第16話 両親は法人化に反対した

◆ 恋人たちのそれぞれ。


 東京に戻るといつものように雪子の1日は始まった。雑草ボーボーの庭は、オマエひとりじゃ1年経っても無理だろうと、星野がマス研の学生を引き連れて助けてくれた。雪子が田舎に帰る前と同じように、廊下や窓ガラスや庭もピカピカに輝いた。高嶋はひとこと、「秀明斎は元気でいましたか?」と尋ねたが、「はい、秀明斎先生のお茶は~」と言おうとしたら、そんなことは訊いてませんと席を外した。

 古谷から雪子に手紙が届いた。


 …………………………………

 西崎雪子 様

 前略。元気かい? 頑張り屋さんの君のことだから、東京に戻っても忙しいだろうと想像している。

 謝ることや礼を言うことがあって手紙を書いた。住所は塾の名簿を見て知った。


 まず、最初に謝りたい。昨年、秋月さんのことで失礼なことを言ったが、あれは撤回させて欲しい。自分で確かめもせずに身内の言うことを鵜呑みにしていた。申し訳なかった、本気で謝る。許して欲しい。


 次に、秋月さんに会わせてもらったことに礼を言う。僕は来年は医学部の5年生になるが、外科医を志している。秋月さんに折を見て会っていただくつもりだ。アポは自分で取るから君は心配してくれなくても大丈夫だ。


 最後にもうひとつ報告することがある。事故に遭った塾生は主張を撤回した。彼とよく話し合って、僕は個人的に勉強を手伝うことにした。高3だから受験まであと僅かだ。塾ではトップクラスの成績だが、家庭が複雑で精神的な不安を常に抱えている子だ。学力は心配ないが精神面をサポート出来ればと思っている。


 実は、彼は君に憧れているそうだ。母親を知らない子なので、抱きしめて励ましてもらったことが忘れられないらしい。彼からこんな話を聴けたことが僕は嬉しかった。抱いて励ますことを君に命じた秋月さんに感謝する。

 それではまた会おう。


 古谷 潤

 ………………………………… 

 

 秋月のことを少しはわかってくれたのかなと嬉しくなって返事を書いた。星野はバイトの『早稲田学報』の仕事が気に入ったらしく、講義ノートは雪子に任せっきりで企業に関する本を読みあさっていた。


 秋月は時たま癇癪玉を破裂することはあっても無茶苦茶なことは言わず、時々空を見上げてはため息をついていた。雪子が傍にいない毎日が手足をもぎ取られたかのように淋しかった。

「若先生、雪子さんがいないから元気がありませんね」

「いや、元気だ。騒動を起こすやつがいないからヒマなだけだ」、やせ我慢を続けていた。


 ほとんど毎日、シンデレラタイムにふたりは電話した。雪子は大学での出来事や昔の落合村を調べていることを楽しそうに伝えた。古谷から手紙をもらったことも告げた。「そうか、わかった」と秋月は相づちを打ったが少し元気がないように雪子には思えた。忙し過ぎるのだろうか、眠れないのだろうかと心配した。


「雪見障子に紅葉が映りました。陽が高いときは風に吹かれて揺れ動く影がものすごくきれいです。時間が経つのを忘れて見とれています。夜は雨戸を閉めないで暗闇に座ってずっと眺めています。蒼一さんと一緒に見たい…… 秀明斎先生がおっしゃったとおりの光景です」

「僕も雪子と見たいが……」 

「蒼一さん、どうしたのですか? オペで忙しいのですか? ちゃんとご飯食べて眠ってますか?」

「うん、心配しなくてもいい。雪子の声を聴いただけで元気になるから大丈夫だ。そっちはどうだ?」

 秋月は病院の法人化を巡って両親と諍(いさか)いが毎晩続いていることを、雪子には一切伝えなかった。


 歯がゆい距離のためか、不器用な会話ですれ違う夜が多かった。

「蒼一さん、何かとても大きなことで悩んでいませんか? いくら鈍感な私でもわかります。何でしょうか? 力になれないかも知れませんが、お願いです、話してくれませんか? 話してくれないなら、私、戻りたいです。戻って蒼一さんに会います!」

「ダメだ! 雪子の顔を見たら、雪子を抱きしめたら、やろうとしていることを諦めるだろう。雪子さえ僕の傍にいればいいと妥協して挫折するだろう、だから戻って来るな。いつも雪子を子供扱いして、自分は大人だと威張っていたがそうではなかった。はっきり言おう、僕は挫けそうだ。そんなときに雪子と会いたくない、本当に挫けてしまう」


「どうしてです? そんなときこそ傍にいたいのになぜですか? そんなのおかしいです」

「そうではない、ダメだ。わかって欲しい、雪子の顔を見ると他のことはどうでもよくなってしまう。もう少し時間をくれないか。その代わり僕が戻って来いと言ったらすぐ戻って来て欲しい」

