二、百、始末の依頼をうけること

 磯崎要のもとにその箱が持ちこまれたのは、今から二週間ほど前――雛ノ月(三月)も下旬に入った日のことだった。

 その日は朝から肌寒く、昼をすぎるころには、細かい雨がぽつりぽつりと降りだしていた。

 いつものように大槻道場での稽古を終えた要は、夕方、雨の中を歩いて家に帰ってきた。そのとき、家の玄関先には、見覚えのある老年の男が佇んでいた。

 男は昔から磯崎家に仕えている下男で、名を惣七という。

「どうした、惣七」

「へえ……。奥様が、こちらの箱をしばらくお預かりいただきたいとのことでございます。ただ、決して中はご覧になりませんように」

「箱?」

 意外な答えに、要は少しばかり面食らった。自分のところへわざわざ遣いをよこすからには、屋敷によほどの変事が起こったのではないかと思ったのだ。

「なんでも、今この箱がお屋敷にあると、何やらの卦が凶になるのだそうで。しかしこちらで一月も預かっていただいて、それからお屋敷に持ち帰れば、これで、ええ、大吉になるということです」

 そう聞いて、要は思わず眉をひそめ、目の前に置かれた四角い風呂敷包みを見下ろした。

(妙な……)

 不審を覚えないわけではなかった。家の誰かがそんな卦を気にしていたという覚えはないし、道場で顔を合わせる弟の和馬からも、そんな話を聞いたことはない。

 だからと言って、断る理由もない。

(なに、預かるだけならたいしたことはあるまい)

 中を見るなと言われるまでもなく、見るつもりなど毛頭ない。何が入っていようと興味はない。

「わかった。預かっておけばよいのだな」

「へえ……それでは……」

 惣七は深く頭を下げ、箱を置いてそそくさと帰っていった。要と目を合わせようとしないその様子も、妙と言えば妙であった。それでも要はつとめて気に留めぬようにし、箱は惣七が持ってきた風呂敷包みのまま、押し入れの中にしまっておいた。

 異変は、その日の夜からはじまった。

 一人住まいで、自分のほかには誰もいないはずの家に他人の気配がする。ありえないとわかっていながら、念のため、家中を――と言っても二間きりの家だが――確かめてみたが、当然誰もいない。

 寝ようと床に入ると、今度は臥所の周りを歩き回る足音や、泣きながらしきりに何事か訴える女の声が聞こえてくる。そればかりでなく、眠れば悪夢を見るようになり、まんじりともできない夜が続くようになった。悪夢の内容は夜毎に違っていたが、姿の見えない何者かに手も足も出ず、無惨に殺されるという筋は同じだった。

 剣客としてそんなものに怖気づいてはならぬと、要は普段どおりに道場に通い、稽古にはげんでいたが、異変がおさまることはなく、むしろひどくなる一方で、日に日に稽古にも身が入らなくなっていった。

 ついには師の左内に呼び出され、

「このごろは道場に来ても上の空ではないか。お前にも似合わぬ。近ごろは顔色も良うないが、どこか悪いのではないか?」

「いえ、別に……」

「ほう……? しかし稽古に身が入らぬのならば、いっそせぬほうがよかろうぞ」

 ぴしゃりと言われ、要は黙ってうつむくよりなかった。

 こうなった原因はまぎれもなく、惣七が持ってきたあの包みの中の箱であろう。その方面には疎い要でも、それくらいは察しがついた。

 しかし己の身に起きている異変を、左内や他の門人に相談することはためらわれた。弟の和馬や、同年の門人のうちで親しくしていた相馬巽、竜胆隼斗などは、何かあったのではないかと心配顔で声をかけてくれたが、要はいつも適当に誤魔化していた。話せば自分がそんなものに怯えていると思われるかもしれぬ。あるいは妙な噂が立つやもしれぬ。それは癪だった。

 それでも、これは自分で解決できないことなのは充分わかっていた。

(しかし、相談するとしても一体誰に……)

 悩んだ要が、相談先としてまず考えたのが、富田村に住む始末屋・梶春臣だった。

 百の養父である梶春臣は昔から大槻左内と親しく、百を引き取る前から時々道場に来ては稽古の様子を見たり、

「たまには動かぬと、腕がなまるので……」

 と、門人に混じって稽古をすることを許されていた。つまりは正規の門人ではないが、一種の〔客分〕扱いをされていたわけである。

 平素は軽口を飛ばすことも多い春臣だが、始末屋としての仕事は一流であるという評判を、要も幾度も耳にしていた。

(梶殿になら、うちあけてもいいだろうか……)

 そう思って、左内から叱責を受けたあと、稽古を普段より早く切り上げ、一度家に戻って件の風呂敷包みを持ち出し、春臣を訪ねた要だったが、春臣は家にいなかった。たまたま行きあった近所の百姓に聞いてみると、春臣は将領の長田郡おさだぐんにある温泉に湯治に行っている知人を訪ねがてら、十日ほどゆるりと遊山をしてくると言いおいて出かけたという。

(十日……)

