第11話

 コリンナは別にグレーデン侯爵家の使用人たちを懐柔したわけではない。だが使用人たちからしてみれば、自分たちではもはやどうにもならない主人をどうにかしてくれるかもしれない、そんな救世主としてコリンナは着実に人気を得ていた。自分たちでもっと頑張って欲しかったとコリンナは素直に思う。

 今日もコリンナは意気込んで侯爵家にやってきたものの、肝心のリヒャルトは一向に姿を見せない。


「……侯爵様はお忙しいの?」


 ひくり、と頬を引き攣らせてコリンナはメイドに問いかけた。

 いつもの応接間には男性用の衣装がトルソーに着せられていて、いくつか並んでいる。それらを前にコリンナは家令のアヒムと話し合っていたところだ。

 なんとか衣装の候補は絞ったものの、着る本人がいないので決められずにいる。建国祭は一週間後なのに。

 メイドは目線を彷徨わせ、言うべきか否かを少し悩んだような顔をしたあとで、小さな声で答えた。

「そ、それが……ここ三日ほど離れから一歩も出ていないようでして……」

「何をやってるのよあの人は!!」

 思わずコリンナは頭を抱えながら叫んだ。

 少しはマシになってきたと思ったらすぐにこれだ! 油断ならない!

「集中してしまうと他のことがまったく見えなくなる方でして……」

 まったく猫を被っていないコリンナにすっかり慣れたらしいアヒムは困り果てた顔でそう告げてくる。それをあなたたちでどうにかしなさいよ! とコリンナは言いたいところだったが、どうにかできていたらコリンナはここに来ていないし、ここまで彼らに頼られていない。

「まさか食事もしてないんじゃないでしょうね!?」

「最低限の食事はとっているようです」

 頭が痛くなる話だ。

 しかもここにアヒムがいるということは、誰がリヒャルトを呼びに行っているんだろうか。ただのメイドでは太刀打ちできないことはコリンナにもわかる。

(――こうなったら)

「私が離れに行きます」

 きっぱりとコリンナが言い切る。メイドもアヒムも止める様子はまったくなく、むしろそうなるだろうとわかっていたような節すらあった。

(もう一度しっかりお説教したほうがいいみたいだものね)

 どれだけ一流の研究者であろうと、自分の健康には気をつかうべきだ。そのためには食事と睡眠はきちんととるべきだし、休息だって必要になる。それが自主的にできないのなら、きちんと使用人たちの声に耳を傾けなければダメだろう。


「グレーデン侯爵!」


 大きな音をたてながらコリンナは離れの扉を開けた。

 コリンナは離れの中を見たことがない。初日は中に入らなかったし、立ち塞がっていたリヒャルトの見た目のひどさに目を奪われて室内まで見る余裕はなかった。

 扉を開けてすぐは特に異常はない。それほど大きな建物でもなく、部屋数は限られているのですぐにリヒャルトは見つかるだろう。

 とりあえずと目についた扉を開けた。ノックはこの際わざと忘れることにする。死んだりしていなければコリンナの声は聞こえているはずだ。

「ちょっ……これは……」

 一言で言えば大当たりだった。

 その部屋は床が見えないほど紙が散乱していて、机の上はよくわからない器具と本で埋め尽くされている。奥のソファらしきものに横になっている人物が一人いるだけだ。

(ま、まさか死んでないわよね!?)

 コリンナは散らばっている紙を極力踏まないようにと気をつけながら奥まで進む。ただのゴミにしか見えないが、リヒャルトにとっては重要な何かが書かれているのかもしれない。

「ちょっと! 侯爵!」

 ソファは随分古めかしいが、埃を被っている様子はない。アヒムがこまめに掃除しているのだろうか。

 コリンナは大きな声で呼びかけながらリヒャルトの肩を揺らした。手足を丸めるようにソファで横になっているリヒャルトは、すーすーと寝息をたてていた。どうやら寝ているらしい。

「もう……驚かさないでよ……」

 はぁ、と安堵の息を吐き出しながらコリンナは肩の力を抜いた。死体の第一発見者にならなくてよかった。

(……って、こんなところ寝ていても身体に悪いわね)

 どう見てもこのソファではリヒャルトの体格に合っていないし、そもそもソファは寝るためのものではない。起こしてきちんとベッドで寝かせるべきだろう。

「ねぇ侯爵、起きてちょうだい」

ゆさゆさと遠慮なくリヒャルトの身体を揺らす。

(そういえば、今なら顔を見ることができるかしら)

 そんな悪戯心がふと湧いた。リヒャルトとは何度も会っているが、未だにコリンナは長い前髪の下の素顔を見たことがない。

 ぼさぼさの髭があるにしても、少しはどんな顔かわかるはずだ。どんな顔かわかるだけで、建国祭の衣装を決めるのにも役立つ。

 そう思ってリヒャルトの前髪に触れた。少し硬めのその髪をかきあげると、しっかりと閉じられていた目蓋がわずかに震える。

 意外と睫毛が長かった。その長い睫毛を震わせて、ゆっくりと青い瞳が顔を出す。

(……きっと、青い薔薇ってこんな色をしてるんだわ)


 綺麗な色だった。

 思わず吸い込まれてしまいそうになるほど。


「……なんだきみか」

 ぼんやりとしたリヒャルトの声に、コリンナははっとして現実に戻る。

「なんだじゃないわ、寝るなら――」

「いい子だから、もう少し寝かせてくれ」

 寝るならここじゃないところで、と言おうとしたコリンナの言葉は遮られ、なぜか伸びてきたリヒャルトの手がコリンナを引き寄せる。

 え、というコリンナの動揺した、小さな声が飲み込まれる。

 綺麗だと思った青い瞳は再び閉じられていて、それが先ほどよりもずっと近くに見えた。そう思った時には、唇にやわらかな何かが触れていた。

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