第25話 クライマックス

「嘘、なのに……。かえして……早くかえして……」

「帰ると言っても……綾恵さん、今の君は……」

 確かにもうこのコテージに泊まれるのもこの夜が最後。でも君をどうやって連れていけばいいんだ。どこに連れていけばいいんだ。君の心は現実を見ることができないのに。君の彼氏は、焦点の合わない目でベッドに寝そべるだけの君を、ただただ眺めていることしかできないのに。

「…………嘘なのに、何で…………かえして……」

 不幸中の幸いと言っていいのか、陰部からの出血以外、体に怪我はなかった。だが、あれから一週間、綾恵さんはまだ現実を受け入れてはいないでいる。警察にもご家族にも先輩にも連絡することを拒む。何故なら綾恵さんにとって、レイプされたという事実は嘘なのだから。

 僕もむやみに人に知らせて心にさらなる傷を負わせてしまうのが怖くて、誰にも助けを求められないでいる。それが正しいのかはわからない。いや、少なくとも正しくはないだろう。でも、自分が何をすべきなのか、全くもってわからないのだ。というより、何かをする資格すらないのかもしれない。

 綾恵さんの心を殺したのは、僕なのだから。

 疑似NTRなんてやめさせるべきだった。いや、初めからそんなことやらせるべきじゃなかった。そもそも僕のクソみたいな性癖なんて伝えてはいけなかった。違う、もっとだ。付き合うべきじゃなかった。僕なんかが綾恵さんと出会ってはいけなかった。

 こんなクズ野郎さえいなければ、綾恵さんの笑顔が消えてしまうことはなかったんだ。

 この一週間、毎晩、綾恵さんがレイプされている夢を見て、夢の中でも現実でも嘔吐してしまう。まともに食事なんてとれていないから、出てくるのは胃液ばかりだ。

 レイプ犯の顔はよくわからない。靄がかかっているようでよく見えない。声もくぐもっていて誰のものか認識できない。だけどたぶん、あの男は僕なのだ。かつて、綾恵さんがレイプされることを望んでいた僕が、綾恵さんをレイプしている。

 あんなことを本気で熱望していた自分をぶっ殺したくて仕方ない。

 結局実際に綾恵さんが犯されて、僕が興奮するようなことはなかった。ただただ苦しいだけだった。そしてそんなことに何か特別な感情を抱くことも、一つの感想を持つこともなかった。

 当たり前だ。

『寝取られ』なんて、ねーんだよ。蜂巣綾恵という一人の人間が傷つけられたんだよ。心を壊されたんだよ。その紛れもない事実に、テメェが興奮するとかどう感じるとかそんなクソみたいな現象はどうだっていいことだ。

「……じゃあ、これだけでも食べてね、綾恵さん」

「…………かえして……」

 ナイトテーブルにゼリー飲料とバナナ、スポーツドリンクを置く。いろいろと試行錯誤した結果、最低限の健康と衛生状態だけは保ってもらえるようになった。

 でも、未だ僕は綾恵さんに触れられずにいる。拒絶されている。

 本当にこの先、どうすればいいのだろう。明日にはここを出なければならない。夏休みももう終わる。

 遅すぎるぐらいだが、やっぱり綾恵さんを騙してでも心の治療を受けさせに行くべきだろう。でも、具体的にどうやって……僕は綾恵さんに触ることすら叶わないのに……。

 何の当てもないまま、僕は問題から逃げるようにコテージの掃除を始めた。忘れていたけど無料で使わせてもらってるわけだし、何度も吐いてしまったのに最低限の処理しかしてこなかったし、せめて最後に整えて返さなくては……。

 楽しみにしていたのにまともに入室することすらなかった和室などは無視して、とりあえずお風呂から取り掛かり、トイレや洗面所など水回りを無心で清掃していく。久々に体を動かしたのがよかったのか、ほんの少しだが気も紛れてくる。玄関ホール、キッチン、ダイニングへと黙々と手を広げ、あれ以来あまり使うこともなくなってしまったリビングに掃除機をかけていると、

「ん?」

 掃除機で何かを弾いたのか、ゴトッという鈍い音がした。

「…………っ」

 床を見渡し、目に入ってきたのは――ゴツゴツとした黒い塊――スタンガンだった。

 綾恵さんはたぶんここで襲われ、抵抗しようとし、そして――

「はは……」

 フッと力が抜けて、崩れ落ちてしまう。運が良かったのか悪かったのか、たまたまソファに倒れこむ形になっていた。

 ――僕は、何をやっているのだろう。何をやってきたのだろう。

 涙が込み上げてくる。でも泣く資格すら有してない。綾恵さんの心と体を滅茶苦茶にしておいて、現実逃避しているような男だ。

 もういっそ首を吊ってしまおうか。いや、ここじゃダメだな、先輩に迷惑をかけてしまう。何かないかな、外でサクッと死ぬ方法。このクズをサクッと殺せる凶器。

 スタンガンじゃ殺せない。包丁や鈍器で最後までやれるかな。やっぱり首を括るものの方が――

「――――」

 無意識で探っていた手が、軽い感触に触れる。何とはなしに手に取り、顔の前に掲げて、

「ぁ――」

 ピンクゴールドの光が、ぼやけていた視界に像を結んでいく。四つの宝石、幸福の象徴――四葉のクローバー。僕が綾恵さんにあげたネックレスだ。

 そういえば、あれからずっと綾恵さんはネックレスをしていなかった。気付いていなかったわけではないが、気にしている余裕はなかった。あの男たちに捨てられたり奪われたりした可能性も考えた。ケダモノのようなあいつらなら綾恵さんが嘆き悲しむようなことを敢えてやったとしても全くおかしくはない。綾恵さんはこのネックレスを本当に大切にしてくれていたんだ。奪われたりすれば、「返して」と泣き叫んで――え?

