サンジェルマンの灯

 暗く、長い山道を登っている。月明かりもない夜道ではカンテラの灯りだけが頼りだった。足を踏み出すたびにぺきぺきと音がする。そうして闇を抜けてゆくと、また次の闇がぬっと目の前に出現した。私は己の足元をしょっちゅう確かめながら歩かなければならなかった。山道が真っ直ぐなことだけが幸いだった。

 その山には山姥やまんばが出ると言われていた。しかし、それはよくあるあやかしの噂の類ではなかった、ことによるとそれは、人攫ひとさらいだとかそういうのではないらしいのだ。ふらっと道に現れては、そのまま何もせずに消えていくらしい。「それはきっと山姥じゃなくて狐だよ、狐。狐につままれたんだ」とある人は言った。「いいや、あすこは昔姥捨て山だったんだよ。それの怨念に違いない」などと根も葉もないことを言う人までいた。

 この道は帰路だった。私はもう何度もこの山道を歩いているが、生憎その山姥とやらに出会ったことはなかった。世間の噂話など甚だあやしい。

 そうこう思案している間に視界の左上に明るいものが映り込んできた。自分の家だ。カンテラを少し上に掲げ、片方の手で眩しいのを遮った。真っ黒の一面に灯りがぼうっと二つ浮いている。その奥行きのない景色に、私は子供の頃に見た影画かげえを思い出した。もう見慣れた景色だった。

 しばらく歩いて家に着いた。引き戸を開け、カンテラの灯を消す。戸を閉めよう振り向いたときだった。先ほどまで歩いていた遠くの山の方に灯りが見えたのだ。少し距離があるのにもかかわらずその灯りが余りにはっきり見えたものだから、私はしばらくそれに見入ってしまった。普通の灯りにしては大きい。さっきの話を思い出した私は人魂か何かと思ったが、輪郭がはっきりし過ぎている気もする。それに動きも変だった。こちらの方へ下って来たかと思ったら、戻っていったり、山道を外れたかと思ったら、ちょろちょろと小刻みに震えだして、ついにはシュッと消えてしまった。その景色が床に入っても頭の中にちらついてしまって、気味が悪くってよく寝付けなかった。


 翌朝、里の方へ降りてみると何やら騒々しい雰囲気だった。いつもの人だかりに加えて、余り見ない顔もある。私は野次馬の一人を捉まえて、それとなしに訊いてみた。

「あのね、米屋の所のせがれが例の山姥にさらわれたって、騒いでんだよ」

 すると隣に立っていた男が口を挟んできた。

「んな馬鹿な話があるか。あの息子のことだ。どうせ今頃、どっかで飲み過ぎでのたれちまってるんだ」

「ちげえねえ、ちげえねえ」

 また誰かが相槌を打った。

 その時、私は昨日のことを思い出していた。妙な灯りが山道を行ったり来たりしていたことだ。私はそのことを今ここで話してしまおうかと思ったが、言わなかった。何となく、面倒だと思ったのだ。

 その日、私は暗くなる前に帰った。昨日のあの奇妙な灯りが目の前に現れることを想像すると気味が悪くなったからだ。だからといってこのままないがしろにしておくのも夢見騒がしいので、戸の前に立ち、ずっと山道を眺めていることにした。

 やがて日が落ちてきた。雲が茜色になって、空に薄くのされている。遠くの稜線に太陽がうるむみたいに融けていって、沈んだ。日が暮れたのだ。

 完全に日が沈んでからしばらくは、格子窓から漏れ出る灯りを背に自分の影を見ていた。おもむろに顔を上げてみると一瞬、目を見張った。例の灯りが見えたのだ。山の方に、そして幾分か昨日よりもここから近い所にある気がする。見ている内に何だか怖くなってきた私は、灯りが消え去るのも待たずにさっさと家の中に入ってしまった。もしかすると段々とこちらに近づいて来ているのではないだろうか。ゆっくりと山道を下ってきて、明日の晩にはその戸を叩いてくるのではないかと思うと怖くって、布団の中で震えが止まらなかった。


 次の日、また里へ降りると昨日にもまして騒がしかった。すれ違う人の口々から察するに、どうやら居なくなった米屋のせがれがついに見つからなかったらしい。しかも、また居なくなった者が出たのだとか。

「あの飲んだくれ、熊にでも食われたんじゃねえのか」

「山姥だよ!山姥!」

「馬鹿言ってんじゃねえ。今度居なくなったのはまだ八つの子供だってえのに」

 不安で耐え切れなくなった私は、ついにあの奇妙な灯りのことを皆の前で話してしまおうと思った。

「バチが当たったのさ」

 そのとき誰かが言った。抑揚のない、女の声だった。

 それを聞いて、まるで自分が責められている様に感じた私は、急に声を上げるのが怖くなってしまった。思わず後退りをして後ろの人にぶつかった。「すみません」と言おうとしてその人の顔を見ると、顔が無かった。いや、正確には顔中が爛れてぐちゃぐちゃで、顔ではなくなっていた。目を逸らすと、その先にいる人も同じ顔をしてこちらを見ていた。後ろを振り返るとさっきの野次馬達も、こちらを向いていた。皆、顔が無い。里を見渡してみた。やはり、皆、顔が無かった。里中が、ぐちゃぐちゃだった。


 家に帰ると、戸の前に何かが立っていた。一見、人間の様に見えたそれは、白髪交じりの散らばった髪の毛を地面まで垂れ下げている。そいつがゆっくりとこちらに振り向こうとする刹那せつな、私はあの灯りのことを思い出していた。あの優しくて、あたたかい火のことを。忠告だったのだ、あれは。

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