月最大の都市アースゲイザーはグレイロビーと同様、地下に築かれた都市で、人類史上最大の過密都市でもある。

　頭上を見上げればそこに地球があることからアースゲイザーと名付けられた。荒れ狂うように進められた拡張工事は完了し、頻繁に繰り返された再開発も勢いが衰え、百年掛けてようやく、街は完成しつつある。

　

　月面に無造作に置かれた巨大な箱は、アースゲイザー市内へ降りるためのエレベーターの入り口だ。タチバナロードのターミナルとは違い簡素な造りで、ライトアップもいい加減だ。積極的に場所を知らせようとはしていない。

　ムーンモービルに乗ったまま市内に降りる場合は、エレベーターゲートをくぐり抜けクリーンルームに入る。そこで砂埃の除去と徹底した滅菌処置を済ませてから奥に進みカゴに乗る。少し待ってグリーンランプが点灯すると、下降が始まる。

　故障を疑うような振動とともに動き出したエレベーターの中に、ルグランとカールが乗るムーンモービルはいた。

　改修や改良を放棄された旧式の設備は、修理不能の故障を起こせば、それっきり破棄される予定だ。エレベーターの内壁には「アースゲイザーを訪れる際はシャトルで！」と書かれた張り紙が目立つように張られていた。それを見て苦笑いをするカールにルグランは「乗れてよかっただろ。貴重な体験だ」と言って笑った。

　重厚なゲートが開くと、黄昏時のアースゲイザーが姿を現した。

　

　街の中を走るのはコンパクトで洗練されたシティーモービルばかりで、その群れの中に紛れ込んだムーンモービルは、圧倒的な異彩を放っていた。

　ちょうど夜が始り、天井から落ちる照明の明かりが弱まってゆく。変わって、歓楽街から溢れ出した光が天井を照らし、街から湧き上がる音は互いを弾き合い騒音に変わる。喧騒が喧騒を掻き消す狂乱の夜が訪れた。

　ムーンモービルの車内から、歓楽街へ向かう人の流れをカールはぼんやりと眺めていた。

　「この雰囲気には慣れません」

　「なぜ？」

　「いくらエネルギーが余ってるからって、無理やり騒ぐ必要は無いじゃないですか。何もかも過剰ですよ。余分なエネルギーを地球へ送り返せるなら、そうしてやりたいです」

　「エネルギーが有り余っているおかげで、ルナティックは生まれてこれた・・・」

　「そうですけど・・・」

　カールはチラリと頭上を見上げた。ちょうど天井がガラスの部分で、遥かな青い地球が覗いていた。

　

　アースゲイザーには、広大な天井を支えるための柱が数十本あり、その内、九本は直上にあるシャトルの発着場へ昇るエレベーターを兼ねている。

　それ以外はただの柱の役割を果たすだけだが、居住区付近にある柱には基部の周囲に盛土し植林され、数十年かけて立派な山に育てられた。街並みから望むその風景には、ここが月の地下とは思えない豊かな緑が生い茂っている。

　街の中心には市庁舎ビルが聳える。見上げる者に圧倒的な存在感を誇示するそれは、直径五百メートルの円柱で、天井を支える柱の内の一本でもある。

　

　ルグランとカールのムーンモービルは途中でハイウェイに乗り、街を縦横に貫く高架を颯爽と駆け抜けた。

　市庁舎ビルが徐々に近付いてくると、ビル正面に貼り付けられた巨大モニターに現アースゲイザー市長リン・ライオが登場した。

　金色に輝く強化服を纏い黒縁の眼鏡の奥の力強い眼差しの持ち主は強烈なオーラを放ち、威圧的に街を見下ろした。

　「うっ！」

　リンと目が合ってしまったカールは背筋が寒くなり、思わず声を漏らした。

　

　市長選が迫るアースゲイザーでは、各候補者が市内各地で選挙活動を行っている。リン市長も同様で集票に余念がない。市庁舎正面の巨大モニターを優先的に使用できるのは現市長の特権で、リン市長はこれを最大限に利用する決意だった。