「綾恵さん……っ」

 考えるよりも先に、体が動いていた。寝室に飛び入り、ベッドの上の綾恵さんへと駆け寄る。

「綾恵さん、これ……っ」

「――ぁ、あ、あ……かえしてっ! 私の……!」

 綾恵さんが必死に手を伸ばしてくる。やっぱり、ずっとこれを求めていたんだ。

「ごめんね、気付けなくて……今、返すから……」

 慎重に、体に触れないように近づいて、その首に僕の初めてのプレゼントを再度掛けさせてもらう。

「あ、あ、あ…………ああああああああ……」

 綾恵さんは首から下がるクローバーを手に取ると、それを抱きしめるかのように泣き崩れてしまう。

 そんな風に感情を吐露してくれたことが――たとえ泣き顔であっても――僕は嬉しかった。長い間、ずっと空っぽの人形のようになってしまっていたから。暗くてもやっと、僕が大好きなその目に、色を取り戻してくれたから。

 今なら、僕の言葉も届くのかもしれない。

「綾恵さん、辛かったよね……我慢しなくていいからね……」

「うっ、うっ……奏君……!」

「――――っ」

 綾恵さんがしゃくり上げながら、僕の手を握ってくる。思わず息が止まりそうになる。

 綾恵さんが僕の名前を呼んだ。僕に、触れた。

「綾恵さん……触っても平気なの……?」

「うぅ……! ごめんなさいっ、奏君……! 私、本当は全部わかってる……! あの男たちに……っ、あっ、あっ、あっ」

「大丈夫! 思い出さなくていいから!」

 震える綾恵さんを抱きしめる。一瞬、やってしまったと思ったが、綾恵さんは呼吸を荒らげながらも、

「うん、奏君……っ、そのまま抱きしめていて……っ」

「うん……! うん……!」

「誰かに触られるのが怖かったけどっ、奏君になら……だからこのままずっと……!」

「うんっ、うんっ、僕がついてるからね……!」

 強く抱き合ったまま、一緒にベッドで横になる。

「大丈夫だから……大丈夫だからね……」

「奏君……」

 背中を優しく撫で続けていると、綾恵さんの呼吸も次第に落ち着いてくる。もう下手に連れ出したりしない方がいいのかもしれない。ひとまず心を取り戻してくれた以上、あとは綾恵さんの気持ちが前に進む気になってくれるまで、僕はいつまでも抱きしめたまま、綾恵さんを待ち続けよう。



「…………奏君……」

 何時間抱き合っていたかわからない。その間ずっと無言だった。それでも久しぶりに気持ちが通い合えた気がする。僕たちはやっぱり愛し合っていて、だからたとえその資格がなくとも、僕は綾恵さんのためにやれることは全てやると心に決めた。

「どうしたの、綾恵さん。眠くなったら寝ていいからね? 明日以降のことは何とかするから、何も心配しないで大丈夫だから」

「……怖いの、眠るのが……いつも夢で、思い出してしまって……っ」

「綾恵さん……っ」

 再度、ギュッとその体を抱きしめる。一週間前、ここで綾恵さんの方から抱きしめてくれた時よりも、明らかに痩せてしまっている。

「奏君、ごめんねっ……絶対に奏君だけだってあんなに言い張っていたのに、奏君に初めてあげるって言ってたのに、私、他の人に……っ、ごめんね……嘘ついて、ごめんね……っ、私、初めてじゃなくなっちゃった……」

「謝らないで! 絶対に綾恵さんが謝っちゃダメだ! 綾恵さんは絶対に一ミリも悪いわけなんてない! それに、初めてがどうとかそんなこと……っ」

 言葉に詰まってしまう。無理やり体を奪われてしまった女性に対して、「そんなこと」なんて表現するべじゃなかった――という理由ではなく、今綾恵さんに嘘をつくことが正しいのかわからなかったからだ。彼女を傷つけないために自分を偽ることが、果たして誠実な態度なのだろうか?

 僕は、綾恵さんの処女を他人に奪われたことがショックだった。純粋に、ただただ単純に苦しかった。綾恵さんの初めての相手になりたかった。綾恵さんの初めてが欲しかった。

「嘘つかなくていいですよ……そう思ってくれていたことが、私も嬉しかったんですから……っ、私だって、奏君に初めてを……っ」

「綾恵さん……っ」

 すすり泣きながら見つめてくる儚げな視線に、胸をきつく締め付けられる。この子のために僕にできることが何か残っていないのだろうか。あの笑顔を取り戻すために少しでもやれることがあるのなら、命にかえたっていい。何でもやってみせる。

「奏君……私の初めてを、上書きしてくれませんか……? 奏君で全部忘れさせてください……っ、全部消して、私の全部を奏君で埋め尽くしてほしいんです……っ」

「……僕で、いいの……?」

「奏君じゃないとダメなんです! 私の、初めての人になってください!」

「…………っ! 綾恵さん、好きだ、大好きだよ綾恵さん……僕の初めての人になってください……!」


 この夜、僕と綾恵さんはとても自然に、普通の恋人同士のように、何の障害もなく、一つになった。ごく当たり前のように愛し合って、初めからそうであったかのように繋がって、そしてそのまま、僕たちは同時に果てた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る