第23話 古谷は心臓外科医を目指す

◆ 古谷は心臓外科医になりたいと秋月に語った。


 目も開けられない驟雨が熱気を取り去った夕暮れどき、古谷が訪ねて来た。

「心臓外科医にはどうしたらなれるのですか? 何が必要でしょうか?」

 挨拶もそこそこに、古谷は一息に畳みかけるように質問した。

「キミは何を聞きたいのか? 覚悟か? テクニックか? 心がけか?」

「全てです。教えてください。どうしたらなれるのかをお聞かせください」

「突っ立ってないで掛けなさい。キミは確か5年生だね。これから話そうとすることはあくまでも僕の私見だ。それでもいいか、聞くか?」

「はい、聴かせてください。ぜひお願いします」


「心臓外科医に限らず医者にいちばん必要なもの、わかっているだろうが、それは命をあきらめないことだ。最後の最後まで命を救うことだ。次に求められるのは体力だ。オペに入れば2時間、いや、それ以上のこともあったが、飲まず食わず、小便も我慢して立ちっぱなしだ。まずは体力だが、それも忍耐強い体力だ。

 若いから体力なんて心配ないと笑うかも知れないが、女に待ちぼうけをくらってボサーッと立ってる時間とは違うぞ。そんな体力ではない、気を抜いたら死んでしまう患者さんを前にしてのシビアな時間だ。それは体験しないとわからない過酷な時間との勝負だ!」

 古谷は目を閉じて聴き入った。

「そして重要なことは、一旦オペに入ったら何事にも動じない心だ、精神力だ! これは経験を重ねて形成されるが、大量出血や容態の急変、諸々のトラブルに動じない胆力だ。動脈管の壁は非常にデリケートで脆弱だ。何が起っても不思議ではない。こういうときに執刀医がアタフタすると誰が指令を出すんだ? ジ・エンドだ。一旦、開心したら動揺することは許されない。

 精神力の土台となるのは、人体構造と臓器に関する深い知識と理解だ。これだけなら大学でも学べる。それにプラスして最も重要なことは生命の尊さを知ることだ! 人は無駄に生きてはいない、無駄に生かされてはいない。そして、人はひとりではない。家族や友人がいる。ひとつの生命を救うことは幾つもの生命を救うことだ。生命に対して尊厳と慈しみを持て! さっきも言ったがこれは医者の原点だ。年配の患者さんであれば親だと思え、年少の患者さんであれば兄弟や子供だと思え! よく覚えておけ!」


「教えてください。心臓外科医は手先が器用な人しかなれないと教授から言われましたが、本当でしょうか? 普通では無理でしょうか」

「そんなことを言う教授がまだいるのか。古谷くん、手術の糸結びはトレーニングで上手になれる。だがオペの現場では、糸結びをしながら他の部位を押さえて出血を防ぎ、隣接する臓器を触って全身状態を確認する。冠動脈吻合(かんどうみゃくふんごう)の場合は、10本の指を20本に使わざる得ない場面もある。冠状動脈の根元に別の血管を繋ぐが血管の直径は2ミリだ。冷汗が出る、眼が眩む。いや、クライシスではオペの順番やセオリーなんてクソ食らえだ! 何を最優先すれば生命が救えるかの決断を迫られる。心臓外科医に必要なものは、小賢しい器用さよりも変化する容態を予見しての判断と決断力だ!」

 古谷はバイパス手術の光景を脳裏に浮かべ、顔色ひとつ変えずに執刀する評判の秋月が不思議に思えた。


「もうひとつ言わせてくれ。心臓外科医は花形スターだとおだてられているがとんでもないぞ。チームリーダーの僕はオペの前日から生ものや刺激物は摂らず、酒は舐める程度だ。また、心を落ち着かせようとしても出来ずに逃げ出したくなるときがある。失敗したらという不安といつも闘っている。

 僕を有名にしたあの手術は2時間弱かかった。タイムリミット寸前だ。本当に神の手を持っていれば、もっと早く終っただろう。オペの直前に自信がなくて雪子に会ったら、僕の額に『success』のハンコですとキスして、もう大丈夫ですと笑ってくれた。それだけでざわついていた心が収まった。それはマジナイみたいなものだが、それでも人の心は変わることもある」

 古谷は人間・秋月の赤裸々な告白を無言で聴いていた。


「雪子は受験で上京する前夜、寒さに震えながら僕を訪ねて来た。心細くて泣いていた。そのとき、『合格』のハンコだと言って額にキスして送り出した。『success』や『合格』のハンコはくだらないマジナイだろうが、人の心を勇気づけ安心させた。そんな人間の心が少しわかるようになれば、キミはいい心臓外科医になれると思う。

