方がないだろ」

 と言うと、ぎろりとナギを睨みつける渋沢。まったく、こいつはおまえのためを思ってんだぜ? ちったぁ感謝しろよ。

 俺は渋沢の態度に辟易していた。別にいいんじゃね、こんな奴放っておいて。そんな気分だ。

「……はぁ、わかった」

「なんだかずいぶんと態度があれだが、まあいいだろう」

 渋沢は渋々といった様子で自己紹介を始めた。

「……わたしは渋沢絵里。十六歳。趣味は見ての通りゲーム」

「私は桜木玲。同い年だね。趣味も一緒でゲームだけれど」

「ああっと……俺は」

「あんたはいい」

「あっ……はい」

 ビッと俺が自己紹介をしようとしたら、渋沢が制してくる。何でだ!

 俺は内心で渋沢へ恨みつらみを募らせていたが、そんなことがこのデ……げふんげふん。

 そんなことがこいつに伝わるはずもなく、渋沢は俺なんて眼中にないかのごとく玲だけに視線を注いでいた。なんか……さっきとだいぶ態度ちがくないか?

「……あなた、桜木玲」

「ええ、その通りです」

「あなたが本当にこれらのゲームをプレイしたのですか?」

「ええ、しましたとも。もちろん、ここにあるような年齢制限を無視したゲームではありませんが」

「えっと……どういうことだ?」

「あたしに訊かないでちょうだい」

 俺がナギに訊ねると、ナギは肩を竦めた。そりゃあそうか。ゲーム関連について俺が知らないことをナギが知っているはずがない。

 俺はナギから玲たちへと視線を戻す。果たして、どんな舌戦が繰り広げられるのか。

「ぐっ……だってしょうがないだろ!」

 ダンッと渋沢が床を思い切り踏みつけた。

「コンシューマ版だと原作のよさがなくなってしまう。原作を楽しみたいのなら、そこはやはりR—18版を買わないと」

「その気持ち、痛いほどわかります」

 ええ……わかっちゃうんだ。

「だけれど、本当にあなたは原作のよさを味わうためにゲームを買っているのですか?」

「……どういう、意味だ?」

「例えばこれ」

 玲が積み上げられていたパッケージの中から、一つ取り出した。

 そこには、見るだけで赤面しそうになるくらい半裸の二次元女の子の姿が大きく描かれている。それを何の迷いも躊躇もなく、顔色一つ変えず手にしている玲とは一体何者だ。

「これは確かにいいストーリーでした。勇者と魔王の禁断の愛を描いた、名作ファンタジーです。しかし……」

 と、玲がそこで言葉を切った。すぅっと、何かを覚悟するかのように息を吸う。

「え、えっちなシーンは別にいらないはずです。コンシューマ版で十分にストーリーは楽しめますよ」

「うっ……そ、それは」

 渋沢が一瞬たじろぐ。心なしか、顔が赤いような気がするんだが。

「ええと……どういうことだ?」

「さすがだわ、桜木さん」

 俺はよくわからなかったのだが、ナギはわかったらしい。うんうんと頷いている。

 ごめん、説明してもらっていいかな?

「桜木さんはつまりこう言っているのよ。絵里ちゃんがあのゲームを買った本当の理由、それは……」

「そ、それは……」

「……絵里ちゃんがえっちなシーンを見たいからだと」

「やめろぉぉぉぉぉぉぉ!」

 渋沢の方向が家中に轟く。……どうやら図星だったようだ。

 がくんと項垂れる渋沢。……なんか可哀想。

「そんな……そんなにわたしの恥をさらして楽しいか! 別にいいだろ、ストーリーもえっちなシーンも楽しみたいと思ったって」

 ああもう、開き直ったよ。若干涙声なのが聞いていて痛々しい。

 俺は顔を覆い、現実から目を逸らした。別にいいさ、渋沢。それがおまえという人間だ。

 俺は内心で渋沢を応援していた。そしてそれは、玲も同じだったようだ。

「……別に私はそれだめなことだとは言っていません」

「だ、だったら……」

「しかしだからといってルールを破っていいことにはなりませんよ」

「うっ……」

 おそらく今、渋沢の目の前には冬将軍の衣装をまとった玲が降臨していることだろう。

 つーか何をそんなに怒ってるんだ、玲の奴? 別にいいじゃねぇか。

 俺は玲の意図が掴めず、首を捻った。何なんだろう?

