見える僕と見えない君。見えない僕と見える君。

桜楽 遊

見える僕と見えない君。見えない僕と見える君。

 高校一年生の夏。夕方のSHR。

 夏の暑さに紙一重で敗北を喫した僕は、蝉の鳴き声をバックグラウンドミュージックにしながら、机の上でうつ伏せになっていた。

 担任の先生が何やら話をしているが、話の内容が頭に入ってこない。こうも暑いと真面目に聞く気すら失せてしまう。

 僕が汗を流しながら項垂れていると、クラスメイトがのそのそと立ち上がり、机を教室前方に運び始めた。

 最後列にいると皆の動きが良くわかる。どうやら、SHRが終わったらしい。

 僕も立ち上がり、机の上に椅子を乗せて教室前方へ運ぶ。教室掃除担当の人たちへの配慮だ。

 幸いなことに、僕は今月、掃除当番ではないため、早々に帰路に就くことができる。

 そそくさと教室を出て、廊下を歩く。複数の生徒とすれ違う。


「今日、サッカー部の男子の半数が体調不良で欠席したらしいよ」

「え、まじ? 呪いじゃん、こわ!」


 すれ違った女子生徒二人組から、何やら物騒な会話が聞こえてきた。

 彼女らの話は全て事実だ。実際、僕のクラスのサッカー部男子三人も欠席していた。


「そうそう。呪いといったら、この学校に呪われた少年がいるらしいよ」

「何それ?」

「小学生の頃、体調不良で毎日のように休んでいた子がいてね」

「体弱いだけじゃね?」

「ウチもそう思ったんだけど。その子の友達は胸に大怪我を負って――」


 女子生徒二人が噂話で盛り上がっているが、気に留める必要もない。

 僕は黙って廊下を進み、階段を降り、玄関に向かう。

 玄関に到着するや否や靴を履き替え、外に出る。校門までは少し距離があり、辿り着くためには校舎南の駐車場を横切らなければならない。ちなみに日陰はない。

 心の中で夏の太陽に文句を言いながら歩いていると、ちょうど校門に着いたタイミングで背後から話しかけられる。


汰月たつき! 声くらいかけてから帰ってよ!」


 藤沢ふじさわ 汰月たつき――、僕の名前を呼ばれて反射的に振り返ると、少し怒った様子の少女がいた。

 彼女の名前は明城あけしろ 陽花里ひかり。僕の幼馴染だ。

 整った顔立ち。肩甲骨の辺りまで伸びた長く艷やかな黒髪。主張しすぎることもなく、かと言って控えめすぎるわけでもない胸の膨らみ。

 幼馴染贔屓を差し引いても、間違いなく学校一の美少女と言える。


「ねぇ、ちょっと! ちゃんと聞いてる?」

「ん? ああ……聞いてる、聞いてる。……で、なんの話だっけ?」

「聞いてないじゃん!」

「声が大きいよ」

「――っ!」


 陽花里は手で口を塞いでから、慌てて周囲を確認する。幸いなことに、周囲に人はいなかった。他の生徒はまだ、校内にいるのだろう。

 陽花里はホッと息を吐いて、会話を再開させる。


「一人で先に帰らないでって話。声くらいかけてよ」

「でも陽花里、部活あるだろ?」

「今日はないもん」

「そんなこと知らねぇよ」

「それでも、同じクラスなんだから『さようなら』『また明日』『愛してる』とか言ってから帰るべきでしょ」

「最後一つ、おかしな言葉が混じってるぞ」


 とはいえ、『愛してる』を除けば陽花里の言っていることは最もだ。

 普段は『じゃあな』くらいは言ってから帰るようにしているが、今日はすっかり忘れていた。これは暑さのせい。僕は悪くない。


「まあ、別に怒ってないけどね。……それより、サッカー部の話知ってる?」

「……ああ」


 僕はサッカー部の部室がある方を見る。


「見える?」

「くっきりと見えるな」


 部室に黒く濁ったオーラが見える。

 間違いない。間違いなく、悪霊の霊気だ。

 僕は物心ついたときから悪霊を見ることができた。他の人には見えなくても、僕には見える。

 死後、怨念や心残りがあるなどの理由で成仏できなかった人間は霊になってしまう。その霊の中でも、胸に抱いた怨恨や後悔が自身でコントロールできないほど肥大化した場合、人に危害を加えるようになる。