 偉そうなことを言ったが、僕は日夜悩み、焦り、現実から逃避したくなる。僕が背負っている大きさと比較すると僕は小さい、あまりにも小さ過ぎる。雪子がいるからどうにかやっていられる。どうだ? 『若き心臓手術の神様』の実像に失望しただろう?」


「秋月さん、ありがとうございました。ここまで話してくださるとは思ってませんでした。秋月チームに入りたいと決心しました。入れるようになりたいと思います。僕が一人前の心臓外科医になるまで教えてください。お願いします」

「そうか、待っていよう。キミが一人前になるまで最前線でメスを握っているかどうかわからない。一度失敗すると神様からただの心臓外科医だ。わかっているだろうが僕は厳しいぞ。キミが雪子ほど耐えられるかどうか楽しみだ」

「西崎さんから聞きました。秋月さんは癇癪持ちで、我儘で、意地悪で、悪戯好きだそうです。覚悟は出来ています。どうか教えてください」

「そうか、雪子がそう言ったのか。そうだ、すべて当たっている。その通りだ」


「この前、勿体ないから食べてくださいと、秋月さんに用意した弁当を食べさせてもらいました。驚きました」

「勿体ないだと? あれはそういう子だ。あの弁当は旨い! 忘れてしまった懐かしい家庭の味がする。家に帰えると雪子が待っている、そんな日が来るように願っているが、卒業まであと1年半もある。時々僕は自信がなくなる。どんなに言葉を尽くして諭しても東京に行ってしまう困った子だ。僕の言うことを聞いてくれない、まったくお手上げだ」

 秋月は幸せの中に不安を抱いていた。雪子を語る表情はいつものカミソリ秋月とは違い、自信がない屈折した眼差しだ。古谷は気づいた。


「秋月さん、西崎さんは生徒から人気があります。かまってもらおうとウソ泣きするガキまでいます」

「ませたガキだなあ。パコーンと叩けと雪子に言っておこう。だが雪子が人気あるのは当然だろう。あんなに若くて可愛い先生がいたら、キミは塾に通うだろう? 僕だってそうだ」

「僕はウソ泣きします」

「そうだな。僕もウソ泣きするな」

 ふたりは顔を見合わせて笑った。

 古谷は、雪子に介抱された和田が九大医学部に進学し、塾でバイト講師をしていることは秋月に言わなかった。雪子を見る和田の視線は熱かったが、この年頃の男子はとかく年上の女に魅かれるものだと古谷は気にもしていなかった。



◆ フラッシュバックは突然襲って来た。


 ざんざ降りの雨が叩きつける中、雪子は着物の裾をつまんで傘を差して塾を出て行った。

 古谷は、そういえば今日は水曜日だ。西崎さんの半東の日だなと2階の窓から見ていた。こんな日こそ、秋月さんは迎えに来ればいいのにと思ったが、あの聞き慣れた爆音はなかった。和田が雪子を追うように出て行った。

 悲鳴が聞こえた? 気のせいだろうと思ったが、20メートルも離れていない歩道に雪子が転がっていた。あいつめ、何をしたのかと古谷は飛び出した。


「すみません。転んじゃいました」

 雪子は前のめりにバタンと見事に倒れていて、激しい雨に打たれて着物が体に張り付き、自由を奪われて、起きようともがいていた。古谷が手を貸して立たせたが、どうも足を痛めたらしい。

「ずぶ濡れだ。とにかく戻ろう。和田、どうしたんだ?」

 和田は驚いて立ちすくんでいた。

「私ってホントにドジですねぇ。足が痛いです」

「お前は西崎さんを運べ。俺は秋月さんに連絡する」

「すみません。西崎さん、僕の背中に乗ってください」

 雪子は遠慮したが、古谷が早くしろと叫んだので、和田は雪子を抱き上げて走った。

 歩道に忘れられた赤い傘がクルクルと舞ってどこかへ消え去った。


 10分後、やっと秋月と連絡が取れて、2000GTはいつもの爆音を響かせて玄関前に滑り寄った。

 全身泥まみれの雪子を見て、秋月は大笑いした。

「どうしたんだ、そのかっこうは? 髪もおでこも鼻のてっぺんも泥だらけじゃないか。ドブに落ちた子ダヌキのようだ。泥団子でも作っていたのか、呆れたやつだ」

「考えごとをしていて転んだのです。ごめんなさい」

 立ち上がろうとした雪子を座らせて、

「足を見せなさい。おおかた捻ったか挫いたかだろう」

 触診する様子を、古谷と和田は穴があくほど熱心に見つめた。

 「心配することはない。右足首を挫いただけだ。骨には異常がない。バカなやつだ。今日は半東はお休みしなさい。少しは腫れるだろうが明日は歩ける。古谷くん、騒がせて悪かった。申し訳ない。雪子、帰るぞ」