「あなたはわかっていないのです」

「わ、わかっていない……とはどういう意味だ?」

「製作者の意図、販売元の配慮、ユーザビリティという言葉の意味」

 それはつまり……すべてと言ってるのと同じだが。

 俺は玲の言葉を何となく自分の中で要約してみた。すると、オタクとしての存在を全否定する言葉だとわかった。

「……あなたも私と同類なら、そうしたクリエイターの心根を少しは理解するべきでした」

「何……だと?」

「つまり、私から言わせればあなたは二流のオタク……いえそれ以下ということです!」

「な、何ィィィィ!」

 ビシャーンッとかみなりに打たれたように顔を歪める渋沢。いやそんなショックを受けるところか、今の?

 しかし、俺の感想などどうだっていい。問題はあの二人が互いに納得できるか否かだ。

 ……なんか、ここに来た理由がわからなくなってきたぞ?

「わ、わたしは一体何をしていたのだ……」

 渋沢ががっくりと項垂れる。両手両足をつき、Orzの体勢になった。

 だから、そんなに悲しそうにするところか、今のは?

 俺にはまだ、ヘビーユーザーの気持ちはわからないらしい。まあ対してゲームを買ったこともない奴が気持ちを理解できるとは思えないが。

「……ええと、問題は解決したのかしら?」

「……いや、全然前に進んでないと思うぞ」

 そしてここに来た目的をあいつは絶対に忘れている。

 そう、渋沢を外に連れ出し、登校を再開させるという目的を。

「いいですか。別に個人で楽しんだりする分には何も問題はないでしょう。ここで私が変にあれこれ言うのは無粋だと理解しています。その上で、私はあなたに言わせていただくのです」

「……やめてくれ。もうわかったから」

「いいえ、だめです。それでは私の気がすみません」

「悪かった……わたしが悪かった」

 ぶつぶつと念仏のように悪かったを繰り返す渋沢を前に、玲はしかし攻勢の手を緩めるつもりはないようだ。

「私はあなたにゲームの本当の魅力を知って欲しいのです」

「知ってる、知ってるってばぁ……」

「いいえ、あなたは何も知らない。その奥深さ、深淵さの何も」

 ずいずいっと、玲の顔が渋沢に近づく。その威圧感たるや、外から見ているだけの俺たちですらぞくりとくるものがあった。

 がっと、玲が渋沢の肩を掴んだ。

「いいですか、あなたのやっていることはただのコンテンツの消費です。表面をなぞり、それで満足する。それ自体をどうこう言うつもりはありません。楽しみ方は他人それぞれ。その考え方を否定することは私には不可能です。だから誤解のないように先に言っておきますが、これは私の考えを押しつけるためのものではなく、ただただ純粋な参考意見として聞いておいて欲しいのです。いいですか?」