 人に危害を加えない霊を善霊。人に危害を加える霊を悪霊。僕と陽花里はそう区別している。

 悪霊は人に呪いをかけることもあれば、その手で直接、物理的に人を傷つけることもある。

 先程廊下ですれ違った女子生徒二人組の言っていたことは正しい。サッカー部員の半数が学校を欠席したのは、まぎれもなく呪いのせいなのだ。

 数ヶ月前。サッカー部の三年生が一人、交通事故で命を落としたと聞いた。おそらく、レギュラーメンバーに入れないまま死んでしまった彼が、自分より実力のある部員に嫉妬し、呪っているのだろう。


「幽霊の仕業なら、汰月の出番だね」

「馬鹿か。僕は悪霊を見ることができるだけであって、祓うことはできないんだぞ」

「祓うんじゃなくて、成仏させてあげるの」

「無理だ。あいつらは最早、人の形を留めていない。おまけに言葉も通じない。同じ幽霊でも、陽花里が見ることのできる善霊とは全然違う。善霊は人の形を留めているし、言葉も通じるんだろ?」

「そう、だけど……」


 陽花里は口を尖らせて、不服そうな顔をする。彼女は、僕には見えない善霊を見ることができる。しかし、悪霊を見ることはできない。

 だから、僕が教える必要がある。悪霊とは関わるべきでないと――。

 放っておけば、悪霊も自然に成仏するだろう。サッカー部員の何名かはしばらくの間、原因不明の体調不良に襲われるかもしれないが、彼らがどうなろうと僕には関係のない話だ。


「僕のモットーは『無茶な人助けはしない』だ。人を助けるのは、簡単なことじゃない」

「……じゃあ、サッカー部には行かなくていいけど。代わりに私の行きたいところについてきて」

「早く帰りたいんだが……」

「そんなこと言わない。せっかくデートに誘ってあげてるんだから」


 腰に手を当て、胸を張る陽花里。

 幼馴染だからこそ、嫌というほど理解している。こうなった彼女は絶対に折れない。


「はいはい、嬉しい嬉しい。お供しますよ、お嬢様」

「なんかウザいけど、今回は許してあげる。――幼馴染の特権だからね」


 そう言ってこちらを下から覗き込んできた彼女に、僕は不覚にもドキッとしてしまった。



◇◇◇



「――それで、デートに選ぶ場所がここか?」


 陽花里に言われるがまま、彼女の行きたい場所へ同行した僕の眼前にあるのは、一つの空き家。それもかなり大きな家だ。屋敷と言えるほどではないが、それでも一般的な一軒家の二倍ほどの大きさはある。

 だが、注目すべきはそこではない。肝心なことは、その空き家から先程のサッカー部室から感じたものよりも遥かに禍々しい霊気が漂っている事実だ。


「そう、ここ。じゃ、早速入ろうか」

「いや、待て。この霊気は洒落にならない」


 中にどんな悪霊がいるかはわからない。だが、とてつもなく大きな憎しみを抱いていることは、家の外にまで漏れ出ている禍々しい霊気から予想できる。

 これは、関わるべきでない。命を落としかねないほど危険だ。――と、本能が告げている。


「でも、中から助けを求める女の子の霊の声が聞こえるんだよね。悪霊と一緒に善霊もいるみたい。それも女の子の……」

「助けたい気持ちはわかるが、僕たちが死んだら意味ないだろ」

「大丈夫。死なない。悪霊が見える汰月と善霊が見える私が揃えばなんとかなる」

「いいや、違う。善霊が見えない僕と悪霊が見えない陽花里が揃ったところでどうにもならない。悪霊の恐ろしさは陽花里だって、身を持って知っているだろ!?」


 見えない二人が揃ったところで何ができる?

 生半可な覚悟と中途半端な知識で何ができる?

