タチバナロードの始点の都市ムーンムーンスタックは地球から見て月の真裏、やや南に存在する。正式名称よりも、略した「mms」と呼ばれることが多い。

　中心部に聳える塔と、その周囲に突き立てられた四基の煙突のようなビームランチャー以外に街の存在を示すランドマークがほとんどないため、地下に広がる街の規模を、外から計り知ることは難しい。

　遥か上空から見下ろせば、所々に地下に広がる街の灯が月面に僅かに溢れ、それを頼りに推察すれば、その広さを把握できる。

　火星と月を往来する星間飛行船の母港として壮大な計画を元に築かれた街は、長い過酷な旅に赴く乗組員たちに、休息と安楽をもたらす楽園になるはずだった。

　地球政府の主導で進んだ計画は、最初の市長であるマサユキ・タチバナの代までは順調に進み、予定通りの発展を続けるが、二代目の市長にトシオ・タチバナの就任すると風向きは変わる。すべての計画が白紙撤回され、それに伴い一斉にスポンサーが撤退する。mmsは人口の流出が加速し、それほど時間を掛けずに、ほとんど廃墟と言っていいほどに衰退した。

　街に留まった僅かな人々は、凍りつきそうな街の中で寄り添い、互いを温めい、冷たく流れる時間をやり過ごすだけの日々を過ごした。

　だが、現市長のトール・トット・タチバナが対立候補のいない選挙で勝利すると状況が変わり始める。街に放置された星間飛行船の母港を完成させるための大量の資材と、地球政府がもたらした科学技術、工業技術を駆使して街の拡張工事を推進した。

　徐々に人口が戻り始め経済が活性化、新たに現れたスポンサーの協力で独自にコンピュータネットワークを構築し、短期間で科学技術と工業製品の生産能力を向上させた。

　ここで新興企業ミロクは生まれる。後にルナティックの開発に成功し、ルナティックの生産と稼働テスト、それに関わるすべての産業がｍｍｓの経済を急成長させ、街を支え続けることになる。人口はさらに増え、街の賑わいも戻り喧騒のボリュームを上げたが、それでも他の都市には及ばない。街の中には時折、冷たい風が吹き抜ける・・・。　

　四基の隕石迎撃用大出力ビームランチャーに護られた、高さが二キロに及ぼうかという塔のてっぺんには展望台が乗せられている。

　展望台の中には庭園があり市民や観光客に憩いの場として開放されている。だが、市民も観光客も、地球圏最果ての展望台に訪れることは滅多にない。宇宙の暗闇と灰色の荒野を見下ろすためだけに宇宙の果てまでやってきて、二キロの塔を登る気にはならない。

　mmsの市長であるトール・トット・タチバナは、庭園の一角に仮設された市長室の窓から窓外を眺めていた。暇というわけではない。殺風景で寂寞とした広い庭園に散らばる、かけがいのない思い出に、不意に呼びかけられた気がしたからだ。

　タチバナはデスクに手を突き立ち上がった。二メートルを超える身長は天井を低く感じさせる。狭く質素な市長室をよろめくように歩き、外に出た。そして辺りを見渡し、自分を呼んだ思い出を探した。

　庭園には規則的に並べられたベンチと、ささやかな緑が植えられたプランターが置かれ、少しだけ、庭園の空虚を誤魔化している。展望台の外を望める窓際のベンチに、見覚えのある二人の背中を見付けた。それはいつもの場所だった。ゆっくりと歩み寄ると、近付くほどにノスタルジーが溢れ情緒が軟弱になり、瞳があたたまるのを感じた。

　ベンチの二人は見つめ合い、なにか言葉を交わすと笑いあった。歩いてくるタチバナに気付いた二人は、優しく微笑み、また目を合わせて笑った。

　「トール、やっと来たか。早くここに来て座りなさい。もうすぐ移民船が旅立つ。見逃してはいけない」

　「出発を一緒に見届けましょう。さあ、こっちへ」

　二人は立ち上がりタチバナに向け手を伸ばし、静かに「さあ」と言った。一人は背の低い男性で、もう一人は、とても背の高い女性だ。もう会えないはずの父と母がそこにいた。

　「父さん、母さん、そこにいたんだ。待ってて、いま行くよ」

　二人の傍へ歩み寄ろうとすると、展望台の高さまで上昇をしてきた移民船が、窓のすぐ外に現れた。宇宙船というより帆船のような優雅な船は、儚い光を撒き散らす不思議な推進機で加速を始め、飛び去っていった。

　船が闇の向こうに消え去るころには、父も母も、その温もりも消えていた。気がつくと涙が溢れていた。何度も見た幻をまた見ていた。

　二人が夢見た楽園の姿は、タチバナも見る夢でもあった。微かに漂っていた夢の余韻は静寂の中に消ていき、誰もいないベンチが、そこに残されていた。

　展望台には、高速エレベーターを使い登り降りをする。シャトルで直接到達することは緊急時以外許可されていない。そのエレベーターから、黒いスーツをまとい黒髪を後ろでまとめた男が降りてきた。タチバナの秘書であるトーマス・カラードだった。　

　トーマスは六日間の休暇を消化し職務に戻ってきた。もう一日残されていたが、それを切り上げタチバナの居留する展望台へやって来た。

　人気のない展望台を、健気に動き回る管理ロボットを視線だけで追いかけた。すると、窓際で外を眺めるタチバナが視界に入った。トーマスはタチバナの元へ歩いて行った。　　　　　　　　　　　　

　近くまで来ると、タチバナが泣いていると感じた。あそこでああしている時は、いつも泣いている。トーマスは気配を感じてくれるだろう距離まで近付き、頭を下げて声が掛かるのを待った。タチバナは背中を向けたままトーマスに声を掛けた。