「そんな…… 私は傍にいたいのに、イヤです。戻りたいです。傍にいたいです!」

「頼む、今は僕をひとりにしておいて欲しい。もう切るよ、おやすみ、いい夢を見なさい」

「あっ、ちょっと待って」

 電話は切れてしまった。


 薄い眠りの切れ切れに秋月を何度も見た。秋月はなぜ苦しんでいるのか、雪子はわからなかった。話を聞いた星野はあっさりと、

「多分それは病院を法人化するプランがいよいよ動き出したんだ。オレの親父の話では、秋月さんの両親は断固反対だそうだ。秋月さんが来るなと言うなら、会うべきではない、オレはそう判断する。ユッコ、そんなに悲しい顔をするな。秋月さんは絶対に挫ける人じゃない。信じろ! 信じてやれ! カミソリ秋月と呼ばれる男なんだぞ。情けない姿を晒すのは嫌なんだ。わかるだろ?」

「でも、蒼一さんが大変なときだから私は会いたい! なぜ戻って来るなと言われるのかわかりません!」


「女にはわからないさ。男って弱いからなあ…… ユッコに会ったらチューして終わっちゃうかも知れない。ユッコ、とにかく落ち着け。あの人のことだ、何とかする人だ。こういうときこそ信じてやれよ。泣くな、泣いちゃダメだ。泣くなと秋月さんに言われてんだろう。

「でも……」


「頭が古い人間は法人化なんて理解できない。みーんな自分の財産だ、持ち物だと思っている。儲かったら全部自分の金だと考える。雇われている人間の生活なんかまず考えない。ユッコ、わかってやれよ、秋月さんがやろうとしていることは正しいことだ。あと数十年したら、親父の小さな病院だって、小規模の病院同士が集まって経営面だけはひとつの企業体になっているだろう。

 そのためにユッコの学部でも『マクロ経済学・ミクロ経済学』や『法と企業会計』、『生命倫理と法』、『医事法』、『雇用社会の法と政策』なんかが履修できる。会いに行くヒマがあったら勉強しろ。秋月さんに会ってチューされるだけで満足するな。秋月さんを信じてやれ!」

 雪子は星野の言葉でようやく秋月の立場と苦悶が少しわかった気がした。確かに法人化の話は聞いていたが、まだ先のことだと思っていた。オペだけでも大変なのに、病院の経営まで考えなくてはならない秋月を心配した。秋月の役に立ちそうな科目を履修しよう、講義を聴くだけでもいい。やってみようと決めた。


 秋月は病院の法人化に興味と理解を示さない両親を、時間を作っては説得していた。

 質が高い医療技術の提供と維持、従業員の雇用確保と生活の安定、信頼できる外部資本の導入、その対応には法人化することが必須要件だと具体的な数字をあげて説明したが、賛同は得られなかった。


 もし大きな医療法人グループが福岡に進出したら、この秋月総合病院は短期間で廃墟となる可能性がある。いつまでも個人病院でいられる時代ではないと言ったとき、

「蒼一はアカになったのか? 赤旗でも振り回したいのか? 俺が大きくした病院をなぜ医療法人という組織にしなければならないのだ? この病院は秋月家の財産だ。それをお前が引き継ぐ。当たり前のことだ。何が不服だ? 今のままで十分だ」

 父の院長は息子の説得に耳を貸そうとはしなかった。

 母の晴子は、毎年百万円以上をデパートの外商部で使える特権を手放したくなかった。給料制ですって? 冗談でしょ! この病院は私の父が開業したものよ。儲かっているから欲しいものを買ってどこが悪いの? 夫に相手にされなくなった私に贅沢以外に何の楽しみがあるっていうのよ? おまけに蒼一はいい歳して小娘を追い掛け回している。晴子は雪子に、自分が失った若さを重ねて嫉妬していた。


「法人化はどうせ雪子さんが蒼一に入れ知恵したのでしょう? 今時の女子大生のやりそうなことだわ」

 さすがに秋月は顔色を変えた。

「雪子はこの件にはまったく関係がない。大学で経営学や会計学を学んで僕の役に立とうとしているだけだ。母さん、雪子をそんなふうに見ないでくれ!」

 母と息子は決裂してしまった。



◆ 全てを失った秀明斎の気遣い。


 秀明斎の茶道教室は水面下で吹き荒れている法人化の嵐とは無縁で、安らぎの茶を求める人々が温かくて居心地がいい空間を求めて訪れていた。秋月も折れそうな心を抱いて秀明斎の茶に救いを求めた。