 ――何もできない、それが現実だ。助けるだなんて大義名分を掲げておいて、結局自分たちが傷つくだけ。誰も救えず、傷つく人を増やすだけ。それが落ちだ。


「でも、でもね……」


 陽花里が震える声で言う。


「善霊の女の子、助けを求めてるんだよ」

「さっきも言っただろ。女の子を助けたい気持ちはわかるけど――」

「違う! そうじゃなくて、死後もなお苦しみ続けている悪霊を助けてほしいって、父親を助けてほしいって。そう叫んでいるの!」

「――っ!」


 陽花里は泣いていた。大粒の涙が頬に軌跡を残していく。


「はぁ……」


 僕は溜息を吐き、陽花里に告げる。


「やれるだけやってみてもいい。ただし、危ないと感じたらすぐ逃げるぞ」


 僕の言葉を聞いた陽花里は、笑みを咲かせる。それは、陽だまりのような笑顔だった。


「うん、ありがとう!」


 命を賭ける決意をした報酬が、幼馴染の笑顔一つ。

 はあ……、割に合わないな。



◇◇◇



「「……お邪魔します」」


 僕と陽花里は軽く一礼してから、廃れた家に入る。


「靴脱いだほうがいいかな?」

「すぐに逃げられるように、靴は履いておこう。空き家なんだから、誰にも怒られないだろ」


 土足のまま足を踏み入れると、床が盛大に軋む。


「――っ! びっくりしたぁ〜」

「まずい、悪霊に気付かれた。二階から霊気を感じる。すぐに降りては来れないだろうけど……、急いだほうがいい。陽花里、善霊がいる場所はわかるんだよな?」

「う、うん」

「じゃあ、走るぞ」


 陽花里ナビに従って、小走りで善霊のもとへ向かう。

 それにしても大きい家だ。迷わずに帰れるか不安になる。


「いた! 七歳くらいの女の子の霊」


 陽花里はそう言うが、僕には何も見えない。


「取り敢えず、その子を外に連れ出すぞ」

「待って。話を聞いてあげなきゃ」

「話を聞くのも、事情を説明するのも後回しだ。一刻も早くここから出たほうがいい」


 数秒後、渋々ながらも納得した陽花里は善霊に何やら語りかけてから、その善霊の手を握る。

 ――いや。手を握っているのか、本当のところはわからない。僕には善霊を見る力がないからだ。

 だが、陽花里の手の位置や形から推測することはできる。きっと、彼女は善霊と手を握っている。


「よし、善霊を連れて外に向かうぞ」

「――アオちゃん」

「は?」

「この子の名前」

「呼び方なんて、どうだって――っ!」


 突如、背中に悪寒が走る。

 背後から感じるのは悍しい霊気。


「まずいっ!!」


 殺気を肌で感じた僕は、咄嗟に横に跳ぶ。アオという名の善霊と手を繋いだままの陽花里を押し飛ばしながら。

 突風と埃が僕を背後から襲ったのは、その直後だった。


「――ぐっ」


 何が起きているのかわからない。ただ、自分たちが今、危険な状況に身を置いていることだけは確かだ。

 しばらくして、突風が止む。

 恐る恐る振り返ると、先程まで僕が立っていた床が蹂躙されていた。もしも咄嗟に横に跳ばなければ、僕は跡形もなく消し飛んでいただろう。

 ――恐ろしい。だが、何より恐ろしいのは、僕の眼前に立つ怪物。そう、悪霊だ。

 身長約三メートル。肌は紫色。体中から醜く分厚い脂肪が垂れ下がっている。顔がどこにあるかすら容易には判別できず、おまけに目の大きさは左右で異なっている。

 間違いない。コイツがこの家に住む悪霊。この悪霊が、床を抉った元凶。


「……ひ、ひかり、……大丈夫……か?」

「う、うん。アオちゃんも大丈夫みたい。……そこに悪霊がいるの?」

「ああ、逃げるぞ」

「あっ……うぅ」


 陽花里の手を引き、僕は走り出す。

 僕の手汗が不快だったのか、それとも手を繋ぐこと自体が不愉快だったのか。陽花里が頬を少し赤くして、喉から小さな声を漏らしたが、今は気にしていられない。 


「ヤツは……」


 一瞬、振り返って悪霊の様子を確かめる。

 こちらを見てはいるものの、まだ追ってきてはいない。叶うことなら、このまま逃げ切りたいが――そう上手く行くとは思えない。

 先程もそうだった。悪霊は直前まで二階にいたはずなのに、善霊と接触した直後、急に背後に現れた。人間の尺度で霊を測ってはいけないということか。


「くそっ!」


 ヤツに追いつかれる前に外に出ることは可能か?

 ――これだけ広い家だ。おそらく不可能。

 なら、どうする?

 どこかに隠れるか?

 ――どこに?

