妻の定年

オカン🐷

第1話 妻の定年

 ブオー、プオーオー。


 向かいの中学校から吹奏楽部が練習する楽器の音が聞こえてきた。

 それが私には合戦の合図を告げる、ほら貝の音に聞こえてしまう。


 おのおの方ご油断めさるな、敵はもうすぐそこですぞ。


 そこへ夫がのっそり現れた。

「お腹空いた」


 何、兵糧(ひょうろう)がつきたとな、慌てるでない。

「しばしお待ちあれ」

冷蔵庫と流しの間を忙(せわ)しなく行き来する私。

長刀(なぎなた)ならぬ包丁を握りしめ、まな板の上で荒々しい音をたてる。

ガス台の上のフライパンは灼熱地獄。

戦はまだ始まったばかり。

「何かつまむものないかな」

夫はあたりをゴソゴソ。

「ああ、じゃま、ここは戦場なのよ」

せんべいを手に、またスゴスゴと自室に引き上げて行った。


「ええい、助太刀(すけだち)いたす気がなき者は、早々に立ち去るがよい。

しかーし、この台所の城の明け渡しを所望するとあらば、いつでも心の準備は

出来ている。いや、むしろ喜んで差し上げようぞ。

ほら貝の音も止んで、合戦は終わった。


 私は首に巻いたタオルで額の汗を拭った。

「ご飯できたよー」

夫の部屋に声をかける。

「はーい」

のんびりした声が返ってきた。


 わらわは、いつまでかようなことをしなければならんのや。

戦はしんどいよのう。


 夫が定年になったら、男の料理教室に通うと言っていた話も

コロナの影響で頓挫したままだった。




         


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