 ある夜、茶を求めて憔悴した顔の秋月が秀明斎のもとを訪れた。

「秋月先生はまだお幸せです。雪子さんが無傷のまま東京にいらっしゃるではありませんか。私が母のもとを飛び出したときは独りでした。それに比べれば秋月先生はまだ何も失ってはいません。ご両親の理解が得られなければ、雪子さんとあの離れで暮らして、雪子さんの卒業を待てばいいではありませんか。

 秋月先生には雪子さんがいるのです。何を恐れるのです。全てを失ってからでは遅いのですよ。その覚悟を持ってもう一度お話されてはいかがですか。私は未だに失ったものへの未練を断ち切れてはおりません。

 そして今はどんなに辛くとも雪子さんを呼び戻してはなりません。雪子さんは傷ついて倒れてしまうでしょう。秋月先生、そうなれば雪子さんも失うことになりますよ」


 秋月もそう思っていた。母から法人化を唆(そそのか)したと罵倒されたら、雪子は驚き悲しんで、そう思われた自分を責め、俺のために身を引くと考えるかもしれない、そういうやつだ。秋月は秀明斎にもう一服所望して、爽やかな笑顔で礼を述べた。


 シンデレラタイムの電話で雪子は謝った。

「この前はごめんなさい。福岡に戻るのはやめました。会いたいのを必死で我慢します、戻りません。こんな私が戻っても蒼一さんの役には立ちません。私がいたら足手まといになります。蒼一さんが何を考えているのか、私にはわからないけれど、蒼一さんを信じています。もう泣きません。でも戻って来いと言ってくれたらすぐ戻って来ます」

 秋月は静かに聴いていた。

「雪見障子に映える紅葉がきれいだって? 雪子の離れに転がり込んでもいいか?」

「ふぁい! ふぁい! 大丈夫だって言ったじゃありませんか。ん、忘れちゃって、いつでも待ってまーす」


 これだけ聴けば秋月は十分だった。両親がどうしても個人経営に拘るなら、俺は家を出ると脅かそう。それを拒否されたら雪子の所へ行ける。いい話だなあと思えた。ただ、一介のフリーランスの医者になればチーム全員を連れては行けない。しかし、心臓手術ではそこそこ名が売れた俺だ、何とかなるさと考えた己の甘さに気づいた。

 かつて雪子は『人は起きて半畳、寝て一畳、天下とっても二合半』と笑った。贅沢な望みはするな、例え天下を取ったとしても1畳もあれば寝れるし、米の二合半もあれば十分だと伝えた。身の丈で考えろと言ったのだ。誰も不満を抱かないパーフェクトな解決策などあろうはずはない。己の身の丈でやってみるかと考え直した。



◆ JUNのネクタイに託した願い。


 いつものシンデレラタイムで雪子は報告した。

「初めて青山に行きました。いつもウロウロしている高田馬場や早稲田や落合とはまったく違うのでびっくりです。夜なのにカッコいい人がたくさん歩いてました」

「どうしてそんなとこに行ったのかい?」

「ふふん、星野さんの妹としてお手伝いに行きました。青山の『VANジャケット』というすごく人気がある会社の営業部長さんを取材したんです。有名な石津謙介さんの会社です。ちょっと前までは『VAN』と印刷された紙袋を持って歩くのが流行ったらしいです。

 それで、バイトのお金が残っていたので社員割引してもらって、『VAN』のお兄さん格の『JUN』でプレゼントを買いました。挫けそうな蒼一さんの首を締めます。待っててくださいね」


「はっ、挫けそうな僕の首を締めてどうする気だ? 挫けてしまったらキスだって出来ないじゃないか。何を企んでる?」

「何も考えてません。以前、首だけの蒼一さんはいらないと言いました。でも、首だけでもいいかなって思うようになりました。私が首を締めると首の上の頭は余計なことは考えられません。蒼一さんは思ったとおりの道を選んでください。そして私のことを忘れないでください」

「うーん、何だぁ? 余計なことは考えられない? 自分を忘れないでくれ? 雪子は思ったよりヤキモチ焼きか?」

「そうです。今頃わかったんですか? ちょっと鈍感過ぎませんか」


 雪子が無理に明るく振舞っているのはわかっていた。コイツめ、俺が迷い迷ってアリ地獄に落ちそうなのを心配して、思ったとおりに進めと言っているのだとわかっていた。

「おい、13階段のロープなんて送ってよこすなよ」

 ふたりは遠く離れた地で笑っていた。


 数日後、JUNのネクタイが届いた。遠目には黒に見えるがいぶし銀で、よく見ると黒の小さな星とハートが織り込まれている。カードが添えられていた。

「この星は東日本でしか見えない星ですが、星が輝く夜は、蒼一さんが元気でいてくれますようにとお願いしてます。ハートは私の心です。受けとめてくださいますか…… 雪子」