「わかった、わかったってばぁ」

 もうほとんどキスしそうなくらい顔が近い。それでも全然百合百合しい雰囲気にならないのは、一重に玲のまとうオーラのせいだろう。

 渋沢は半ば恐怖からか、がくがくと首を縦に振っている。聞く……というより聞かないと何をされるかわからないといった雰囲気だ。

「ありがとうございます。それでは……」

 すーっと、玲が息を吸う。深呼吸を二度、三度繰り返す。

「これは私の個人的見解です。そもそも、乙女ゲーというのは私の考えではただのコンテンツではないのです。そのあたりは同意していただけると思いますが、実際には作品の中で燃やされる命と人間の物語であり、登場人物にはそれぞれの人生、生活、人間関係があります。それはいちユーザーである私たちの独断で勝手に切ったり、勝手に作り変えたりしてはいけないものなのです。なので、二次創作作品に関しても私はメインキャラクター以外の登場人物にスポットを当てたものしか読みませんし、原作の魅力を壊すような下手なエロ同人なんてもっての外だと思っています。しかしそれをたのしんでいらっしゃる方々がいることも知っています。なので私は自分が読まないようにしようということは思っていますが、この考えを他人に押しつけようなどとは一切考えません。その上であえて言わせていただきたいのです。実際問題、登場人物たちの人生の一端を垣間見ることができる乙女ゲーにおいて、全体どれだけの人がすべてのルートを攻略し、すべてのエンディングを迎えることができているでしょうか。もちろん、これだって実際の統計データがあるわけではありませんが、私の予想だとユーザー全体の五パーセントに満たないのではないかと思っています。多くはコンテンツの消費としかとらえておらず、そこには何らの感情も持っていないのではないかと。……こほん、偏見が過ぎましたね。ともかく私が言いたいのは、ゲーム内のすべてのルートを攻略せず、一体どうしてそのゲームを遊んだと言えるのでしょうか、ということです!」