 濡れたままだと風邪引くぞと自分の上着をかけてやり、運び去った。


 秋月が去ったあと、

「和田、何があったんだ?」

「わかりません。どしゃ降りの雨なのに西崎さんが着物を着て出て行くので、どこへ行くんですかと訊いたら、振り向きざまにキャーッと大きな声を出して転びました。どうしたんでしょうか」

「うーん、お前と誰かを間違えたか、それとも単純に転んだか、その辺りはわからないが気にするな」

「気にするなと言われても、僕にはマドンナみたいな人です。大丈夫でしょうか」

「秋月さんがついている。心配はない。そんなことより、彼女は秋月さんの奥さんになる人だ。叶わぬ恋をするな。憧れだけにしておけ」


 頭から泥を被ってずぶ濡れの雪子を抱えて秋月は戻って来た。それを目撃した秋月チームのスタッフは、車に跳ねられたと勘違いして緊急スタンバイを整えた。

「いや、大げさな治療は必要ない。転んだと言っている。右足を挫いているがたいしたことはない。いつも騒動を起こすやつで申し訳ない。正座が出来ないから今日の茶道教室は無理だ。秀明斎先生には僕が謝っておく」

「ふーっ、転んだだけですか。安心しました。雪子さんはいつも心配かけるんだから」

 雪子を見た山川は笑って言った。

「僕は仕事に戻る。シャワーを浴びて静かにしてなさい。あとで薬を塗ってやる」

 秋月はそのまま自分の部屋へ運んで行った。

 スタッフは泥にまみれた子ダヌキそっくりの雪子を思い出して大爆笑した。


「ただいま。帰ったぞ」

「お帰りなさい」、戻ってきた秋月に雪子が飛びついた。

 毎日がこうだといいなと秋月は思った。

「いい子にしてたか? 何だ、泣いてたのか、足を挫いたくらいで泣くな」

 秋月は診療が終わると必ずシャワーを使うが、雪子がいると、突っ立って脱がせてくれるのを待っている。まだ裸を正視できないらしく、あらぬ方向を向いて脱がしていく雪子をいつも面白がって眺めていた。


「今日は泊まって行きなさい。僕は疲れた。雪子が帰りたいと言っても送って行かないぞ。そんな足では帰れないだろう」

「はい……」

 雪子はまた泣き始めた。

「何があった、どうしたんだ? 痛むのか? 挫いたぐらいで泣くな。それともあのガキから何か言われたか? そうだろう、何と言われたんだ?」

「いいえ、和田くんは関係ありません。私が間違えただけです」

「間違えた?」

 雪子は震えながら視線を上に泳がせ、やがて眼を閉じた。

「誰かに呼びかけられて振り向いたら、雨に霞んだ街灯に照らされた和田くんが大きく見えて、怖くなって、逃げなきゃと思って、そして……」

「ああ、何も言うな。僕がいるから安心しろ」


 怯える雪子をずっと抱きしめた。大きな人影? それは林健太だろう。あの忌まわしい記憶がフラッシュバックしたに違いない。俺がこんなに抱いてもまだ恐怖から逃れられないのか。追いかけてくる記憶と恐怖に闘っても、あの出来事は雪子を打ちのめす。その夜は、ひたすら雪子を包んで眠った。抱き包むことしか出来ない自分の無力さが辛かった。


 静かな一夜が明けた。

「早くぅ~ 蒼一さん起きてください。裸のままではバイトに行けません。家に帰って服を着ます。子供たちが待ってるのでバイトは休みたくありません。送ってください。早く~」

