兄が結婚した

永瀬鞠

 


「大丈夫?」


着慣れない振袖と履き慣れない草履に、お手洗いを出て披露宴会場に戻ろうと歩き出したところで小さくつまずいた。


自分にかけられたのだろう声の方向へと、草履に向けていた視線を上げると、思わぬ人の顔があって鼓動が鳴った。


彼もトイレを済ませて出てきたところなのだろう、男性用のお手洗いの扉を背にこちらを見ていた。


「ありがとうございます、大丈夫です」

「歩きにくいの?」

「そうですね」


わたしの足元を見つめる彼に苦笑いを返す。


彼は黒いスーツを身につけていて、最初にウェルカムスペースであいさつを交わした時には気づかなかったけれど、あらためて全身を眺めるときれいに着こなす人だなと思った。


彼の印象はすでにウェルカムスペースで顔を合わせた十数秒の間に、わたしの中に強く残っていた。


彼の醸し出す雰囲気がとても好きだと思った。こんなふうに初対面で直感的に恋に落ちるのなんていつぶりだろう。


そんな人との予想外の再対面が起こっているから、柄にもなく緊張する。


「緑色、似合ってますね」


彼が口を開いた。


「そうですか?」

「うん」

「そのスーツも、似合ってます」

「そう?」


彼が笑う。


「お兄さんのお色直しの色は知ってるの?」

「いえ」

「じゃあ、楽しみだね」


今、新郎新婦はお色直しのために一度下がって準備をしている。


新婦のあつみさんの衣装の色も、新郎の兄の衣装の色も、ふたりは本番まで内緒だと言っていた。


「あつみさんのドレス姿、きれいでしたね」


ウェルカムスペースであいさつを交わしたとき、彼は新婦の幼馴染なのだと名乗った。


式でのあつみさんのウェディングドレス姿を思い出す。シンプルなデザインの真っ白なウェディングドレスを着たあつみさんは、思わず見とれてしまうほどきれいだった。


「うん」


そう答えた彼の横顔を注意深く見て、やっぱり、と思う。その表情は、披露宴の最中にふと見えた彼の表情とよく似ていた。


わたしはあのとき、はっとした。まるで自分自身を見ているようだったから。


彼がこの場に向けている感情は、わたしと似ているような気がしたから。


彼はお手洗いがある側とは反対の壁にゆっくりと寄って、背中を壁に向けた。


つられるようにわたしも壁際に寄る。そうして、


「寂しい?」


先に訊いたのは、彼だった。


「兄の結婚がですか?」

「うん。式でそんなような顔をしてるのが見えたから」


見られていたとは思わなくて、それにまさか自分が彼に対して思っていることと同じことを彼から言われるとは思わなくて、驚く。


わたしを見るその目は、どこまで見通しているんだろう。


「寂しいです」


答えたあと、実は、とごまかすように付け加える。


「でも、うれしいのも本当」


心からうれしく思うし、よかったねと祝福する気持ちが胸いっぱいにある。それでも、どうしても、寂しい気持ちが残る。


結婚式の最中、入場してくる兄を見て、あつみさんの手をとった兄を見て、並んだ二人を見て、胸がつまった。気を抜くと涙が出てきそうだったから、泣かないように、泣かないようにと、目元に力を入れた。


こみあげてきたそれが、うれしさとさびしさのどちらなのか、わたしにはわからない。


「生まれてから今までずっと近くにいたのに、急に遠くなったみたいで」


ずっと近くにいた。物理的な距離はあっても、用事がなきゃ会わないような、話さないような、そんな距離にはいなかった。


それが今、兄の日常生活の中にわたしはいなくなって、その事実を実感するたびに、寂しさや悲しみが浮上する。


「わかるよ」


彼が言った。視線を上げて次の言葉を待っていると、


「泣く?」


彼はわたしの目をじっと見ながら尋ねた。


「……泣きません」

「はは」


入籍してから半年後の今日、兄は結婚式を挙げた。


白いタキシード姿は思いのほか似合っていて、ばっちり決まった髪型からはふだんは隠れている額が見えて、なんだか幼いころを思い出させた。


成人式以来2年ぶりに振袖を着たわたしを見て、兄は「かわいいかわいい」と言いながら笑った。その笑顔に久しぶりに会った気がした。


兄の結婚前、両親が見返していたアルバムの中にいた彼は、もうずいぶん昔の彼だ。いつのまにか、わたしたちはこんなにも大人になっていた。


「わかるよ。俺も兄貴の結婚式、寂しかったから」


彼が言い直すようにつぶやいた。


彼も寂しいと言ったことが、なんだか意外だった。


「どんなお兄さんなんですか」

「いつも、俺の一歩前を、歩いてるような人」

「自慢の兄?」

「いや……好きなだけ」


そう言って、ふっと笑う。


彼のまとう空気が心地よくて、もっと触れていたいと思う。


「今は?」

「ん?」


遠くを見つめるような、なにかに焦がれるような、彼の横顔を思い出す。


「幼馴染が結婚して、寂しい?」

「今はそんなに。でも、これから寂しく思うんだろうな」


彼は少しだけ考えたあと、そう答えた。


兄が婚約をしたとき、結婚は家族が増えることだと思った。兄が結婚をしたとき、結婚は家族が離れることでもあると思った。


そうやって、形を変えていく。家族の形は不規則に変わって、永遠みたいに思えた形は、短い寿命なのだ。


「なんだか自分が置いていかれるみたいに感じて、周りが変わっていくことが寂しくて、怖いです」


わたしは、いつからか自分の周囲が変わっていくことに不安と恐怖を覚えるようになった。自分が取り残された感覚におそわれて、ふと孤独になる。


それでも、乗り越えていかなくちゃいけないこともわかっている。


変わらないものはない。自分が変わっていくように人も変わっていって、生活も変化していく。ずっと一緒ではいられない。


そのことを目をそらさずに、ちゃんと受け入れなきゃいけない。


「それ、たぶんみんな思ってるよ。君の周りの人たちも、君が遠ざかっていくみたいに感じて寂しく思う日がきっとある」


彼の言葉に顔を上げた。そうなんだろうか、とその瞳を見つめたまま考える。


わたしの周りの人たちも、わたしに置いていかれるように思う日があるんだろうか。寂しがりながら、怖がりながら、進む日があるんだろうか。


視野がふっと広がるような気がした。


「周りに置いていかれない方法、俺知ってるよ」

「なんですか?」

「自分が歩いていることを実感するんだ。意識して足を踏み出しつづければいい」


わたしに言い聞かせるように、自分に言い聞かせるように彼が口にした言葉は、胸の中にすとんと落ちた。


「いいですね。そういう考え方」


彼がわたしを見てほほえむ。まぶしいな、と思った。


「気が合うね」

「……合わないでしょ? わたしにはそういう考え方なかったです」

「気は合わなくないでしょ。恐れるものが違うだけ」


まぶしい。わたしにはない考え方で、力強く前に進んでいく人。


「というわけで、手始めに」


言葉を区切って、彼はわたしを見る。


「また会わない? 俺と」


試すように発せられた言葉。まるで差し出される手のようでもあった。


なんで?と思いながらも、わたしは目をそらせない。彼の言葉を思い出す。


『自分が歩いていることを実感するんだ。意識して足を踏み出しつづければいい』


不安や恐れよりも、希望のために、勇気を出せたら。


勇気をもって、進みつづけていけたら。


口を開いた。そこから出てくる言葉を、わたしと彼が待っている。


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