 一気に早口でまくし立て、玲ははぁはぁと肩で息をしていた。

 いやー、久しぶりに聞いた気がする。オタク特有の超高速弁舌。

「……あ、ああ……その通りだな」

 あ、だめだあれは。半分も話が頭に残ってればいい方だな。

 俺は渋沢の呆然とした反応から、そんなことを考えた。ま、玲のあの長広舌を始めて体験したのなら、きっと誰だってこうなるだろう。

 俺はやれやれと首を振った。

 とんとん、と肩が叩かれる。

「……桜木さん、一体なんて言ったの? 日本語?」

「俺に訊かんでくれ……」

 俺はナギから視線を外し、たはは、と笑った。笑うしかなかった。

 とにもかくにも、玲の言葉はこれで終わりだ。さて、ここからは渋沢がどう動くか。

「……桜木と言ったっけ?」

「え? ええと、はい……」

 渋沢がゆっくりと立ち上がる。その巨体が動く様は、なかなかに迫力があった。

「ごめんなさい。……私、あの……つい言い過ぎたというか」

 それを起こっていると感じたのだろう。玲は怯えた子犬のようにびくびくし出した。

「……ありがとう。目が覚めた」

「えっ……? ええと」

「わたしが間違っていた。桜木、あなたは正しい」

「それはその……何と言いますか」

 それは俺たちにとっても玲にとっても予想外の反応だったのだろう。

 一口にオタクと言っても千差万別。それぞれの様々な考え方があり、そのどれもが間違っているとは言い難い。だからこそ、わかりあえる時もあればわかりあえない時もある。

 今回は、もしかするとわかりあえない時なのかもしれない。そう思ったのだが。

 意外なことに、渋沢からの反発はなかった。ほんと、意外。

 そして、その意外な展開に一番驚いているのは玲だ。助けを求めるように俺たちを見てくる。

 しかし俺たちにかけるべき言葉があるはずもなく、俺は玲から視線を外し、口笛を吹いた。

 存外、奇麗な音色がなるものだ。

「あーと……それはよかった。わかってもらえたのなら」

「当然だ。桜木の言うことは正しい。そして素晴らしい」

「あ、ありがとう……でも、何というかあまり私の意見に左右されるのは……自分の信念というか、そういうのに従った方が」

「ああ、わかっているとも。そしてわたしは桜木の言葉に感服した。だからこそ、桜木の言葉をわたしの新しい支柱にするんだ」

「…………」

 桜木が再度俺とナギを見てくる。自分で語っておいて何だけれど、この展開は予想外過ぎたのだろうか。

「師匠と呼ばせてくれ」

 とか言ってしまう始末だ。渋沢……おまえ。

 まあ別に渋沢が伊達や酔狂で言っているわけではないことは、目を見ればわかる。

 あのきらきらと輝く瞳のどこに、嘘や欺瞞の入り込む余地があるだろうか。

「……師匠はちょっと」

「師匠、そんなこと言わずに師匠!」

「……いいです、師匠で」

 渋沢の熱量に圧され、桜木が師匠になった。これは面白い展開だ。

 俺はくつくつとこらえきれず口の端から笑い声を漏らしてしまっていた。それを耳ざとく、玲が聞きつける。

「ちょっと健斗、何を笑って……」

「わ、悪い……でも、あまりに面白い……大変だなと思って」

「い、今面白いって言った! 面白いって!」

 玲が異議を申し立ててくるが、その両手は渋沢によってしっかり拘束されていた。

 渋沢の熱視線が玲に注がれる。その視線を真正面から浴びて、眩しそうに目を細める玲。

 ま、自業自得だな。あれだけ語ったら、同じ穴のムジナならこうなるのは明白だ。

 オタク文化にそれほど精通していない俺ですら、感心してしまったのだから。いや、俺どころかナギだってほほうと頷いていたくらいだ。

 なら、渋沢がこうならないはずはない。……いや、これはちょっと効果あり過ぎだけれど。

 俺は渋沢の予想外の反応にびっくりしていた。何せ師匠と言い出したのだから。

 桜木玲、弟子、爆誕といったところか。

「師匠師匠師匠~」

「…………どうしてこんなことに」

 ま、がんばれ。俺は応援しているぞ。

 俺は玲に向かってサムズアップしていた。玲はどことなくはた迷惑そうだったがそんなことは渋沢には知ったことじゃねぇからな。

 さて、これから一体どうなってしまうのか。先の展開が楽しみだ。

 そうして、俺たちがこの意外な関係性の誕生を楽しんでいると、隣でぼそりとナギが呟いた。

「……それで、引き籠りの件についてはどうなったのかしら?」

「あっ」

「えっ」

「うっ」

 三者三様。似てるようで違う反応を示した。

 ああそれ。……すっかり忘れていた。

「それでどうだろうか。外に出る気にはなったか?」

「なってない」

 俺の質問に、渋沢は間髪入れずに首を振った。

 ええ……なってないのぉ。今の流れは絶対になっただろう。

 俺は次の言葉を詰まらせた。こいつに対しては、何を言っても無駄なような気がする。

「ええと……じゃあ、こうしよう」

「……何?」

「俺たちと勝負しよう。それで俺たちが勝ったら、ちゃんと学校へ行く」

「どうして? そんなのわたしに何のメリットもないんだけれど」

「どうしてって……」

 まさかそんな言い返されるとは思わなかった。だって学校へ行くなんて当たり前のことだろう? それに、もともと引き籠り体質とかコミュ障とかいうわけではないのだから、学校へ行くことにも何ら抵抗なんてないと思ったのだが。

