第八話の2

 素材が素材ゆえに、人形は非常に脆い。普段から持ち歩くものではないとはいえ、イャノバが生まれたときからあるものだ。レッドカイザーの宿った人形も他の例に漏れず表面の泥が剥離しかけて、内部の草の帯はほつれたり千切れたりといつバラバラになってもおかしくない。そこで、レッドカイザーの頼みからこの人形の補修が度々行われるようになった。

 ここで多めに素材を足して質量をかさ増しすれば現界時のエーテルの入る容量も増えそうなものだが、原型がなくなるとイャノバの認知境界が崩れてしまう可能性がある。「これはおれのアキノバじゃない」と欠片でも疑われたら終わりだ。人形の頬についた傷などは残しておかなければならない。

 人形の補修をするのはイャノバの婚約者の少女、ウタカだった。ウタカはレッドカイザーの細かい要求の意を汲んで、的確に人形を補修した。手先が器用なのもあるが、それだけではない。

 ウタカは特別な目を持っている。

「ウタカ! おれは哨戒へ行ってくる。アキノバを頼んだぞ!」

 イャノバが大声で言った。その頬には、人形に付いてるの同じ形の傷が横一筋にある。

「はぁい、イャノバ、気をつけて行ってらっしゃい」

 ウタカは短槍を持つイャノバへ駆け寄って、自分の頭を彼の頬へ擦り付けた。イャノバは枝葉で組んだような簡素な"家"の住居から離れ、外敵からの防衛に備えて作られた幾本もの木杭を越して森の中へ入っていった。

 ウタカは静かにイャノバの背中を見送ってから、目を瞑って吐息を漏らし、小走りで人形のもとへ戻った。この日は怪獣は出ていないが、人形の補修を行う時はできる限り意識を降ろしていた。万が一間違いが合ったとき、これならすぐに気づくことができるし、あるいはその"間違い"を事前に止められるかもしれないからだ。

 ウタカは水と粘土を混ぜて粘りの強い泥を作り、それを人形に擦り付ける。この灰色の泥は日に当てて乾燥させると白くなる。

『あの頭を擦り付けるのは、何かの儀式なのか。君たちは毎回同じことをするようだが』

「元々はあたしの癖だったんですけど、小さい頃からイャノバにやっていたらついにやめられなくなって」

『では意味がないのか』

「意味は、その、あはは」

 なんだその笑いは、とレッドカイザーは思うだけにした。自分にも聞かれれば痛いことがある。

 ウタカは強い力を持っている。ものの真贋を見分ける力だ。人の世界を覗き見て、隠し事を暴くことができる。レッドカイザーはこの少女に自分のことも筒抜けなのではないかと思わずにいられなかったが、その態度はあくまで柔らかかった。

「ねぇ、アキノバさまの伝説はご存知?」

『うむ、知らないな』

 ウタカには少なくとも、本物のアキノバだとは思われていない。ウタカは巫女の家系だから、ヴルゥの下位世界侵攻がもう少し遅れて、かつイャノバの妻でなければ、大巫女はこの少女で、初めて意識を降ろした自分をアキノバだと信じず火に投げ入れてしまったのかも知れない。

「アキノバさまはこの里の方ではないの。ある夜明けに海から上ってきて、びしょ濡れで里長に一杯の温かい粥を頼んだの。その時はまだこんな"家"なんてなくて、本当に浜に小さな小屋が建ってるだけだった。初代の里長は男の人に粥と、なけなしの食べ物を与えた。男はそれから三日三晩、泥のように寝た」

 ウタカは泥の塗装を終えた人形を、陽がよく当たるよう石の台に横たわせた。この石台は広く、他の人形も数多く干せるようになっている。

「浜の里はこのあたりで唯一の浜だったから、同じようにここに住みたがったひとがやってきては、ご先祖さまたちは戦ったわ。ううん、今もだけどね。でも一番はじめに浜の里のために戦ったのは、海から来たアキノバさまだった。三日の後に襲ってきた賊の十人を、ひとりでやっつけてしまわれたの。初代里長の時代には、十人しか家族がいなかった。戦える人だけならもっと少なかったはず。アキノバという方は、まさにあたしたちの命の恩人なの。それから、もっと丈夫な家の作り方、木の簡単な樵り方、海に住んだけど魚のとり方も捌き方も分からなかった里の人に、それも教えてくれた」