 家の間取りもわからないのにどうやって。


「汰月!」

「――っ! どうした?」

「身を潜めるのに丁度いい場所があるって、アオちゃんが!」

「……」


 霊の言っていることを信じていいのか。ほんの一瞬だけ頭をよぎったが、今は気にしていられない。

 頼れるものには頼るしかないから――。だから――。


「頼む、教えてくれ」



◇◇◇



 扉を締め切った小さな和室の中。


「本当にここには来ないのか?」

「うん、そう言ってる。お父さんはこの部屋だけは傷つけたくないらしい。お母さんの遺影もあるから……」


 埃を被った遺影と小さな仏壇を見ながら、陽花里は言う。

 なるほど、確かにあの巨体でこの部屋に入れば、仏壇と遺影どころかこの部屋全体が壊れてしまうだろう。


「俺には見えないけど、そこの善霊は父親を成仏させてほしいんだよな?」

「――うん」

「なら、父親が悪霊になった理由を教えてもらってもいいか?」

「お願いしてもいい? アオちゃん」


 陽花里が腰を落とし、善霊と目線の高さを合わせる。

 しばらくして、陽花里が落ち着いた声で話し始める。いや、善霊が話し始めたと言うべきか。陽花里は善霊の言葉を俺に教えてくれているにすぎない。


「今年の春、お母さんが心臓の病気で急に死んじゃって、私もお父さんもいっぱい泣いた。でもしばらくすると、お父さんは私のために笑うようになった。本当は悲しいはずなのに、悲しい顔をしないようになった。だから私も、これからは笑っていこうって決めた。――それから何日か経った夜に、泥棒が来た」


 そこで一度、陽花里が唾を飲み込むのがわかった。同時に彼女の声が震え始める。


「夜、トイレに行きたくなって目が覚めたの。一人じゃ怖くて、いつもはお母さんに一緒に来てもらってたけど、もうお母さんはいないから、私一人で頑張って行ったの。それで、運悪く泥棒に出くわした。私はすぐに叫んでお父さんを呼んだけど、遅かった。胸をナイフで刺された。急いで駆けつけてきたお父さんは勇敢に立ち向かったけど、ナイフを持った相手には勝てなくて……、何度も刺された。私もお父さんもそのまま死んだ……」


 とうとう堤防が決壊し、陽花里の瞳から涙が溢れ出す。

 泣きながらも陽花里は話を続ける。


「私を守らないといけない。この家を守らないといけない。そのためにも侵入者は排除しなければいけない。その気持ちのせいで成仏できずに、そのお父さんは悪霊になったんだと思う……」