「……なぜと言われても……ええと」

 俺は渋沢を納得させられるだけの理由を持ち合わせていなかった。

 助けを求め、ナギを見る。玲へと視線を移す。が、二人が助け船を出してくれることはなかった。ああもう、こういう時に使えねぇな。

「……ま、面白そうだし付き合ってあげてなくもないけれど」

「ほ、本当か?」

「うん。……ただし、こちらにも条件がある」

「じ、条件だと……?」

「そっ」

 渋沢がにこりと笑った。痩せていた頃は魅力的だったのだろう。今ではただ、頬肉が盛り上がっているだけだ。

「わたしと師匠がペア」

「え? 私?」

 渋沢が玲の肩に手を置いた。玲は自分が指名されたことに困惑している様子だ。

 それは俺も同じだった。まじか……。

「ええと、どうして私が……」

「だって師匠ってすごくゲームに詳しそうだし、何より頼りになりそうだから」

「それは……まあなっちゃうけれど」

 いやいや、そこは否定しろよ玲。何当たり前みたいに言ってんだ。

 俺は玲をじとーっと睨みつけた。それで、自分の失言に気がついたらしく、肩を縮める。

 まあ、口にしちまったものは仕方がない。

「ええと、じゃあ……俺とナギがペアか」

「ええ……そうみたいね」

 俺とナギは顔を見合わせる。正直、どんな勝負が来ても勝てる気がしない。

「じゃあ勝負は……ええと、ペアでできるものか」

「何あったかな?」

 この時点で、俺の目論見はだいぶ外れてしまっていた。

 俺の計算では、俺と渋沢の二人だけ、一対一の勝負に持ち込みたかったのだけれど。

 今更そんなことを言ったところで、逃げられるだけだろう。ここは大人しく、二対二の勝負をするしかない。……ナギじゃなくて玲とペアだったら楽勝だったんだけれど。

 などと嘆いていても仕方がない。どんな勝負だって、俺たちが勝つ!

 俺は小さく息を吐いて、心臓を落ち着ける。

 大丈夫。玲にだって苦手分野はあるんだ。それさえ引ければ。

「ああ、これなんていいんじゃない? クイズゲーム」

「……まじか」

 俺は思わず呟いていた。そして玲より俺の方が苦手分野は多いことを思い出す。

 クイズゲームって……。俺たちで勝てるのか、本当に?

 俺はナギを見やる。たぶん、この程度のゲームだったらこいつもやったことはあるだろう。

「だ、大丈夫か?」

「たぶん……むかーしにちょっとやった程度だけれど。でも知識量にはそこそこ自信があるのよね、あたし」

「そ、そうか……そいつは頼もしいぜ」

 だいぶ自信がなさそうだけれど、本当に大丈夫なのだろうか。

 俺はかなり不安になっていた。それでも、事態は進行していく。

「ええと……あった、プレステ」

「え? プレステ?」

「そそ。プレステ4だからこれ」

「つまりそれ、おまえ結構やり込んでるんじゃ……」

 もしそうなら、かなり……というか不利とか言うレベルではない。

 万が一にも勝てる見込みなんてないんじゃないか、それ。

「大丈夫大丈夫。これ、ネット接続で世界中からランダムに問題が抽出されるしくみだから」

「お、おお……そうか。それはよかった」

 ほっとする俺。それはナギも同じだったようで、唯一玲だけが申し訳なさそうながらにわくわくしていた。

 渋沢が俺にパッケージを渡してくる。俺はなぜ渡されたのかわからず、それを手にしたまま固まっていた。

「何をしているの! さっさと準備して!」

「ええ……俺ぇ?」

 俺は自分を指差し、確認する。渋沢がこくんと頷いた。

 玲やナギにも視線を向けるが、二人とも苦笑いをするだけで、助けてくれる雰囲気ではない。

 いや、別にプレステにこれを入れるだけなら何ということはない。こんなこと、労力の内に入らないのだから。

 しかし……何となくこの理不尽な雰囲気が気に入らなかった。

 とはいえ、このままじっとしていても渋沢の不評を買ってしまいかねない。

 俺は渋々、渋沢に言われた通りセッティングする。

「これでいいか?」

「ご苦労」

「この……」

 無駄に尊大な態度の渋沢にいらっとした。……ったく、何で俺がこんなこと。

「それでは始めよう。……パズルタイムの始まりだぜ!」

「パズルじゃなくてクイズだろ常考」

 渋沢のボケに突っ込む俺。いやー、突っ込み役も楽じゃねぇぜ。

 

 

                         〇

 

 