　アースゲイザーの低い空に、夜の喧騒に負けない大音量の演説が響き渡る。

　「私なら地球政府と対等に対話をすることが出来ます・・・。もしアンディ候補が当選すれば地球との対立を生み、確実な破滅への道を進む事になります・・・」

　

　ルグランの自宅は南側の居住区にある。歓楽街の異様な喧騒も、ここでは囁くほどにしか聞こえてこない。ムーンモービルの速度を落として市街地を進み、地下駐車場に入り停車した。

　家の前まで来ると、黒く長い髪が印象的な女性が出迎えに現れた。ルグランの妻のアスカだった。

　アスカはルグランに歩み寄り、制服の両袖を掴み体を近づけた。二人は違う高さから見つめ合って、暫しの間、互いの温もりを確かめてから、軽くキスをした。気まずいカールは必死になって遠くを見ていた。

　カールはルグランに呼ばれると「はい！」と元気に返事をして、何も見ていなかった素振りで振り向き二人と向き合った。

　「紹介する。俺の奥さんのアスカだ」

　ルグランはそう言ってアスカの肩を抱いた。アスカは小さくお辞儀をした。

　「アスカ・ジーズです」

　「どうだ？すごい美人だろ？」

　「えっ、ええと・・」

　暗くてアスカの顔がよく見えなかったが、アスカがルグランのおなかを結構強めに殴ったのは、カールには分かった。

　カールはアスカの視線を感じた。優しい眼差しなのが想像できた。　

　「あなたがカール？ルーから話を聞いてる。やっと会えてうれしい」

　「はっ、初めまして！カールグレイ・アロウです！隊長の相棒をやらせてもらってます！」

　「さあ、家へどうぞ」

　　

　月世界の英雄が、アースゲイザーの平均的な家で暮らす。そんな生活に満足しているルグランに、カールは安堵した。

　結婚前のルグランが一人の女性と小さな家に収まってしまうなど誰も想像することができなかったと、カールは聞いたことがある。それ以外にも幾つか奔放過ぎるエピソードを耳にしていて、そのせいでルグランのイメージはいいとは言えなかった。

　しかし相棒となって関わりを深め、今こうして自宅に招かれ雰囲気を感じてみて、すべてが誇張に過ぎなかったと確信した。ルグランに相棒に指名されたことを、カールは改めて誇りに思った。

　　

　三人はリビングでくつろいだ。カールは緊張で何を話したか覚えていないが、楽しかった。

　食事を用意しようとアスカが席を立とうとした時、長い黒髪が次々と肩を滑り落ち、カールの眼の前でキラキラと輝くように舞った。この時になって初めてカールは、アスカのあまりにも整った顔立ちに気付き目を奪われた。カールは心の中で「噂には聞いていたけ・・・！」と叫んだ。

　聞こえてはいないはずだが、アスカに見とれるカールに気付いたルグランが「カール、お前には渡さないぞ」と耳元で囁いた。カールは慌てふためき「そ、そんなつもりは！」と、顔を真っ赤にしながら必死に釈明した。カールをからかい満足したルグランは声を上げて笑った。

　カールは真っ赤になってしまった顔をなんとか冷やすため、別のことを考えようとしてキョロキョロした。すると、リビングの片隅に置かれた子供用のルナティックシミュレーターが目に入った。

　「ラッシュっていったっけ、息子さん。もう休んでいるのだろうな。三歳だったかな。もう一人女の子が・・・、アンナだっけ？」

　次に招待されたときには、きっと会えるだろうとカールは思った。

　　

　夕食をご馳走になっている間、ルグランとアスカは時折、カールの存在を忘れたように甘い空気に包まれた。カールは落ち着かなかったが食事が美味しかったのは間違いないかった。

