第八話の7

 イャノバは力を振り絞って泥の道を駆けた。里のものの並ぶ列は全部で四百人ほどで、中間よりやや後ろ側にいたイャノバたちは間もなく後部の戦闘地点へ着いた。見た限り、既に三十人近くの里のものがぬかるみの中に沈んでいた。イャノバに先行していたエンサバはすでに戦いを初めていて、列の左右から弓を撃っていた集団の片翼に槍で持って切り込んでいた。

 イャノバは余ったもう片方の敵集団に奇襲をかけた。木に登り、頭上から確実に一人目の頭蓋を槍の柄で殴り砕いた。雨と風に木々が荒れる音で、声もなく死んだ一人目に敵はまるで気づかず、そのままイャノバは敵の喉をついたり頭を後ろから強打するなりして静かに殺していった。それが四人目を倒した時点で、ついに気づかれ、蛮族たちは声を上げた。

 敵は、蛮族だった。これらは里を持たない。誰のものでもない森の中で狩りをして、旅人を襲い、また野獣に襲われ点々と移動する一族だった。後列を襲っていたのが右翼と左翼合わせて四十人ほどで、前列を襲ったのはおそらく三十人程度だろうとイャノバは予想した。

 イャノバの動きは、鈍かった。

 イャノバの姿を見た近くのものたち三人が、一斉に矢を放った。そのうちの一本が逃げるイャノバの左目へ飛んだが、イャノバは地上へ飛び出た木の根に躓いて転倒し、幸運にも回避に成功した。すぐに手近な木立の背後へ隠れる。

 イャノバは呼吸が荒く、耳が遠くなっていた。体は徐々に重さを増していき、これはもう助かりようがないと、イャノバは悟った。その口元に笑みが浮かぶ。ようやく死ねる。みんなのために戦って、逃げないで、戦士として。

 イャノバは飛び出した。

 慣れない森で、体はどこまでも言うことを聞かず、それでなおその戦神のような子供を敵は殺しきれなかった。木に素早く駆け上って、枝から枝を伝い、自分を見失ったものを体重を乗せて槍で殴る。それを二度目からは弓をしまい槍を持ったが、イャノバはこれを逆手に取った。上から降ると思い込んでいる敵の死角から地面に降りて、木の幹を蹴り跳んで背中から短槍を突き刺した。

 いよいよ敵は、自分たちが相手をしているのは子供の姿をして森に迷い込んだものを狩るという妖精なのではないかと思い始めていた。熱に腫れ上がったイャノバの喉からは異音が漏れ、それが聞こえたと思えば仲間が一人減っているのだ。

 敵は方針を変えた。後列を捨て、前列に移動を開始したのだ。そこにいるはずの味方たちと合流しようという算段だ。エンサバの相手も同様で、十人ほどが列に沿って走り始めていた。

 逃げる? いや、まずい!

 ある程度列の前に上ると、戦士は皆先頭に行っていなくなっている。それに気づかれれば連中は中頃を狙って食料や、この先いずれかの里を見つけたときのためにとってある貴重品などを略奪するだろう。余裕があれば、女も連れ去る。ウタカは長年一緒にいるイャノバが見ても美しい。そのうえ子供で、簡単に無力化できる上に運ぶのにも苦労はない。見つかれば確実に連れ去られる。

 イャノバは走った。移動には思っていた倍の時間がかかった。エンサバも同様に敵を追っているのかは、イャノバには分からなかった。森の中に敵を見つけたら、血反吐を吐くような思いで叫んで注意を向けさせた。イャノバは長くて重い枝を見つけると、それを相手に投げた。これを短槍だと思って弾いた相手の懐に槍を構えて突撃し、深手を負わせたら素早く抜いて、柄で頭を下から殴った。殴打は顎に入り、蛮族は目を回して膝から倒れる。

 イャノバは敵の槍を拾って、木にもたれ掛かり、息を整える間もなくまた走った。

 蛮族どもは弓でもって無防備な列の子供や女を射ていった。あるいは自ら列に分け入って、奪えるものを物色した。イャノバが自分の“家”の場所まで戻ってくると、ウタカが男に殴られているのを見た。他に二人の蛮族がいたが、イャノバはその三人の中に吠え声を上げて突っ込んでいった。手前のひとりが槍を構え、その後ろのひとりが弓を構えた。奥の男はウタカを肩に抱え、逃げようとしている。

 イャノバは左手の槍を投げた。敵の槍持がこれを叩き落とすと、弓持ちが矢を射た。強風に狙いは甘く、イャノバに当たることはない。イャノバは続けざま右手の槍を投げた。が、これも叩き落された。ウタカを攫った男の背中が小さくなっていく。

 ウタカ!