 とまあ、そんな感じで始まったクイズ勝負。俺とナギは早々に脱落していた。

 なぜか問題が二次元関係に偏ってしまっていたのだ。普段からそういうものに慣らされていた俺はそれなりに奮闘できたが、ナギは開始数問でリタイアだ。

「はー、なかなか奥が深いわね」

「ああ……そうだな」

 しかし結構マニアックな問題が出ていたな。あれ、普通だったらまず溶けないだろう。

 ヘビー級オタクならともかく、俺みたいなライトな奴には荷が重い。

 つか全世界からネットを開始てランダムに~、とかって言ってたわりには、問題偏り過ぎじゃね? 玲と渋沢有利な問題ばっかだった気がする。

 まあ俺はハナから相手にされてなかったみたいだし、別にいいんだけれど。

 それはそれとして、だ。

「二人ともすごいわね。これで二百問連続政界よ」

「ああ……早押し形式で一問間違えたらそこでリタイアのルールだからな」

 つまり玲と渋沢は二人だけで四百問近い問題をノーミスで回答していることになる。

 俺とナギは大体五、六問で終了だった。

「それにしても、意外だったわぁ」

「意外? ……何がだ?」

「桜木さんのことよ。まさかこういうのに詳しいとは」

「知らずに頼んできたのかよ」

「あはは、まあね」

 ……ったく、と表面上はあきれて見せていたが、実は内心かなりどきりとしていた。

 何せ玲は学校ではこういう趣味を隠している。それが最近はなんだ? あっちこっちで気が緩みがちじゃないか?

 俺はモニタから玲へと視線を移した。

 諮問を次々に答えていく玲。その姿は楽しそうだ。すごく。

 だからまあ、いいかなと思ってしまう。ついつい。悪い癖だ。

 玲が幸せそうならそれでいいか、と思ってしまうのは。

「……まったく、気をつけないとな」

「ん? 何か?」

「いいや。何でもねぇよ」

 俺はゆるゆると首を振った。ナギには関係のないことだ。

 あらそう? とナギは再び視線を勝負師二人へと向ける。つられて、俺も二人へと目を向けた。

 渋沢と戦っている玲は、本当に楽しそうだった。それはもう、学校とは大違いだ。

 学校にいる時の玲は、それはそれで楽しそうだ。みんなの期待に応えて、自分を磨いていくこと自体は好きなのだろう。

 でも、それでもどこか窮屈そうにしている感は否めなかった。

 だから今こうして遊んでいる玲はすごくいい。笑顔は可愛いし、そういう玲が俺は心から好きだと言える。

 みんなは……どうなのだろうか。

 確かに玲の素性を知ってる奴は少なからずいる。そしてそいつらは玲のことを知っても、何ら態度を変えることはなかった。

 いい奴らだと思う。本当に。

 でも、だからといって全員がそうとは限らない。みんながみんな真人やナギのようないい奴らとは。

 もしかしたら玲の本当の姿を知ってしまったら、誰もが口をそろえて言うかもしれない。

 やめた方がいい、そんな趣味、と。そしたら玲はどんな顔をするだろうか。

「……だめだな」

「えっ……?」

 俺はぶんぶんと首を振った。まったく嫌な想像をしちまったぜ。

 取らぬたぬきの何とかってわけじゃあないが、現実になったわけでもないことをつらつらと無意味に考えるのはやめよう。考えたところで、俺にどんなことができるってんだか。

 その時はその時だ。もし仮に玲の秘密がバレたりしたら、俺が全力で守る。

 俺は内心で勝手にそう決心した。まあ、そうならないのが一番なんだけれど。

「どうしたの?」

「いや……何でもねぇよ」

 ただまあ、今はこのままでいいか。楽しそうだし。

 俺ははしゃいでいる玲と渋沢を見やった。勝負がついたのだろうか?