「うん? 何時なんだ? 僕はようやく眠ったというのに人騒がせなやつだ。6時か? この時間は勤務者は少ないはずだ。よし、ついて来い」


 雪子に自分のTシャツを着せて整形外科のフロアへ連れて行き、さっさと雪子の右足首を石膏で固めてしまった。

「何するんです! 挫いただけでしょ、これでは普通に歩けません」

「キミのお母さんには骨折したと言ってしまった。こうすれば雪子は立派な骨折者だ。さあ、服を取りに行こう」

「どうしてそんなことを言ったんですか。心配かけてしまいます」

「そんなに怒るなよ。一緒にいたいから雪子を泊まらせますなんて、みっともなくて大の男には言えないセリフだ!」

「はあ? ウソつき! あーあ、でもこの足ではお弁当は作れません、どうしましょう」

「心配するな、ランチタイムには必ず迎えに行く。いつも弁当を食わせてもらっているから、たまには外で食べよう」


 塾では、石膏ギプスで出勤した雪子に驚いた。

 講師控室に入ると、古谷が目を丸くして雪子の足を見た。

「昨日、骨には異常がないと聞いたが、それはどういうことか?」

「すみません。昨日はお世話かけました。本当は骨折なんかしてません。でも、色々と事情があってこうなったのです。ごめんなさい、これ以上は言えません」

「その石膏ギプスは秋月さんがやったのか、遊び心か? 和田が気にしてたから、あとで声を掛けてやってくれないか」

「遊び心? そんなものです。何を企んでいるのか私にはわかりません」

 雪子はにっこり笑った。


 子供たちも雪子の足を見て驚いた。

「あのね、先生はドジだから転んじゃって怪我したの。心配しないでね、もう大丈夫よ」

 子供達の大きな塊の中心に雪子がいて、気遣う言葉を掛けてもらい、涙ぐんでいた。


 和田は雪子の足を見て驚いて駆け寄った。

「すみません。僕が突然声を掛けたのでびっくりして転んだのですか? すみませんでした」

「ごめんなさい、そうではありません。私の方こそ謝らなければ。ずぶ濡れにしちゃったし、ごめんなさい」

 和田は雪子を抱き上げた感触を思い出した。それはやわらかくて頼りない生き物だった。女を抱き上げたのは初めてだった。

「大丈夫ですか? その治療は骨折ですか?」

「そうじゃないの。いきがかり上、石膏で固められただけです。心配しないでください」


 正午ジャスト、いつもの爆音を轟かせ秋月は迎えに来て、慣れた仕草で雪子を抱きかかえて走り去った。秋月さんはあれをやりたくて、足を固めたのかと古谷は思い、笑って見ていた。西崎さんが言ったように、子供っぽいところがある、そう納得した。


 秋月は雪子が毎日でも泊まってくれることを願っていた。

「山川くん、折り入ってお願いがある」

「何でしょうか。そんなに改まって。どのようなご用件でしょうか?」

「雪子が急に泊まっても困らないように、服や下着を買って来てくれないか」

「わかりました。それでサイズはわかりますか? 婦人服では7号や9号という表示ですがご存知ですか?」

「いや、全くわからない。雪子に服のサイズなんて訊いたことがない」

「そうですか。あんなに仲良しなのに知らないのですか。それでは任せてくれますか」

 

 ちょうどその時、雪子が片足で飛び跳ねてやって来た。山川は石膏で固められた足を見ても、若先生のやりそうなことだと動じなかった。

「あららら、雪子さん大変ねえ。片足になっちゃったの。他には痛いとこや打ち身はないの? 心配だわ」

 山川は雪子に抱きついて、ここは? こっちは? ムカデは噛まなかったの? と言いながら触りまくっているが、本人は何も怪しまず、大丈夫ですとされるままで笑っていた。

 うっ! ムカデだと? 秋月は慌てた。

 俺はあんなに抱いていながらサイズなんて全く知らないが、ベテランのナースは凄い、ああやって触診してサイズを確かめたようだ。秋月は呆れて見とれていた。


「山川くんも欲しいものがあったらプレゼントさせて欲しい。いつも心配と世話のかけ通しだ。ただ他のナースには内緒だ」

「まあ本当ですか、ありがとうございます」

「どうぞ、遠慮しないで気に入ったものがあれば何でも」

 秋月は、これで足りるかと5万円を渡そうとした。

「何を考えているんです! こんな大金はいりません。私たちの給料を知ってますか? 大卒の初任給だって49,000円です。バイトの時給がいくらか知ってますか? 福岡では200円以下です。雪子さんは恵まれたほうで17,000円の仕送りで暮らしてます。服は特売場で買うので2万円で結構です。これで山ほど買って来ます。若先生、難しい本ばかり読まないで、少しは世間のことを勉強してくださいよ!」

