12. 遥かなる48時間 ①
1
人生に1つだけの理を破って、俺は2つ目の戸籍謄本を手にしていた。
「それが今後のおんしらの戸籍じゃ」
「そうですか」
「……ありがとうございます」
「なんじゃテンションが低いのう」
人間別に戸籍謄本を手に入れたからと言ってテンションが高くなるわけではないだろう。というかそういうのは奇特な人間だ。
俺は呆れながらペラペラとした紙一枚を見る。住民票ならともかく、戸籍謄本の写しは見慣れたものではない。名前や生年月日といった基本的な項目はわかるものの、戸籍の記録に関してはさっぱりだった。
読み進めると、以前の情報とは異なる部分がいくつもある。まず年齢が20になっていて、出生日は9月27日、出生地はこの埼玉渋宮になっている。そして何故か俺は養子となっていた。
「大家さん。この養母氏名、東白桜ってどういうことですか?」
「面白いじゃろ? 戸籍上はワシがおんしの母ということじゃ」
俺の母親はまだ健在だ。入居時にあれだけ驚いていたのだから、知らないはずがない。一言の相談もなく、よもやそのその座を奪って母に成り代わるとは、不遜もいいところだ。
しかし実際、これだけ姿が変わったのだ。本当の親とは似ても似つかないし、年齢も違う。それに俺の今の名前は東白優だ。確かに大家の養子になっているのは自然だった。ストーリーとしては親戚に引き取られたというところか。
「……フゥン、わかりましたよ。お、か、あ、さ、ん!」
「……エ゛ッ!?!?」
意趣返しに本当に「お母さん」と呼んでやれば、叫び声とも受け取れる声が返ってきた。いい気味だ。もう二度と呼んでやらん。
「なあもう一回言ってくれんか? ワシを母と呼んでくれんか!?」
「ハ。冗談を。じゃあ俺はもう戻りますよ」
「あ、こら!」
相手のペースに付き合うのは愚策だと、この前の伊藤さんの件で学んだ。要するに、積極的にイニシアチブをとりに行ったものが、物事のペースを勧める権利を有するのだ。俺はさっさと話を切り上げて、喚く大家を無視しながら自室へと戻っていった。
いつになるかは分からないが、来るXデーはきっとすぐそこだ。遊んでいる時間はない。とにかく自分を休めなければならなかった。
2
行きたくねえ。
起きたくもねえ。
畳と毛布で挟まれた小さな聖域の中を、何十回も寝がえりをうって変形させる。11月に入り信じられないぐらい夜中に冷え込むようになり、連日何度か起きる日々が続いたのにも関わらず、何故かこの日に限って快眠を決めてしまい体調はばっちりだった。そんなだから二度寝もできずに、だらだらとしているわけだ。
11月の13日14日の土日。これらの日が来るXデーだった。大家から母と呼ぶように懇願されたり、戸籍の件で和井田さんから突撃されたり、バイトのあれこれ全てを伊藤さんに任せていたら、あっという間にこの日になった。
今日のアルバイトの内容は何度も聞かされている。全国でも有数のアリーナ、収容人数3万前後の埼玉ハイパーアリーナでのライブスタッフだ。流されるがままに連れていかれた派遣バイトの登録兼説明会で、あらかたの業務内容は聞かされている。と言っても、だいたいは現場で伝えられるらしいから、本当はどういう業務を行うかは何もわからぬままだ。
業務開始時間は8時で現地集合。アリーナまではこの埼玉の奥地から2時間弱かかるので、始発とまではいかずとも、かなり早い時間帯に家を出なければならない。もう5時半を回っているので伊藤さんも起きてくる頃だろう。今になって本当に働くのかと、実感が一切湧かないままここまで来てしまったが、夢ではない。これから二日間の労働詰めの日々が待っていた。
憂鬱に浸っていると、ふすまをノックする音が聞こえた。
「起きてます……起きてますよ」