『アキノバはこの地で死んだのか』

「分かりません。そう言い伝える話と、最後は海へ帰っていったって話の二つがあります」

『なるほど』

 そうやって聞いて、なるほど武威の張ること凄まじく、多勢に無勢で難なく討ち返し、この里が"浜の里"として繁栄していくのに必要な土台をほとんどひとりで担っていたも同然となれば、外から来たものだろうと英雄なのに違いはないだろう。

「あたしはあまり真に受けてないんですけど。海から上がってきたっていうのから、どこかおかしいじゃないですか」

 ウタカは巫女だというのに随分なことを言った。イャノバの婚約者となるまでは巫女になるはずだったんだから、語り部としてあらゆる伝承も聞かされたのだろう。力のあるウタカからすれば、それが退屈に思えたり現実味のない話だと思ってしまうのは無理からぬ話だった。

『イャノバはアキノバに憧れるなら、学を得るのにも励むべきだと思うがな』

「最近ようやく聞き分けが良くなったので、あたしはあれでも十分です」

『あれで?』

「あなたが来る前はそれはもう大変でした。イャノバにはアキノバに決して届かないという焦りがあって、それで力を得るためにひとりで危険な獣をかる無茶もたくさんしたんです。それが最近はありませんから、今日だって安心して見送ることができました。前は、イャノバが家の外に出るたびにもう帰ってこないんじゃないかって思ってしまっていたから。だから、あなたが来てくれてよかった」

 レッドカイザーはその感謝に迂闊な返事をできなかった。結局、イャノバを野獣の退治よりも危険な目に合わせているのは自分だ。アキノバだと自らを偽って。ウタカはそれを責めないが、レッドカイザーにこの話をしたのは、イャノバをどうにかしようものならただでは済まさないという彼女なりの脅迫にも受け取れてしまった。石台に無防備な姿を晒していると、ウタカが覗き込んで優しく微笑んだ。

 お互い、胸中に秘めるものありか。

 レッドカイザーはそう思った。

 ほどなく、イャノバは家へ帰ってきた。傍らに背の高い男を連れていて、二人で明るく談笑している。ウタカは人形に塗った泥が乾いたので、薄い樹皮で表面を削って形を整えていたが、イャノバに気づくと声をかけた。

「イャノバ、おかえりなさい。ウボクさんとご一緒?」

「ああ、今日の哨戒当番だったらしい」

「ウタカ、元気そうだな!」

「おかげさまで」

 ウタカは座りこんだまま、首を傾げるようにして愛想をよくした。

「これからウボクの家に行って来ようと思うんだ、イャソクに会ってこようと思う」

「いいじゃない、"お父"にはあたしから伝えるから、アキノバさまとの武勇伝たくさん聞かせて来なさいな」

 イャノバたちが踵を返したのを見送るウタカに、レッドカイザーは聞いてみた。

『あのイャノバがいやに親しそうだったな』

「生み親ですから」

『ほう、なるほど。ではイャソクはウボクの妻か』

「え、違いますよ。妻を持てるのは家父と里長だけですから」

『ほう、そういうものか』

 となれば、意中の女を我がものとしたければ男は家父になるしかないわけだ。イャノバがウタカと番われるために家長を目指した、というのは無いだろうからその辺りは成り行きだろう。さしずめ、次期家父と決まって婚約者を選ばなければならなくなった時、最も仲の良いウタカを選んだだけだろう。

「うーん、これくらいかな。あとはイャノバに見てもらえば――」

 人形をあらゆる角度から見て補修の成果を確認していたウタカだが、ふっと西の山を振り返った。レッドカイザーもほとんど同時にそれを感じる。

 凄まじい地震があった。積んであった薪が崩れ、立ててあった槍が倒れる。

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