 特売場とは何だ? そう訊こうとしたが、山川はプリプリ怒って出て行った。


 街に灯りが灯った。

「今日も泊りなさい。片足では歩けないだろう。いいだろう? 泊まってくれるね」

「誰が片足にしたんですか、タクシーで帰ります。着替えもいるし、とにかく帰ります」

「そういう心配はない。山川くんが雪子の服をたくさん買って来てくれた。開いてみるか?」

 床に置かれた岩田屋デパートの大きな紙袋を指差した。

「ええっ! これ全部が服ですか、こんなに? 本当ですか?」

 雪子は眼を輝かせた。やっぱり雪子は若い女の子だ、あんなに嬉しそうな顔をしている。秋月は嬉しくなった。

「気にいるかどうかわからないが、山川くんの見立てだ」

「わあ、とっても素敵です。下着やストッキングもあります。えっ、サイズがぴったりです。どうしてわかったんでしょう。山川さんってすごいですね。蒼一さん、嬉しい、ありがとう!」

 飛びついてキスした。

「喜んでくれると僕も嬉しい。これだけ服があったら安心して泊まれるだろう。だから今日は泊ってくれるね」

 秋月は雪子を離さずベッドに運んだ。


「わかってくれるか、昨日はじっと我慢してたんだ。いいだろう?」

「蒼一さん、眼がウルウルです」

「からかうなよ、そんなこと言うと激しく抱くぞ、いいか」

「ふぁい? いやです。痛くしないで優しくしてください」

 雪子は秋月の指先に妖美を隠して乱れて行った。忘れたい記憶を抹殺するように、何度も重なって踊り跳ねた。早く忘れてくれ、もう思い出すな…… 雪子を抱きながら秋月はそう願った。

 ♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡。


 

◆ 波の音を聴きたい夏は。


「盆休みはあるんだろ、どこへ行こうか? 行きたいはあるか?」

「はい、休みはあります。一緒だったらどこでもいいです。でも、波の音を聴いて、たくさん遊びたいです」

「たくさん愛されたいのか?」

「えっ、そんなぁ…」

 雪子の頰は桜貝になった。雪子の乳房を掴むと小さな乳首が立っていた。

「やっぱり、そうか。だったらあのコテージに決めよう。誰もいない海がある。波の音も独り占め出来る。そうしよう」

「はい、3度目ですね」

「僕たちはあの海を訪れる度に愛を深めている。そうだろう? 宝石箱をひっくり返した満天の星、煌めく海に抱かれて裸で暮らした」

「ジュリアス・シーザーみたいで素敵でした。でもムカデがいました。早春の波と遊んで冷たくなって、温めてもらいました」

「もうムカデはいないだろう。ふたりだけの思い出をたくさん作ろう。いいね」

「はい、嬉しいです。ぼーっと波の音を聴いているのが大好きです」

「ぼーっとしているキミをぼーっと見ているのが僕は大好きだ、おいで」

 ♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡。



◆ 林の手紙は葬られた。


 星野から秋月に電話が入った。

「何だ? 何か用か?」

「そんなつっけんどんな返事はないでしょう。親父が秋月さんに会いたいと言ってます。話があるそうです。ユッコを連れて僕んちへ来てくれませんか?」

「星野院長が?」

「ユッコは元気なんでしょう? 心配しています。すっかりユッコの親父になった気でいます。それにもうひとつ大事な話があります。林から僕宛に封書が届きました。その中にユッコ宛の手紙が入ってます」

「何? 林が」

「封は切ってません。これをユッコに渡すかどうか悩んでます」

「林はオマエの手紙に何を書いて来たんだ?」


「親父さんが多額の借金を作り、林は大学を3年で退学すると書いてました。来年の4月に大洋漁業に就職し、遠洋漁業の船乗りになるそうです。それでユッコに会いたいのだと、僕は勝手に想像しています」

「そんな手紙は読ませたくない。それはパンドラの箱だ! ついこの前も雪子は突然フラッシュバックに襲われて苦しんだ。怖がって泣いている雪子を俺はなだめられなかった。林の手紙なんかとんでもない、俺は不承知だ!」

「まだユッコは立ち直ってないのですか?」


「林はミソギは終わったと思っているかも知れないが、そんなものではない。男と女は違う。いろいろあって、俺も思い知らされた。2年やそこらで立ち直れと言うほうが無理だ。雪子には不幸な事故だ。気丈に振舞っているが、未だに自分を責めている。これ以上苦しめたくはない。手紙は星野の胸に収めておいて欲しい。俺の頼みだ」

「わかりました。そうします。それで親父とは会ってくれますか?」

「星野院長のお招きであれば断れない。雪子の命があるのは院長と星野のお陰だからな。いつも感謝している。日時はいつだ? ただし盆休みは予定が入っている。邪魔しないでくれ」

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