 今でさえ気が狂いそうになっているのだ。春臣が戻るまで、自分が正気を保っていられるとはとても思えなかった。

 途方にくれた要だったが、そこで彼はふと、百のことを思い出した。百が将領の西澤淵に住み暮らし、始末屋を生業としていることを、要はいつか本人から聞いていた。

「迷惑かとも思ったのだが……他にこんなことを話せるような相手も思い浮かばなくてな」

「迷惑など、とんでもない。要様、よく来てくださいました」

 やわらかに笑いかけた百に、要も肩の荷が降りた様子である。

「あの箱は……呪物、か?」

「きちんとあらためてみなくては、確かなことは申せませんが、お話をうかがうかぎり、そう見て間違いはないでしょうね。しかし、箱をその惣七とやらに言付けたのは、本当に奥様でございましょうか」

「む……。確かにおかしいとは思うが、屋敷の人間なのは間違いあるまい。俺を目障りに思う者もいるだろうし……」

 磯崎要は先に述べたとおり、武官・磯崎平馬の長男である。しかし彼の生母は平馬の妻・奈津ではない。要の母はるいという、下屋敷へ女中奉公にあがっていた娘であった。

 今から二十六年前、まだ家督を継いでおらず、独り身だった平馬が下屋敷に滞在したおり、ふとしたことから、るいに手をつけてしまったのである。

 それが知れたことで、るいは平馬の母・藤乃の怒りを買い、暇を出されることになった。

 るいは皇領・河北村の大百姓、久賀兵右衛門の娘である。百姓とはいえ、久賀家はかなり富裕の家であったので生活に不自由はなく、そこで産まれた要ものびのびとすごしていた。

 しかし、るいは要が四歳の冬、風邪をこじらせたのが元で世を去ってしまった。また、後に家督を継いだ平馬と正妻・奈津の間に子ができなかったこともあって、平馬の申し出で、彼は父の屋敷に引き取られ、それから十七、八のころまで屋敷で暮らしていた。

 このことは、百もこれまでに要から聞いて知っていることであった。

「お屋敷に、要様を疎まれる方がいらっしゃる、と?」

「藤乃様は間違いなく、な。お前が相手だから言うが、俺が磯崎の屋敷を出たのは、修行のためばかりじゃない。実のところ、あまりにあの隠居のあたりが強くなってきたからだよ。奈津様は……俺にも優しくしてくださったが……それでも俺は妾腹めかけばらなのだ。奈津様からすれば、俺の存在は面白くなかったろうよ。こんなことをせずとも、俺はもう屋敷には戻らぬものを……」

「……要様は、それほど奥様のことがお嫌いなのですか」

 思わず百が零した言葉を聞いて、要がぎょっとしたように顔を上げ、

「まさか……!」

 二、三度、強く首をふった。

「俺がなぜ義母ははを嫌わねばならぬのだ。あんなに善い方を、なぜ……」

「ではなにゆえ、先のようなことをおっしゃいます?」

「言いたくもなろうが!」

 百をきっと睨みすえ、はじめて要が声を荒げる。

 百は微動だにせず、じっと要を見返した。

「妾腹の俺がいつまで屋敷にいるつもりかだの、和馬を差し置いて後を継ぐつもりなのではないかだの……陰であの隠居や使用人があれこれと噂していたことくらい知っている! 父も義母も和馬も、顔には出さずとも、腹の中で何を思っているか……!」

 はたと我にかえり、要ががっくりと肩を落とす。ここまで荒れ、うちひしがれた要を、百はついぞ見たことはなかった。

「すまない。どうかしているのは、自分でもわかっている。わかっているのだが……」

「ええ、ええ、大丈夫です。まだ疲れておいでなのです。今日はもうお休みください」

 しばらくして、要が眠ったのを見届けてから、百は難しい顔で考えこんだ。

(まさか、奈津様が……?)

 平馬の妻・奈津は要が引き取られた翌年、彼にとっては異母弟にあたる息子・和馬を産んでいる。かといって要を邪険にすることはなく、世に言う〔継子いじめ〕などもなく、要を我が子同様に扱っていた。

 和馬が産まれてから、藤乃が

「賤しい妾の子など、実家さとへ帰しておしまい」

 と言い出したことがあったという。

 このとき、平馬よりも奈津が、

「和馬が産まれたからお前はいらぬという、そのような道理が通りますか!」

 と、きっぱりとはねつけたそうな。

 百自身も、平馬や奈津とは以前から顔なじみとなっている。

 これはあるとき、左内への挨拶がてらに稽古を見学に来た平馬が、道場で他の門人に混じって振棒をつかう百を見、

「あの子供は?」

 と、左内に問うたのがきっかけであった。

 そこで平馬は、左内から、百が春臣の養女むすめだと聞かされたらしい。

 そこから何があったのか百は知らぬが、ともかくもそれが縁で平馬と春臣に交流ができ、要が兄弟子、和馬が弟弟子にあたることから、百も磯崎家に招かれるようになった。

 百が春臣に引き取られた経緯いきさつも、いつしか平馬や奈津の知るところとなったらしい。

 それゆえか、奈津は百に会う度にいつも、

「遠慮をすることはありませぬ。本当の親と思ってよいのですよ」

 そう言ってくれ、また屋敷内で要や和馬に対して何くれとなく世話を焼く様子を覚えているだけに、

(奈津様が、要様を呪うだろうか……?)