 善霊の言葉を伝え終わった陽花里の肩が大きく震える。


「……頑張ったね、……頑張ったね」


 陽花里が善霊を――、少女を抱きしめる。強く優しく抱きしめる。

 その時、陽花里が着ている白いシャツにシミが広がっていくのがわかった。どうやら、少女も泣いているようだ。


「行ってくる」

「汰月……?」

「あいつを成仏させに」

「人助けはしない主義なんじゃなかったの?」

「そうだよ」

「……霊は人じゃないから例外ってこと?」

「そんな屁理屈は言わねぇよ」


 人だろうが霊だろうが関係ない。誰かを助けようだなんて思わない。

 正義感ばかり強くて、どうしようもないほど優しくて、救いようのないほど幼かったかつての僕は、悪霊から人々を守ろうと奔走していた。

 その結果、今なお癒えることのない傷を負った。――負わせてしまった。

 誰も救えないばかりか自分まで呪われ、小学生の頃は学校を休みがちだった。

 そんな僕を心配して、支えようとしてくれた女の子まで巻き込んで、彼女に怪我をさせてしまった。

 だからもう、人助けなんてしない。人を助けられる力もないのに、自分と大切な人すらもろくに守れないのに、人助けなんてできるわけがない。

 そう、これは人助けじゃない。今から僕が行うことは、陽花里のためでも少女の善霊のためでもない。これは――、


「僕自身のためだ。僕自身を救うために行くんだ。早く家に帰りたいから、そのために避けて通れない悪霊を成仏させる。そして」


 僕はたっぷり空気を吸ってから、言う。


「僕がムカついたから――、今の話を聞いて胸糞悪くなったから、僕自身がスッキリするためにも成仏させるんだ」


 僕の行動の理由はそれだけ。

 一拍置いて、陽花里が笑い始める。


「やっぱり汰月は優しいね」

「いや、だから……自分のためだって……」

「私も行くよ」

「会話になってない。というか、危ないから陽花里は残ってて」


 陽花里は僕の忠告を受け入れることなく、ただ優しい笑みを湛え後、静かに目を伏せる。

 そして――、徐ろにシャツのボタンを上から順番に外し始めた。

「ちょっ! 何して!?」

 露わになる胸の谷間と、淡い水色の下着。そして、胸の中心に刻まれた傷痕。


「陽花里……」

「汰月は優しいね。あの時のこと、まだ気にしてるんだ」


 ――あの時のこと、か。

 僕たちがまだ小学生だったある日、僕は『人助け』という大義名分を掲げて、陽花里はそんな僕を手助けするために、悪霊と対峙した。

 その結果、僕は呪われて、彼女は胸に大きな傷を負った。

 SHR後、廊下ですれ違った女子生徒二人が話していた噂話は、実話だったのだ。僕たちの過去だったのだ。


「私はもう気にしてないから、汰月ももう気にしなくていいんだよ……」

「でも、傷痕は消えない。陽花里が大怪我を負ったのは浅はかな僕のせいだ。それに今、こうして見ると……、自分が犯した過ちの大きさをより強く思い知らされる」


 白く透き通るような肌に残る、大きな傷痕。


「嫁入り前の女の子にそんな傷を残しておいて、気にせずにいられるわけ無いだろ」


 陽花里は一瞬目を見開いた後、再び笑い出す。


「ほんとに、もうっ……優しすぎるよ。私が気にしてないから、汰月も気にする必要ないのに。それに、この傷のせいで嫁げなかったら、汰月がもらってくれるんでしょ?」

「え、……は? 何言って……? いや、別に嫌なわけではなくて、寧ろ嬉しいくらいなんだけど……って、何言ってんだ? 僕!」

「ぷっ、ぷははっ、あはははっ! 冗談だよ、ジョ・ウ・ダ・ン。顔赤いよ。冷感スプレーいる?」

「いらねぇよ!」


 僕を散々からかった陽花里は、少女の善霊に向かって『あのお兄さんはウブですねぇ〜』と語りかける。

 やめろ。てか、やめてあげろ。子どもを巻き込んでも、子どもを困らせるだけだぞ。


「――まあ、そういうわけで。私のことは心配しなくていいよ。それに私たち、あの頃のままじゃないから。成長してるから」


 そう言って、胸を張る陽花里。

 自由奔放な彼女を見ていると、自分の悩みがくだらなく思えてくるから不思議だ。


「確かにそうだな」

「でしょ?」

「ああ。それと、なんというか……、あの頃と比べて色々と成長したのはわかったから、そろそろボタンを留めようか」


 あの頃とは比べ物にならないほど大きくなった陽花里の胸から目を逸らしながら、僕は言う。