「終わったのか?」

「うん、終わったよ、健斗」

「へー……それで、負けた感想は?」

「どうしてわたしが負けたことが前提なんだ!」

 俺が手を握って、架空のマイクを差し出してやると、渋沢は憤慨したとばかりに牙を見せた。

 噛まれてはたまらない。俺はすぐさま腕を引っ込めた。

「そうかいそうかい。それで、実際はどっちが勝ったんだ?」

「どうしてわたしに……まあわたしが負けたんだが」

「だろう? そうだろう?」

 渋沢はぶすっとしたまま、言った。ので、俺は更に煽ってやる。

 すると、渋沢がぎろりと俺を睨みつけてきた。案外怖いのがすごい。

「何? 別にあんたに負けたわけじゃないから、わたし」

「わかってるって。玲に負けたんだよな?」

「こ、今回はたまたま調子が悪かっただけ」

「はいはい」

 言い訳すらお約束だった。とはいえ、勝負は勝負だ。

「あー、こほん。……渋沢さん、約束って覚えてる?」

「うう……覚えてるに決まってるじゃん」

「ふふん、だったら私の言うことを聞いてもらうよ」

「くっころ……」

 渋沢が胸を抱いて、悔しげに歯噛みする。その際、ぷるんと二の腕が揺れた。

「それでは、命令を発表します」

「……ごくり」

「……学校に行ってください」

「……え? ええと、それだけ?」

 渋沢にとって意外だったのだろう。きょとんとした様子で玲を見返している。

 一体どんな命令が下されると思ったのだろう。

「なんか……もっとこうくっころな命令がくるのかと」

「あはは、そんなこと言いませんよ。というかくっころな命令って何?」

 一瞬にして玲の表情が曇った。曇った……というよりは困惑したと言った方がいいか。

 俺もくっころな命令というのが何なのか知りたい。

「……まあそれくらいなら。というかなんで桜木さんがそんなことを?」 

 と、一応訊いてきたが、すぐに心当たりに思い至ったらしい。

 渋沢はナギへと視線を移動する。そしてああ、と言いたげに口を開いた。

「おまえか!」

「何よ今更。悪いかしら?」

「なんで唐突に知らない二人を連れて来たのかと思ったら」

「だって絵里ちゃん、あたしやおばさんたちの言うことなんて全然聞かないんだもの」

「だからって赤の他人に助けを求めるのはどうかと思うよ……?」

「赤の他人じゃないわ。ここにいる二人はあたしのお友達よ」

「お友達……ねぇ」

 渋沢の視線がナギから俺へと移る。え? 何?

「まさか……あんたナギとつきあってる……」

「ねぇよ!」

 俺は思わず大声で否定していた。そうしてから、ハッとナギを振り返った。

 やべ、反射的な行動とはいえ、考えなしに言っちまった。

「……はは、だぁいじょうぶよ。心配症ねぇ」

「そ、そうか……? はは」

 ならよかった、とほっと胸を撫で下ろす。

「……ま、何だっていいや。桜木さん、命令は学校へ行く、でいいの?」

「ええ。それでいいですよ」

「だったら簡単じゃん」

「簡単……」

「何? まさか無理だと思ってたんだ。もっと渋ると」

「ええと……まあそうだな」

 だって引き籠りが突然学校へ行くなんてハードルが高い、なんて話はよく聞くから。

 あ、でもこいつの場合は元から引き籠りってわけじゃないんだっけ? 学校に行かなくなった理由もよくわからんものだったし。

 なら、問題なんてないのか?

 俺は半ば混乱しそうになる頭をどうにか抑えて、そう結論づける。

 どうせ考えたって俺の頭じゃあな。

 まあ、何はともあれ、だ。一件落着したようで、何よりだ。

 俺はどや顔でふんぞり返る渋沢を尻目に、そんなことを思った。

 ナギも同じことを考えているのか、ぱちりと視線がかち合った。からかはわからないけれど、くすりとナギが苦笑いを浮かべていた。

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