 百は首をかしげざるをえないのである。

 むしろ、

(奈津様よりも、ご隠居のほうが……)

 とさえ思っている。

 かつて、るいが要を身ごもったことが知れたとき、屋敷で最も激怒したのが、平馬の母・藤乃であった。

 今は隠居の藤乃は磯崎家の家付き娘で、若いころから非常に気性が強かった。婿養子とはいえ当主の磯崎裕介を、時として居丈高に叱りつけることもあったと言うし、平馬が当主になってからも、藤乃から幼子のように叱られることがあると言うのだから、このときにどれほどの剣幕であったかは推して知るべしである。

 藤乃は、

「賤しい百姓の娘などが、磯崎の家に入るなどとんでもないこと」

 と、平馬がるいをめとることも、妾にすることも承知をせず、とうとう彼女を家に帰してしまった。これは帰したと言うよりも、追い出してしまった、と言ってよい。

 ちなみに、百は藤乃と顔を合わせたことは数えるほどしかない。藤乃は普段から屋敷内の離れに住まっており、母屋のほうへはほとんど顔を見せなかった。

 無論、顔を合わせたときには挨拶もしたし、向こうも挨拶をかえしはしたが、いかにも不快げな色がその目に浮かぶのを、百は見逃しはしなかった。

 しかし人の心というのはわからぬものである。要が漏らしたように、奈津が心の奥深くでは要を疎んでいたとしても、継子への情として、納得がいかぬこともない。

(いや……早合点をしてはならぬ)

 軽く頭をふる。それでもなお、百の胸には疑問が残っていた。

 彼女が十四のとき、奈津が、

「少し話を聞きたいことがあるので、屋敷へ来てもらえませぬか?」

 と、和馬づてに屋敷へ呼んだことがある。それはちょうど、要が尾木村に移るか移らないか、といったころで、彼の剣術修行が烈しさを増しかかったころでもあった。

 百の方では、特に呼び出されるような心当たりはなかったが、それでも、例えば道場での自分のふるまいに、何か奈津が気分を害するようなことでもあったかと、百があれこれと考えながら屋敷へおもむくと、奈津はさっそく手作りの汁粉を出してくれた。

 そして、百の暮らしに不自由なことはないかと、いつものとおりに優しく気にかけたあと、

「近ごろ道場で、要の様子に変わりはありませぬか?」

 そう訊ねたものである。

「はい、毎日遅くまで稽古をしていらっしゃいます。お変わりは……ない、と思いますけれど、要様が何か……?」

「いいえ、変わりがないのならそれでよいのだけれど……あの子はすっかり無口になってしまって。もし何か思い悩んででもいるようなら、なんとか力になりたいのだけれど」

 そう言った奈津の顔にも言葉にも、真情がありありと現れていたことを、百はよく覚えている。

 やがて、そっと立ち上がった百は台所の隅へ行き、塩を詰めた箱の中から、例の包みを掘り出した。

 瘴気は未だ消えていないが、先に比べるとだいぶ薄くなっている。

 これなら大丈夫だろうと風呂敷を解く。中に包みこまれていたのは、寄木細工の手箱だった。横幅はせいぜい五、六寸、高さは二寸もないであろう。箱はいわゆる秘密箱の類で、手順を知らなければ開けられぬ代物だった。

 当然、百がその手順を知るはずもなく、彼女は明け方近くまでその箱と格闘していた。何度か短気を起こし、いっそ叩き切るか、腕力に任せて強引に開けてしまおうかという考えがよぎったが、百はどうにかその考えをはねのけた。そんなことをして、万一取りかえしのつかないことが起こっては、と案じたのである。

 ようやく蓋が開いて中身を確かめたとき、百の顔色がさっと変わった。

 幾本もの木釘が刺さり、瘴気が絡みついた藁人形。その胴には金釘流の恐ろしくまずい字で、何やら書きつけられた形代が留められている。

 しかめ面でそれを見つめ、百はようやく〔磯崎要〕の三文字を読みとった。

「……呪物、だったか」

「要様」

「どうせわかっていたことだ。今更隠すな」

 とっさに箱を袂で覆った百へ、いつの間にか起き出していた要が苛立った声を投げる。思わず目を逸らした百を見、要もはっとした様子で目を伏せた。

 つと彼に近寄った百は要の肩を掴むと、正面から彼の顔をじっと見つめた。

「要様、この一件、確かに私が引き受けました。ですから決して、決して早まった真似だけはしないでください。よろしいですね」

 ぐっと、百の手に力がこもる。

 その目に熱いものが浮かび、今にもこぼれ落ちそうになっているのを見て、要は肩の痛みも忘れて声を呑んだ。

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