返事をして立ち上がる。キャリーケースの奥底に封印したはずの財布を取り出して、この日のために用意した安いウエストポーチに仕舞う。それからこれまたこの日のために購入した黒色のスキニーを履いて、いつもの長袖白Tシャツを着た。
まだ十分に時間があることを確認してから、洗面所へ向かい、顔を洗った。本当に奇跡のように、化粧をしていないのに十分に可愛い顔が洗面台の鏡に映る。テレビやネットなんかでは女性の化粧は常識みたいに言うけど、それはどう考えても言い過ぎだ。化粧水すら面倒なのに、どうしてそこまでして押し付けるのか、俺にはわからなかった。
とりあえず髪をゴムで結んでいつものおさげにして、キッチンに置きっぱなしのおにぎりを一つ食べた。テツさんの料理は作り置きでも美味しい。
「そろそろ行きましょう」
「……はーい」
残酷にも約束の時はやってくる。これから地獄の2日の始まりだった。
朝日が昇る時間帯の電車はなんとも言い難い魅力がある。目まぐるしく変わっていく景色が青白い光に彩られていく光景を見ると、胸をすく思いになった。
いくつかの路線を乗り継いで、最寄り駅にたどり着く。改札を出て会場へと歩いていけば、ちらほらと観客らしき人影が見え始めた。物販どころか、まだスタッフすら揃いきっていないのにご苦労なことだ。本日ライブを行うミライクリスタルというアイドルのファンは、ずいぶん熱心な人が多いらしい。
そんな光景を尻目に、俺たちは事前に説明されていたスタッフ用の出入り口で身分確認をして、アリーナの待機室へと向かった。待機室の中に入ると、そんなに広くもない場所に信じられない数のスタッフがいてさっそく辟易とする。始業前の喧騒とした空間では、空調は効いているというのに息苦しかった。
「さっそく帰りたくなってきました」
「ダメです」
くだらない独り言に突っ込みをいれられて、さらにテンションが下がる。伊藤さんは遠慮がない。最初は無口だったので勘違いしていたが、なかなかに底力のある人だった。本当に、そんだけの胆力があるなら一人で行ってほしかった。
午前8時きっかりに、マネージャーが点呼のために大声を出した。先ほどまで話し声も聞こえていたのに、場は静まり返り皆表情を真剣なものへと変える。しかし、自意識を意図的に切り替える必要のあることは、なるべく避けていたので、俺はあまり真剣になりきれなかった。
呼ばれるがままにマネージャーのもとに向かい、本人確認をするといくつかの書類とスタッフ用のTシャツを手渡された。皆その場で服の上にTシャツを着るので、俺たちもそれに倣った。スタッフ用のTシャツは、黒いシャツに「STUFF」の文字がプリントされた質素なもので、一目でスタッフだとわかるようデザインされている。
全員の点呼が終わり、まずは一つ目の書類に記載された注意事項から説明される。守秘義務をはじめ、持ち場を離れる時は必ず声をかけること、使用していいトイレ、演者となるべく接しないようになど、ライブ特有のことまで一通り。次に、もう一つの書類にあるタイムスケジュールを確認して、ようやく本格的な業務が始まろうとしていた。
俺たちは案内、物販、搬入と三つの組に分けられ、業務を行うことになった。幸いにも伊藤さんとは一緒の案内組になることができ、物販と搬入が持ち場に連れられていくのを見送る。それからマネージャーが案内組の業務内容を告げられる運びとなった。
案内組の業務は、文字通り観客の案内に関連するもの。入退時の案内はもちろん、会場内のゴミの処理なんかもその業務の一環だ。初めに取り掛かったのは、観客に配布するチラシを、ひとまとめにすることだった。
長テーブルの左端から伊藤さん、俺と座り、目の前の段ボールを開封してく。
「これ、間に合いますかね……」
「……やるしかない」