　そして、食事がおわる頃、壁に賭けられたテレビモニターのスイッチが入り、音声のみが流れ始めた。モニターの向こうで誰かが話し始めた。

　「ルー。帰っているんだろ。僕だ、アンディだ。ちょっといいか？」

　実の兄からの突然の通信に、アスカは明らかな嫌悪の表情を浮かべた。ルグランはそれに気付きつつも、気さくに返事をした。

　「いいですよ、義兄さん。どうぞ」

　アスカはそれを遮るようにアンディに向かって「疲れているから後にして！ルーに関わらないで！」と言い放った。その迫力にカールは驚いた。

　「アスカ、大丈夫だよ。義兄さん、続けてください」

　モニターに映像が映し出される。そこにはアスカにそっくりの顔をした、暗殺防止用の強化服の男がいた。強化服を着れるのは、ある程度の地位がある証だ。

　「ルー、時間はあるか？選挙の応援を頼みたい」

　「そんな事するわけ無いでしょう！やっと休めているんだから、邪魔をしないで！もう切るから！」

　迫力が増したアスカを、ルグランは宥めながら話を続けた。

　「いいですよ、明日ですか？」

　「いや、今直ぐがいい。打ち合わせがしたいんだ。明日は大事なんだよ。それから、君に会いたいって人がいて・・・。な、頼むよ」

　アンディは目だけが笑わない笑顔を見せた。そこへ突然、奥の部屋から女の子が現れテーブルの上のコップを手に取り、テレビモニターの中のアンディに投げつけた。コップは勢いよく跳ね返り、どこかへ行ってしまった。その女の子は「ママをいじめないで！」と叫んで走り去り、奥の部屋に消えた。あっという間だった。ルグランの娘のアンナに違いない。カールは呆気にとられた。

　「今のがアンナちゃん？確か六歳？」

　アンディは静止画像のように、驚いた表情のままモニターに映っていた。その表情がみるみる怒りに変わり「これで何度目だ！」と、声を荒らげた。

　「教育がなってない！」

　アンディは吐き捨てるように言ってモニターから消えた。

　

　穏やかな時間は突然の嵐に吹き飛ばされた。

ルグランは引き止めようとするアスカに「すぐ戻るから」と言い聞かせ、カールに「すまん」と一言掛けて出ていった。

　カールはここで帰らせてもらうことになり、アスカに見送られて家を出た。

　「ごめんなさいね・・・」

　アスカは少し首を傾げて力なく微笑んだ。

　「またお邪魔します！」

　「待ってる」

　カールが姿勢よく敬礼すると、アスカは微笑んでくれた。カールも笑顔を返して、勢いよく走り去った。

　

　カールはルグランが手配してくれたホテルへ向かうため、ムーンモービルに乗り込み走り出した。大きい車体は取り回しに苦労し、駐車場を出るのにもたつき、想像以上に人目を引いてしまった。

　ムーンモービルのコンソールパネルを起動すると、予約してあるホテルへの道のりがマップに記されていた。ホテルは一週間分も取ってあり、他にも観光スポットと食事の美味しい店がマッピングされている。操作しているとルグランからのメッセージが再生された。

　「すまん、カール。こういうこともあるかと思って設定を済ませておいた。この車がお前を案内してくれる。じゃ！」

　ルグラン自身がカールを案内して市内を周る予定でいたが、こういうことになってしまうことを想定していたようだ。ルグランがここまでしてくれたことに、カールは感動した。

　「隊長、ありがとうございます・・・」

　

　カールは一週間、アースゲイザーで過ごしたが、夜の街の雰囲気が嫌いなカールは、昼間の街をぶらぶらしたり食事をするくらいしかすることが無く、すぐに飽きてしまった。

　街をぶらぶらしていると何度か、街頭テレビやインフォメーションパネルでルグランの姿を見かけた。

　ルグランは市長選に立候補したアスカの兄であるアンディ・ヤシンの応援に駆り出されていて、アンディの行く先々に連れ回されていた。　　　　　

　月世界の住人たちの英雄であるルグランの人気は絶大で、演説の途中にアンディに促されて前に出ると、ギャラリーの歓声が、アースゲイザーの頑丈な天井を揺るがすほどに響き渡った。ルグランは歓声が鳴り止むのを笑顔を崩さずに待ってから話し始める。だが、その内容は、どこでもほとんど同じだった。

　ルグランが、聴衆に向け語り掛ける・・・。

　「俺の理想は義兄さんの理想と同じだ。俺が言いたいことはほとんど義兄さんが言ってくれている。約束する。義兄さんなら、みんなを今より幸せにしてくれる・・・」