「あっ! 〜〜〜〜ッ!」


 ボタンを外したときは僕の心を救うことだけで頭がいっぱいだったのだろう。今更になって己の行動の大胆さを理解した彼女は、頬と耳を朱に染め、慌てて胸を隠すのだった。



◇◇◇



 ひと悶着経て、僕らは作戦会議を始めていた。


「今、ヤツはこの部屋を出て廊下を右に進んだ先にある曲がり角で待ち伏せしている」


 僕は霊気を頼りに特定した、悪霊の居場所を告げる。


「場所はわかったから、残る問題は成仏させる方法だね」

「ああ」

「話し合いができればいいんだけど」

「あっちが冷静でいてくれるなら、それがベストだが、望みは薄いだろうな。となると、なんとか一発ぶん殴って、大人しくさせるか……」

「それ、逆効果じゃない!?」

「じゃあ、他に方法は?」

「う〜ん、思いつかない」


 確かに、逆効果となる可能性はある。

 だが、他に方法があるとも思えない。僕と陽花里では、これ以上の良策を思いつけそうにない。

 だから、僕と陽花里以外の力を借りる。


「えぇっと、アオちゃんは、何かいい方法思いついた?」


 数秒経て、陽花里が口を開く。


「うん、切り札がある。ああ……、一度切り札って言ってみたかったんだよね。だって、かっこいいから。――って言ってる」

「……そ、そうなんだ。言えてよかったね」


 それから数分かけて、僕たちはアオちゃんの言う切り札を軸に話し合いを続けた。


 そして、今。

 話し合いを終えた僕たちは、和室を出て廊下を歩いていた。


「そこの角を曲がったところにいる。気を付けろ」

「うん……」

 息を押し殺して歩く。バレないように慎重に。

 だが――。


「ッ! 下がれ!」


 迫りくる霊気と殺気を肌で感じ、僕は後ろへ跳ぶ。

 その直後。眼前で空を切り裂いたのは悪霊の不格好な手のひら。


「二人とも大丈夫か?」

「うん。私もアオちゃんも無事」


 二人の無事を確認できて思わず安堵の溜息を漏らすが、いつまでもほっとしてられない。

 廊下の曲がり角から姿を現す悪霊。何度見ても慣れない異形っぷり。かつて人間だったとは思えない。

 だから、早く楽にしてやらなければいけない。


「これだけ荒ぶってたら、切り札も意味ないね」

「ああ。だから、まずはヤツの頭を冷やすぞ。作戦壱だ!」


 陽花里と視線を交えて、頷き合う。


「耳の穴かっぽじって、よく聞け!」


 僕はすぅっと空気を肺に送ってから、悪霊に向かって叫ぶ。


「ウエットティッシュで『うぇ〜』っと亭主がえずく!」


 続けて、陽花里が叫ぶ。


「トルティーヤ、取るって言いやぁ〜!」


 ――数秒の沈黙が訪れる。

 その沈黙を破ったのは悪霊の拳だった。

 僕はギリギリのところでそれを回避する。


「『取るって言いやぁ〜』ってどういうことだよ?」

「バイキングでトルティーヤが誰にも食べられなくて、はらわた煮えくり返ったシェフが、客に対して思わずそう言ってしまった――っていうシチュエーション」

「わかりにくいっ!」

「そっちこそ。『うぇ〜』って何よ? 『うぇ〜』って!」

「アルコールタイプのウェットティッシュのニオイを嗅いた亭主が、その刺激に思わず『うぇ〜』ってえずく様をダジャレにしたんだよ」

「汰月のほうがわかりにくいじゃん!」

「いや、陽花里のほうがわか――ッ!」


 絶賛口論中のこちらの事情などお構いなしとでも言うように、悪霊が容赦なく拳を振り抜く。が、僕は再びギリギリのところで回避する。

 危ないところだった。陽花里ではなく、悪霊の霊気を感知できる僕を狙ってくれて助かった。


「作戦壱は失敗か」

「うん。寒いダジャレを言えば、頭を冷やしてもらえると思ったのになぁ……」

「仕方ないだろ。今は気持ちを切り替えろ。僕は作戦弍に移る」

「頑張れ!」


 投げかけられる励ましの言葉。勇気が湧いてくる。

 作戦弍は僕一人で実行する。作戦内容的に、一人のほうが好都合だから。そして、女子向けの作戦ではないからだ。


「さっ――!」


 僕は悪霊に向かって走り出す。

 そんな僕を迎え撃つように、悪霊が拳を振るう。速い――。だが、それだけだ。大振りで、動きを読みやすい。

 僕は体を後ろに大きく反らすことで、正面から迫ってきた巨大な拳を回避。そして、すかさず懐に潜り込む。


「くらえっ!」


 僕は悪霊の股間を躊躇なく蹴り上げる。

