異世界観
昨日も今日も、そして明日もどうにも面白いものが書けないと悩み、五輪のお祭り騒ぎに逃げていたら、ふと気づいたのである。私がよく分からん小説を書いてしまうのは、私自身がよく分からん異世界観をもっているからではないかと。
世界観という単語で多くの人々が想像するのは、世界の設定のことである。つまり中世ヨーロッパ風とか、近未来SFとか、そういった世界の設定であろう。
しかし、世界観という語の本来の意味は『世界とは何であるか』とか『世界とはこういうものだ』的な、もっと包括的なものの見方的な話である。的ばっかでよく分からんが、私もよく分からんまま書いておる。
なぜなら、これは気づきたてホヤホヤの、湯気が立っている試論だからである。
私はこれまでに何度もいわゆる異世界転移や異世界転生といったものを書こうと挑戦し、挫折してきた。あの独特な世界設定をうまく扱えないのである。何故かと原因を探すもよく分からんので、分からないなりに合わないとか技術不足とかという語で表してきた。だが、違うのだ。
そもそも異世界をどう考えているかが違う可能性がある。
また分からんことを言い出したとという自覚はある。これから説明していく。
そもそも
私は、当然ではないと思っているフシがあるかもしれん。分からんが。
昨今、宇宙の理解が進むにつれて、はるか昔に栄えて科学の世界では消えたと思われていた哲学がまた日の目を見るようになってきいてる。
その哲学は、名を人間中心主義とか人間原理主義とかいう。すなわち、人の周りに存在するあらゆる要素が人を構成するために用意されたかの如く精密であるから、
世界は人を作るために作られたのだ、
とかにする考え方である。アホくさ、と思う方もあろうが、この手の信念は否定するのも不可能に近い。なぜなら、人は人の目や思考を通してでしか――まあ細かい説明は抜きにして、それと異世界がどう繋がるのか。
創作者の多くは、異世界を現実の地続きと考えているのではないか。
現実の知識に基づいて書いているんだから当たり前……本当にそうだろうか? 現代ファンタジーなのだから、現代にファンタジー要素を入れる。本当に入れ込むだけでいいのだろうか。SFだからこれからの世の中を想像する。本当にそれだけでいいのだろうか。だいぶ意味分からんことを言っているが、ようするに私は、
現実と異世界の地続き方向を逆転して考えているフシがある。
やべー奴だと引かないでください。極めて冷静に、創作物として世界を設定するときの、いわば重心の話です。
私は基本的に、創作するときと創作物に触れるとき、その創作物の世界を遵守するために、現実の知識や理解をシャットアウトします。可能な限り。
そうでなければ拳銃で撃って車は爆発しませんし、剣で山は切れませんし、竜のような巨大な生き物は空を飛ぶことすらできません。
それらを可能にしているのは、その世界が現実の理から外れているから――ではないのではないか。分からんと思う。矢印の向きが違うのだ。まだ分からなそう。
つまり、たとえば空を飛べる世界を創作しようとしたとき、おそらく私は『今のように飛べなくなる前の世界』みたいな思考でアプローチをしている。本当に竜がいたんだけど現代ではいないことにされているみたいな。
異世界中心主義――いわゆる異世界とは逆のアプローチである。
こいつのせいで、私はおもしろい異世界系の創作ができないのではなかろうか。いや分からん。まったく別の領域の話をしているかもしらん。試論である。許してたもれ。あもーれ。
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