　「トーマス君、おかえりなさい。休暇を一日残してここに来たと言うことは、何かあったんですね？」

　トーマスは顔を上げた。

　「軍が試作していた荷電粒子ビーム砲がギルドに渡りました」

　単刀直入にトーマスは言った。タチバナは少し俯き何かを考え始めた。少しして「仕組まれたことだという確証があるんですね？」と言った。

　「ギルドのルナティックは直前にウォーロックと交戦しています。居場所を知っていたようです」

　「なるほど、そういうことですか・・・」

　トーマスはタチバナの次の言葉を待った。何らかの指示があるはずだが、具体的な行動を促すような言葉ではないはずだ。

　「トーマス君。今回のことは何かの合図だと私は思います。きっと何かが始まります」

　この言葉は、もう待つ必要はないとトーマスは受け取った。実力を行使せよとの指示だ。

　「分かりました・・・」

　それだけ言ってトーマスは踵を返した。

　「トーマス君。家族との時間を大切に。動き出してしまえば自由な時間はありません」

　いつもと違う余計な一言のように思えたが、感傷的になっていたからだろうと思い余計な詮索をせずに「ありがとうございます」とだけ答えて、トーマスはその場を立ち去った。

　エレベーターに向かうと目前で扉が開き、滅多に訪れることがない観光客が降りてきた。家族連れで、いかにも地球から観光目的で来たという身なりで危険な様子はないが、トーマスは警戒し観光客を観察した。

　地球から最も遠い辺境の都市の、表向きには権力を持たず、政治的な影響力を持とうとしない、ただ市長であるというだけの老人が暗殺の標的になるとは思えないが、誰もが表面だけを見ているわけではない。何かを察し、それを阻止するために放たれた暗殺者である可能性はある。

　トーマスは視線だけを鋭く動かし殺気を探った。だが家族連れの観光客に暗殺者が混じっているとは思えず、殺気など感じはしなかった。

　トーマスは暫し、家族連れの観光客を観察していたが、危険はないと判断しエレベーターに乗った。

　タチバナはたった一人で、すでに観光地の体をなしていない展望台の中で暮らしている。

　トーマスは、せめて一人ぐらい護衛を常駐させるか、ガードロボットを配置してほしいと何度も進言したが、いつも「その必要はありません」と、優しい笑顔で拒否した。

　「ならば私のオフィスを置かせてください」と懇願しても「あなたは私ではなく家族のそばにいてください」とあしらわれるだけだった。

　このやりとりは、トーマスが諦めるまで何度も繰り返された。

　トーマスを乗せたエレベターが、展望台から急速に遠ざかっていく。トーマスは頭上を見上げ、敬愛するタチバナを思った。タチバナは、たった一人で孤独に耐えながら、運命が道を開くのを待ち続けている。そして今、道を閉ざしていた霧が晴れつつある。

　エレベーターを降りたトーマスはレールウェイに乗り換え地下に潜った。

　レールウェイは、華やかに見えるが人気の少ない市街地を通り抜け工業区へ向かう。何度かトンネルを抜けると、煌々と照明に照らされるだけの果てしない奥行きを持つ空間を何度も通り過ぎた。

　拡大し続けるルナティック産業が地下空間を埋めているとはいえ、ムーンムーンスタック全体の半分以上の区画が、空気と光をためているだけだ。

　やがて、レールウェイは存在しないはずのエリアにたどり着いた。そこには正規ではない、隠されたルナティックの生産ラインがあった。

　ロールアウトしたての真新しいルナティックが、遠巻きに取り囲むエンジニアたちの中心に立っている。

　レールウェイを降りたトーマスは迷わず一人のエンジニアの元へ歩いていき横に並び、ルナティックを見上げた。ルナティックは漆黒の装甲を纏っている。

　「さっき出てきたばかりです」

　「仕事が速いな・・・」

　エンジニアの言葉にトーマスは満足してそう答えた。

　「アレはどうなってる」

　「テストは終了しています。軍がいじってるおもちゃとは比較になりません。今すぐでもいけます」

　今度はエンジニアが満足気に答えた。

　「ほんとうに仕事が速い。感謝している」

　「感謝しているのはこちらの方です。価値ある仕事をありがとうございます。我々は困難なチャレンジに飢えていました」　

　「これで市長のために戦える。私の夢だ」

　「必ずご期待に添えます。この機体に墜とせない敵はいません。ところで、最終テストはどこで・・・」

　「外に出てみる。相手を選ばなくてはならない。もうちょっと待ってくれ」

　「いつでも出れるようにしておきます」

　その時、機体のカモフラージュをする機能のテストが始まった。一瞬で、漆黒の機体は姿を隠した。

　タチバナはトーマスが去った後、しばらくしてから市長室に戻った。途中、珍しく訪れていた観光客に挨拶をしようとしたが、もう帰った後だった。

　展望台の内周部に市長室がある。休業中のレストランの半分を市長室に改装し、さらに、その一角に非常に質素な自室を設け、市長に就任以来ずっと、そこで暮らしている。市街地に博物館のような荘厳な自宅があるが、一人になってからはもう住んでいない。

　何十年も無人の屋敷は、たまに目覚める清掃ロボットと、それを配下に置く管理ロボットが無言で働きながら、家主の帰りをいつまでも待ち続けている・・・。