 叫ぼうにも、イャノバの喉は潰れてしゃがれたうめき声しか出なかった。丸腰のイャノバに弓はなお当たらず、槍持が投槍の構えをとった。まっすぐ走るイャノバに、これを避ける選択肢はなかった。望むもの得ること能わぬなら、我が命まで。イャノバは全てを運命にゆだね、蛮族の黒い目を真っ直ぐに見つめ返した。

 男の肩に槍が刺さった。叫びを上げて、大きく体勢を崩す。弓持ちがすぐに槍の飛んできた方向を見たが、もう一本の槍がその胸を貫いた。男は手放した槍を拾おうとするが、屈んだ顔面にイャノバの膝が直撃した。鼻血を吹き出し倒れる男をよそに、イャノバは槍を拾い上げ、ウタカを攫った男の木々を縫うように逃げる背中を狙った。

 そして何もない木立の間に投げた槍が、わずかな間をおいて姿を晒した蛮族の背を貫いた。風雨の暴声に混じって、かすかな悲鳴がイャノバの耳を打った。

 イャノバは膝を付いて、自分の足元に倒れる男に槍を投げたものをみた。彼の思ったとおり、エンサバだった。エンサバは肩に二本、腹に一本の屋が刺さって、体中に切り傷と打撲の跡があった。

「イャノバ、無傷とはまったく大したやつだ……さすがは里一番の戦士だ」

 エンサバはよろよろと寄ってくると、体を重そうにして尻をついた。共に後列へ向かった時の活気さはなく、傷の割に死にかけの体であるように見えた。イャノバはまだ息のある弓持ちの矢を拾い、矢じりを見た。雨や泥ではない、やや粘り気のある液体が塗ってある。

 エンサバ、とイャノバは呼ぼうとして、喉を押さえてむせた。一度むせるたびに、更に強烈な痛みがあった。体を強張らせ痛みに耐えるイャノバに、エンサバは言った。

「先頭の方でも勝ったろうが、死人が多すぎた。矢を受けたやつは全員死ぬだろう。戦士がいなくなれば、残った女子供もみな死ぬ」

 この毒で死ぬと決まったわけではないと、イャノバは言おうとした。口を開いて、音を出す前に顔を歪めて眉尻を下げた。

「お前ひとりでは皆を守ることはできない……だから……ウタカを連れて逃げろ。おれが許す」

 エンサバはそう言うと、体を仰向けに倒した。その様子から、もうろくに体に力が入らないのだろうとイャノバは悟った。

 エンサバが、家父が死ぬ。毒で死んでしまう。そして、あるいはウタカなら解毒できる方法を知っているのかも知れないと思い至った。巫女は里の知の集大成でもある。あらゆる技術や知識を歌や物語に変えて持っている。ウタカに至っては、ものを見ただけでそれの正体を突き止める力を持っている。毒がわかれば、症状を和らげたり解毒することもできるかも知れない。

 イャノバは重い体でウタカの元へ走り、蛮族と一緒に倒れているウタカへ慎重に歩み寄った。体に傷はなかった。ただ、気絶している。今のイャノバにはウタカの名前を呼ぶこともできなかった。体を揺すってみても目を覚ます気配はない。ウタカを自分の背にのせて、イャノバはエンサバのところへ戻ろうとした。

 後少しというところで、エンサバの傍らに三人の男が立っているのに気付いた。イャノバの里で切られているのとは違う装束で、話す言葉の訛り違った。何より、イャノバはこの三人の戦士を見たことがなかった。

 蛮族の生き残りだ。イャノバは今丸腰で、背にはウタカを抱えている。木の影に体を隠しながら、イャノバは彼らの様子を見た。エンサバが倒れたまま、イャノバに気付いたように目を見開いた。それからゆっくりと、許すように目を閉じていく。

 ダメだ、ダメだエンサバ。

 イャノバの足はしかし、動かなかった。背中のウタカは温かく、生きていた。エンサバの顔はどんどん土気を帯びていき、苦しそうに胸を上下し始める。三人の蛮族の戦士は三人とも短槍を持ち、背中に予備の槍も持っている。イャノバの体はひどい熱を帯びていて、気道はようやく通っていた。イャノバはその場に釘付けになり、一歩として動くことができない。

 男たちのひとりが、地面に落ちた矢を拾って仲間に見せていた。矢じりの部分をよく見て、槍を持ち直しエンサバに寄っていく。二人がかりでエンサバの体をうつ伏せにして、頚椎のあたりに柄尻を押し当てた。

 よせ、やめろ!

 走り出そうとしたが、足は震えるだけだった。

 イャノバは浅く早く呼吸を繰り返し、震える体で踵を返した。ゆっくりと、音を立てないように木々の間を抜けた。目を開けているのが辛かった。呼吸はどんどん苦しくなっていく。頬をつたって、雨とそうでないものが流れていった。

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