大量の段ボールの中には異常な量のチラシがある。左から順にライブに関するアンケート、ツアーに関する情報、残りは協賛企業とのコラボ商品やイベントなどが載ったチラシ群だ。これらを一枚ずつ取ってひとつに纏めたら、透明の袋に入れてそれを段ボールに入れる。この十秒程度の動作が、俺たちに課された仕事だった。
しかし、チラシを見ていると見ていると、いつか見たあの月見荘の物件広告が思い出される。あれはひどい出来だった。それに比べるとこのチラシ群は人に読んでもらえるようにだいぶ工夫してあるように思える。少なくとも目が痛くなることはなかった。
そんな流れ作業を、ただひたすらにやり続けて1時間、チラシの山はエベレストもかくやという高さで、まだまだ終わる気配はなかった。
最初から覚悟が決まっている伊藤さんの動作は早く、隣の段ボールにどんどん成果が積まれていく。手は動かしつつよそ見して彼女を見れば、見慣れない凛々しい表情で、淡々と進めていた。あとは眼鏡さえあれば、俺の想像するオフィスレディに近い。
一方で俺は遅くならないことだけに気を付けて作業をこなしている。自分のノルマが時間内に終わればそれでよかった。
作業自体は完全に流れ作業なので、もう慣れた人もいるのか、わずかながらに喋り声が聞こえてくる。殆どがこの単純作業についての愚痴とか、物販の仕事についての話だ。面白い話題と言えば、ライブが見れるかどうかは気になった。見れれば多少労働の苦痛は和らぐかな程度のことだけど、アイドルのライブだ。癒しを求めるのは悪くない。
昼の12時。4時間ぶっ続けで行われたチラシ詰めも終わり、休憩時間に入っていた。
膨大な量のチラシを、気分転換もなくただひたすらに処理するのは、精神に来る。最後の方は貧乏ゆすりをするかしないかの戦いに入っていて、仕事どころではなかった。虚無度で言えば全く眠くないときの昼寝と同じくらいなものなのに、場の空気を考慮すれば、圧倒的にこちらの方が苦痛だった。
支給された弁当の鮭を齧って、何度も噛みしめる。テツさんの料理とは違う、市販弁当の極端に濃い味付けが、労働により精神的摩耗に晒された俺にとっての唯一の救いだった。ごはんにも塩がまぶされているのがさらにいい。
「どうも~。大変でしたね~」
「ンぐっ……。あ、そ、そうですね」
乾いた喉にかきこんだご飯を流すように水を飲んでいると、突然右隣の人に話かけられた。慌てて返事をしてそちらを向けば、20代くらいの女性が目に入る。茶色いゆるふわウェーブの、長いまつ毛が特徴的な女だ。化粧が施されているのか、この無機質な部屋の中でも明るい血色をしていた。
「単純作業バイトが嫌だからイベントスタッフに応募したのに、これじゃあ変わんないですよ~」
「そ、そうですか」
別に興味もない身の上話を出合い頭にふっかけられて少し引いた。月見荘の面々は例外として、純粋に女性と話すのがユニイロの店員と合わせてこれで2度目だったのもあり、少しの気恥ずかしさもある。自分も女の身であることをしっかりと自覚するには、今だに風呂やトイレでないとできていなかった。
ふと女のテーブルを見てみると、空の弁当箱が置いてある。まだ10分とたっていないのに爆速で完食しており、丁寧にも割り箸は元の紙袋に戻されていた。
なるほど、食べ終えて時間が余っているから俺と話して時間をつぶそうという腹積もりか。あいにくと、俺はまだ半分しか食べ終わっていない。ハンバーグの楽しみは一人で味わいたい。そういうのは逆方向の男にでもやっていてくれ。
「これで少しもライブの音聞こえなきゃ、ほんと来た意味ないです~」
「そうなんですね」
こちらの事情を鑑みない女の語り掛けは続き、適当に相槌をしながらハンバーグを貪る。こういうのはバランスよく食べようとしても、だいたい先にご飯がなくなっているのがお約束で、俺もその通りになっていた。おかずは白米と一緒に食べるのが一番美味しいのに、こんな結果で終わったのは非常に悲しいことだ。
