第5話
雨が降り始めた。
夜の楽園が一層暗く感じる。
外を歩いていると黒いローブに雫が染み込み、さらに濃い色に染まった。体はすっかり冷えているが、気にはならない。淡々と足を動かす。くるぶしに濡れた葉がかすめては、離れていった。
昼間の花園は美しいのに、夜はなんともいえない。鮮やかな色をした花びらも闇に溶けている。
惜しい気持ちを抱えながら、うずくまる。黒いローブの裾が土に触れて、微妙に汚れた。
どうしてこうなってしまったのだろう。
本当に欲しかいものなら手に入ったのに。
すぐそばまで迫っていたのに。
手放してしまった。
もう二度と手に入らないかもしれないのに。
心を覆うのは後悔ばかりだった。
自分が悪いのだ、なにもかも。
彼女が真に否定したかったのは漆黒の魔女の存在、そのものだ。
雨の音が激しくなる。
周りの音が聞こえない。
冷たい感情が胸に染み込む。
雨が自身を攫ってくれることを期待した。
いっそ眠りたくて目を閉じる。
瞬間、パタッと雨の音が消えた。
大粒の雫は彼女には届かない。
ちょうど上のほうで、弾かれたかのように。
ゆっくりとまぶたを開き、顔を上げる。暗い表情のまま後ろを向いた。
立っていたのは鎧を身に着けた青年だった。黄金の髪が昼間よりもまぶしく輝く。その容姿はリチャードのものなのに、彼は確かに別の青年の顔をしていた。
何度も相対した相手だ。別れてから時間が経ったわけでもないのに、懐かしい気持ちがした。
抱いた感傷がどことなく気まずくて、顔をそむける。
前を向いて、地面に膝をついたまま、うっすらと口を開く。
魔女はポツリと語り出した。
「どうしても振り返れないの。過去の記憶は鮮明に思い出せるのに」
今にも消えそうな声だった。
雨は嵐のような激しさなのに傘の中にいると、なにも聞こえない。互いの声だけはハッキリと耳に入る。
オーウェンは彼女に傘を差したまま、静かに聞いていた。
「私は魔女。誰にも求められない存在。この世界に不要とされたもの」
地面を睨みつけながら、激しく口を動かす。
眉間にシワが寄り、目は翳っていた。
「だが、俺は迎えに来た。あなたの本当に想いに応えるために」
力強い声が降ってくる。
なにか、息を呑む音。
悲痛に歪む顔の中で黒い瞳がかすかに揺れた。
彼女は口を閉ざしたまま面を上げ、そっと立ち上がる。
その頭上で傘が動いた。
「どうして、私を……?」
振り絞るような声で尋ねた。
「逆に聞きます。あなたはこれでいいんですか?」
彼女は唇を結んだままだった。
自分の中でそれらしい答えが見つからない。
目をそらしたまま代わりとなる言葉を探そうとして、やはり見つからなくて、諦めたように息を漏らす。
「契約なのよ」
小さな声で吐く。
「私を箱庭に封じ込める代わりに、痕跡を遺す。彼がいた証を作り出す。それがガイアと代わした取引」
ゆっくりと振り返る。
雨が入ったのか潤いのある瞳で、彼を見上げた。
硬い表情。今にも泣き出しそうな顔になった女に対して、青年は穏やかな表情で言葉を返す。
「だったらその必要はない。その契約は本来なら必要のなかったもの。いわば、口実なんですよ」
「口実?」
きょとんと尋ねる。
オーウェンは「はい」と頷き、詳細を語る。
「本当の目的はあなたを封じ込めることじゃない。あなたを救い出すことだったんですよ」
契約とは形だけのもの。
本来なら必要としなかった。
仮に箱庭から抜け出し契約を破ったとしても、一度遺った痕跡は消えやしない。
相手を安心させるような口調で、彼は伝える。
「俺は託されたんです」
オーウェンは一歩を踏み出す。
「本来、この楽園には誰もたどり着けない。死んで魂だけの存在になっても、目の前を通り過ぎるだけだ。ただ、そこには入り口があった。本来なら選ばれし人以外は誰も通り抜けられない場所に、俺は踏み入れた。導かれるように、いいや」
青年は口元を緩める。
優しげな目をして、彼は伝えた。
「通されたというべきか」
それが最も大切なものであるように、くっきりとした口調で。
聞いて、魔女はハッと目を見開いた。
それをなしたのは誰か。
心当たりがあったからだ。
一つ、脳裏を蘇った過去の記憶。
――「身を引くがいい。それ以上は破滅を招く。待ち受けるのは悲しい結末のみだ」
森で出会った妖精のような男は、彼女に告げた。
なぜ忠告をするのかという問いに、ガイアは答えた。
――「ただ一人、私を見つけた存在だからだ」
らしくない言葉だった。
機構でしかない彼の癖に。
そして、契約の際にもガイアはおかしなことを口にした。
「ねえ、どうして私と彼の物語だけを遺すの?」
「最後まで見届けた話だったからだ」
淡々とした口調。
だけど、中性的な顔をした男は微笑みを浮かべ。
「一つのものにここまで注目したのは、始めてだった」
無でしかない彼が感情をにじませたのは、これが初めてだった。
本来ならありえないことだったので、とても信じられなかったけれど。
このやり取りは本当にあった出来事であり――
これが真実だ。
ガイアは封じたのではない。匿ったのだ、この楽園に。
いつか運命の人が現れ、外の世界へ魔女を連れ出すことを望んで。
それこそが魔女と世界の隠し事だった。
「――――」
思いがこみ上げてくる。
熱い感情が胸元まで這い上る。
声にもならず、その場で震えた。
「さあ、行こう。新たな物語を俺たちの手でつむぐんだ」
青年が迫る。
「今度こそ君を連れ出す」
数多の想いを一身に浴びて、平気でいられる者がいようか。
もう限界だ。
自分の心を偽るのは。
どれほど強がったとしても、本当の気持ち――彼に救われたいという想いには抗えない。
「私を連れ去って。本当の、世界の端っこまで」
潤んだ瞳で彼を見上げる。
頬を透明な雫が伝った。
青年はそれを温かな顔つきで見澄ました。
差し伸べられた手を受け取る。
共に歩き出す。
雨はすっかり上がっていた。
魔女と世界の隠し事 白雪花房 @snowhite
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