 悪霊といえど、人間の男と弱点は変わらないはず。金的にダメージを受けたら、暴れられなくなるはず。

 ――そう、思ったのだが。


「え……?」

 僕の足は、脂肪の塊に止められていた。腹から垂れ下がった脂肪が、股間を覆っていたのだ。


「そんなのありかよ!?」


 左右から迫る悪霊の手のひら。

 押しつぶす気だ。蚊を叩き潰すときと同じ要領で。

 ――ああ、まずい。

 迫る手のひら。死が香る。

 もう終わりだと思った、その時。僕の襟が背後から引っ張られる。


「ぼーっとしない!」


 陽花里に引っ張られ、大きく後ろによろけたことで、奇跡的に悪霊の攻撃を躱すことに成功する。


「陽花里……、悪霊見えてないんだよな?」

「当たり前でしょ」

「だよな、ナイスタイミング」

「で、作戦弍はどうだったの?」

「失敗だ」

「やっぱり」

「最初から期待していなかったかのような、言い草だな」

「そうだけど?」

「――っ! 陽花里はあの痛さを知らないからそう言えるんだ。あの痛みときたらそれはもう……、血の気が引いて寒くなるほど……」

「はいはい、わかりました」


 呆れ顔をする陽花里。

 本来なら緊迫感のある状況のはずだが、どうしてだろうか。彼女といると、不安も緊張も遥か彼方へ吹き飛んでしまう。


「ちょっと屈んで」

「えっ……、うおぉおっ!」


 陽花里は僕の肩に手を置いて背中をよじ登り、果てには僕の肩に足裏を乗せてくる。


「重いっ……!」

「サイテー」


 軽蔑の言葉を放った後、陽花里は足を震わせながら僕の肩の上に立つ。


「何するつもりだ?」

「こっち見ちゃだめ!」


 僕が上に顔を向けようとすると、陽花里が頭を上から押さえつけてきた。


「今、制服! スカート!」

「あっ、ああ……悪い。で、何を?」

「作戦参」

「陽花里がやるのか?」

「うん。アオちゃんのお父さんのいる場所と大まかな形はわかった」

「でも、危な――」


 陽花里を止めたかった。止めようとした。けれど、止めなかった。

 声でわかる。陽花里は絶対に引かない。


「よし、行ってこい」

「うん!」


 陽花里が僕の肩を蹴り、悪霊に向かって跳躍する。スカートがひらりと揺れる。

 露わになった健康的で女の子らしい太ももに目を奪われていると、目の前が急に暗くなった。


「――ぁ」


 悪霊の握り拳だった。

 紫色の拳が僕の腹に直撃。衝撃が全身を貫く。

「がはッ!」


 為す術なく後方に吹き飛ばされる。


「陽花里は……?」


 揺れる視界で前を見る。

 陽花里は悪霊の肩に乗っていた。左手で悪霊の髪の毛を掴み、右手で冷感スプレーを持っている。


「頭を冷やしてください、お父さん」


 悪霊の頭に冷感スプレーを噴射する陽花里。

 そう。作戦参とは、悪霊の頭を物理的に冷やすというものだった。


「おいおい、効いてるのか?」


 悪霊の動きが次第に鈍くなり、やがて停止する。


「やったぁ! 汰月、成功だよ!」


 陽花里が両手を掲げて喜ぶ。


「馬鹿! 手を離すな!」

「――あっ」


 悪霊の髪から手を離した陽花里が、バランスを崩して落下する。


「くっそ!」


 軋む体に鞭を打ち、僕は走り出す。

 そして、全身で陽花里を受け止める。


「あ、ありがと……」

「下がってろ。あとは僕がやる」


 切り札を使うなら今だ。悪霊が落ち着いている今しかない。

 僕は悪霊に飛びつき、その肩に乗る。

 そして、ポケットから切り札を取り出す。僕の太ももで温められた切り札を。それを上回るほどに熱い、家族の愛が詰まった切り札を。


「頼むから、これで思い出してくれよ……」


 僕が悪霊の目の前に掲げた切り札。それは、僕らが先程まで身を潜めていた和室に置いてあった家族写真だった。


「うおおっ!」


 突如として、悪霊が奇声を上げて暴れだす。


「目を逸らすな! アンタにとっての大切なものなんだろ!」


 悪霊が僕を振り落とそうとしている。


「汰月!」


 下では陽花里が僕の名前を呼んでいる。呼んでくれている。

 だから、まだ落ちない。

 悪霊の髪を掴むことでその場に留まり、腹の底から声を出す。


「大切な空間を壊したのは、あんたの妻を蝕んだ病気だ! 娘とあんたを刺した泥棒だ! だけど、大切な空間を壊れたままにしているのは――、大切な人を傷つけ続けているのは、あんただろ!」