「前にロックバンドのライブ行ったことあるんですけど、その時はもっと小さい会場でしたよ~。知ってます? ディーズってバンド」
「知らないです」
「こういうバイト初めてで、しかも3万人入る会場って何ですか? ってな感じですよ~」
「そうなんですね」
「はい~」
最後のひじきを食せば、ようやく完食だった。休憩中に大満足の弁当が出てくるとは、労働もそこまで捨てたもんじゃない。解放まで約10時間。時間配分的には序盤終了もいいところだったが、我慢だだ我慢。午後は動く仕事がメインになるから、チラシ詰めよりはまだマシだ。
「ごちそうさまでした」
「見てください。これがその時の写真です」
「はい」
俺が弁当を食べ終えるまでの間にバイトの話から二転三転し、今は東北の心霊スポットに行ったときの話になっている。そもそも会話のキャッチボールに応じなかった俺でも、その飛躍っぷりには目を見張るものがあった。
飯の言い訳もできなくなり、しぶしぶと渡されたスマホの写真を見る。写真には、ボロボロで荒れ放題の壁の建物が、伸びまくった雑草で隠されているいかにもな廃墟があった。一見しただけではこれに心霊的要素は見受けられないが、わざわざ見せつけてくるということは、実際に見物した人にしかわからない事情があるのだろう。
「なかなか雰囲気ありますね」
「あ、間違えました。これ近所の廃墟ですね」
「えぇ……」
なんともなかったように、別の写真へ切り替えられる。今度は確かに幽霊が出そうな雰囲気の写真だった。
さっきのは本当に心霊写真とは全く関係ない別の写真なのかと、拍子抜けして気が抜ける。メッセージアプリでの誤送信ならともかく、直に見せる画像を間違える人は初めてだ。こちらが適当に相槌していてもずっと話していたのは、この胆力のおかげか。伊藤さんタイプと見た。
「ああそういえば自己紹介がまだでしたね~。私は篠山加奈です。よろしくです~」
「……どうも、東白優です」
「んん? 東白、優さんですか~」
「僕の名前がどうかしましたか?」
今度は話題が自己紹介に移り変わり、改めて互いに挨拶をした、俺の名前に対して疑問でもあるのか、篠山さんは口元に指をあてて眉を歪ませた。大家といい篠山さんといい、俺の喋りは人を悩ませる魔力でもあるのか。
「いや~すいません。どこかで聞いたことある苗字なんですよね~。珍しい苗字だから記憶にはあるんですけど、どこで聞いたか思い出せなくて~」
「そういうことですか」
「はい~。思い出したら教えますね~」
「どうも」
俺も東白という苗字は大家の本名を知るまで耳にしたことはなかったし、実際珍しい苗字だ。どこかで聞いたことがあるなら、大家のことである可能性は高そうだ。
それからまた飽きもせず篠山さんの緩いマシンガントークが再開して、休憩時間はあっという間に消えていった。午後の労働が始まる前に弁当のゴミを捨てて、スケジュールを確認した。
午後はアリーナ内での仕事になる。案内をこなせるかどうかは不安だ。大声を出したり、他のスタッフと連携を取るなど、俺にはさっぱりだ。求められていることすらできるかどうか。
左手の伊藤さんを見れば、真剣な表情でスケジュール表を確認している。昼休み中は、篠山さんと話してばかりで、彼女とは一切話していない。俺が心配することではないだろうが、俺以上にコミュニケーションが苦手そうだから不安になる。
声をかけようとするも、なんて声をかけていいのかわからず胸の前で手をぶらぶらさせたままでいると、休憩は終わりを迎えた。
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