プロット
創作論らしい創作のナゾである。だが、逃げないでほしい。私はプロットの書きかたを説明する気は毛頭ない。毛根は大量にあるが。
分からんのは、プロットが、必要なのか、いらないのか、である。
プロットなんて作ったことがないし食べたこともない、という人もおられるかもしれないので、いちおう説明しておく。まず食べ物ではない。美味しくもなかった。小説を書く際(実際に執筆するとき)に参照する、いわば小説の設計図である。
これ、プロでも作るべき派と作らんでよい派に分かれておる。前に紹介したキングはゴリゴリのプロットいらん過激派である。若い頃はプロットなんてものを作るから小説が死ぬとまでおっしゃっていた。創作界の(プロット)アナーキストだ。
他方、日本の貴志祐介などはプロットを立てる作家だ。『エンターテイメントの作り方』などを読むと、構想に時間をかけるタイプのようである。実際、多作家ではない。代わりに(といっていいのかわからないが)、当たり外れが少ない。どれを読んでも本棚に入れておくのにふさわしいと思える。
さて、私だ。私は、作ったり作らなかったりする。しっかり作っといて捨てることもあれば、書き出してからプロットを作ることもある。そして、
プロットとか、あってもなくても別に変わんねえな?
となっている。分からん。たまにプロットないと分からんとなるし、たまにプロット邪魔くさいなとなる。そのときの気分かと思えば違う。書いている作品による。主人公による場合もあるし、世界の設定による場合もある。
また、書きかたも毎回ちがう。メモ、箇条書き、ト書き、ハコ書き、ほぼ本文、ページ数の指定だけ、決めシーンだけ先に書く、などなどなどなど。
一番ちゃんと書いたのだと、『たとえ空を落としてでも』で、いつもの書式で各章五ページずつ、二十五ページのプロットを最初に書いた。
当時の私にしてはちゃんとした理論めいたものに基づいていて、百二十五ページを五章に分け、各章に五個のイベントを置こうとしたのである。いや、書きかた真面目か。そんなことはない。
まだ地球が宇宙に中指を立てていた頃、私は
のちに遥か後方の席に座っていた学生からノート貸してと頼まれ快く渡したら、一ページごとに科目が違っててワケわかんねえと突っ返された。あの日みた狂人に向けられるべき眼差しが忘れられない。自語りになっとぅ。
さて、そうしてテキトーにつくったプロットだが、三章に入ったところで無視するようになった。書いてみたらページ数だったり展開だったり、まるでプロットどおりにいかねえんである。どうしてなのか。まるで分からん。
ただ、まあ、あれから多少、創作のレベルが上がったような気がする。気がするだけで真相は分からんのだが、プロットを立てて小説を書くと修行になるのかもしれない。あるいは、普段プロットを書く人はプロットなしで書いてみるとか。分からん。
というか、何度も例にでてくるあたり、『たとえ空を落としてでも』はなにげに私のなかで大きなウェイトを占めているのだろうか。思い入れはそんなにないのに不思議なもんである。
本題を忘れていた。プロットがいるかどうか。
まあ、分からん。わからんに決まっている。
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