 悪霊の動きが鈍る。

 まだ、僕は止まらない。叫び続ける。


「娘を泣かせるなよ! あんたの妻がこの現状を知ったらどう思うか、考えてみろ! 大切な人の想いを裏切るなよ!!」


 叫びが届いたのか、悪霊が完全に静止する。

 気が緩み『ふぅ』と息を吐いた、その時だった。僕が掴んでいた悪霊の髪の毛が抜けたのは。


「――なッ!」


 姿勢が崩れる。浮遊感に包まれながら、体が落下していく。写真が指先から離れる。

 まずい。このままでは受け身が取れない。


「よいしょーー!!」


 耳元で響く陽花里の声。直後、柔らかな身体に抱きとめられる感触。

 ああ、そうか。陽花里が受け止めてくれたのか。


「ありがとう、陽花里。助かった」

「おっもーーい」

「ごめん、降りる。写真はどこに」

「大丈夫だよ。ほら……」


 陽花里が視線を向けた先には、写真が浮いていた。いや、浮いているように見えるだけだ。

 実際には少女の善霊が写真を持っているのだろう。写真を父親に見せながら、何かを喋っているのだろう。

 しかし、僕には聞こえない。見えない。


「なあ、陽花里。善霊は何を話して……」


 陽花里の顔を見ると、彼女は小さく泣いていた。

 少女の善霊の、どのような心の叫びを聞いて陽花里が泣いているのか、それはわからない。けれど、陽花里を通してまでその叫びを聞こうとするのは、野暮だと思った。

 ここから先は親子の会話。僕たちが介入すべき場面ではない。


「あっ……」


 悪霊の体中に亀裂が走り、その亀裂の内側から青白い光が漏れ出す。

 その直後。悪霊の紫色の皮膚と、その内側にある脂肪が砕け、塵になって消えていく。

 そして、残ったのは一人の男。人間らしい見た目をした一人の男だった。


「あれが悪霊になる前の、本当の姿……」


 抱き合いながら、淡い光に包まれる二人。成仏するのだろうか。


「えっ、二人?」


 目を擦って、もう一度確かめる。だが、やはり変わらない。

 二人が見えている。父と娘、二人が見えている。善霊が見えないはずなのに、見えている。


「あれ? 私、アオちゃんのお父さんが見える」

「陽花里も、か……」


 今にも消えてしまいそうな父と娘が手を繋ぎ、こちらを向く。そして――。


「「ありがとう」」

 成仏する直前に、口を揃えて笑顔でそう言ったのだった。



◇◇◇



「制服汚れちゃったねぇ~」

「親に怒られるかもな」

「そうなったら、汰月に乱暴されたって嘘つく」

「おい、やめろ」


 二人で他愛無い話をしながら、閑散とした道を歩く。

 もう日が沈み、辺りは薄暗い。


「アオちゃんたちが成仏できて良かったね」

「そうだな」

「私の我が儘に付き合ってくれて、二人を助けてくれてありがとう」

「――……」


 薄暗くてもわかる。陽花里は笑っている。月を照らす太陽のように明るい笑顔を咲かせている。

 霊になった親子を命がけで救った報酬が、その親子と幼馴染の笑顔と感謝の言葉。まあ、悪くないな。


「そういえば私、悪霊も見えるようになったのかな?」

「それはないと思うぞ。向こうの方から小さな悪霊の霊気を感じるか?」

「ううん」

「僕は感じる。相変わらず、陽花里は悪霊が見えないまま。僕は善霊が見えないままってことだ」

「じゃあ、さっきはどうして?」

「その……あれだ。あれは、その……特別だ」


 論理性の欠片もない返答が予想外だったのか、陽花里は目を見開いた後に軽く笑う。


「そっか……、特別かぁ……。この風に乗って、明日はサッカー部の悪霊を成仏させちゃう?」

「まあ、それも悪くはないな。ずっと悪霊の霊気を感じてたら、授業中も気が散るからな」

「授業に集中できないのは、暑くてバテてるからでしょ?」

「うるさい。とにかく僕は自分のために悪霊を成仏させるだけだ。人助けでも、ましてや霊を救うためでもない」

「まだそんな意地張ってんだ。本当は優しいだけのくせに、素直じゃないなぁ~。嘘つき汰月」

「ニヤつくな」


 ああ、そうだよ。僕は嘘つきだ。

 だって、言えるわけないだろ?

 本当は君の笑顔が見たいからだなんて。


「明日はサッカー部の部室に行く前に、体操服に着替えたほうがいいかな……」


 そんな僕の気持ちなど露知らず、陽花里は服が汚れる心配をする。


「今日ほど汚れることはないと思うぞ。霊気もそんなに強くないし」

「ホントに〜?」

「ああ。裸でも問題ないくらいだ」

「こら変態。それだと別の問題があるでしょ」

「僕に胸を見せつけてきた人に、変態呼ばわりされたくない」

「こらっ! 思い出すな!」

「たぶん一生忘れないね!」


 見える僕と見えない君。見えない僕と見える君。僕ら二人の青春は、まだまだ続きそうだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

見える僕と見えない君。見えない僕と見える君。 桜楽 遊 @17y8tg

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