 雪子のカードに涙した。あの泣き虫が俺まで泣かしてどうするんだと…… 嬉しくて泣いた。


 いつものストライプのタイを外し、雪子から贈られたネクタイを締めたが、誰も気づいてくれなかった。やっと3日めになって山川が、

「若先生、今日は葬式ですか?」

「葬式の予定はないが、なぜだ?」

「だってネクタイが黒っぽいじゃないですか」

「これは雪子から贈られたものだ。黒ではない。ほとんど黒に近い銀だ」

「えーっ、そう言えば何か模様があります。ついに雪子さんに首根っこを絞められましたね」

 山川は楽しそうに笑っていた。


 山川は秋月が院長夫妻と遣り合っているのを何度も耳にしていた。院長夫人は雪子を、息子を誘惑して誑(たぶら)かしたと吹聴していることも知っていた。強引に突き進んで行ったのは若先生なのに、どうしてそう思われるのか不思議だった。若先生は20歳そこそこの小娘に引っかかるほどバカではありませんよと言いたかった。


 秀明斎の茶が喉を潤し、やっと人心地ついた秋月に、

「どうやら秋月先生は落ち着かれたようですね。光風霽月(こうふうせいげつ)のご心境ですか。先生の心が決まると雪子さんも落ち着かれるでしょう」

「いえ、雪子の方が僕よりも先に鎮まりました。僕はあれもこれもと欲張って意馬心猿(いばしんえん)の心でした。アイツはいざとなったら男の僕よりも度胸があります。教えられました。

『これで首を締めます。締められた首は周囲に惑わされることなく、本来の意思を貫けるはずです』と、ネクタイを贈って来ました。それで迷いが断ち切れました。同時に一生頭が上がらないかと思いましたが、ほっとしました。雪子の気持ちがわかりました」


 秀明斎は笑い出した。

「それは愉快です、秋月先生ともあろうお方が雪子さんに教えられましたか。女人は男では考えられないほど肝が据わることがあります。それに引き換え、男はああだこうだと考えて一歩も先に進めません。痛みに耐えて子を産む女人と種付けしか出来ない男との違いでしょうか……」

「本当にそうです。もし先生にお許しいただいたら一献差し上げたいのですが。あいにく雪子がいないので何も用意できませんがいかがでしょうか」

「喜んでお受けいたします」

 秋月と秀明斎は何を話すわけではないが、部屋の明かりを消してカーテンを開き、神無月の十六夜の月を眺めて盃を交わしていた。



◆ 雪子は『落合、心の旅めぐり』を創った。


 雪子は秋月に役立ちそうな講義を受講してはノートを作っていた。その傍ら落合地区の明治・大正・昭和初期のありさまに興味を持ち、メモ帳片手に赤い自転車で走り回っていた。『落合・心の旅めぐり』と勝手に名付けて、戦争の傷跡が残っている崖や藪、戦災で焼け落ちたままの屋敷跡を巡った。丘の上は戦災に遭わず殆ど無傷で残っているが、崖下の神田川が流れている下町は焼夷弾で全焼してしまった。戦災被害について、風向きと民家の密集率をもとに独自に検証した文を書いた。


 そして「落合文士村」に関して次の文を載せた。

 のどかな農村であった東京府豊多摩郡落合村に、大正から昭和初期にかけて共産主義者やアナーキスト、プロレタリア作家、前衛芸術家たちが住み着いて「落合文士村」を形成し、多くのプロレタリア文学作品が生み出されていった。しかし戦雲急を告げ、交流は弾圧されて第二次世界大戦前には文士村は消滅してしまった。だが文士たちの住まいは今でも残されており、往時を偲ぶことが出来る。当時の出来事を振り返ることによって、あの戦争がどうして起こったのか、なぜ国民がたくさん死ぬまで戦争は続いたのか、今を生きている私たちは検証して、それから学ばなければならないと結んだ。

 また、林芙美子、吉屋信子、尾崎一雄、丹羽文雄、佐伯祐三、中村彝、早稲田大学と深い関わりを持つ會津八一などの住居や坂の名と謂れなどをスケッチして挿絵に使った。

  

 雪子の『落合・心の旅めぐり』は、高嶋家出入りの魚屋の隠居に取材した縁で、町内会長の目に止まり、印刷されて回覧板に挟まれ、町民に配布された。新宿区役所観光課の担当者がそれに興味を持ち、増刷されて区役所の窓口にも置かれた。

 秋月は送られてきた『落合・心の旅めぐり』を見て微笑んだ。手描きのスケッチが小学生の絵日記のようで、読む人にほのぼのとした温かみを与え、次のページを捲らせる。現場を検証して雪子なりに自説を述べて、大学2年生としては立派なものだと感心した。


 秋月は思った。

 戦後生まれの雪子は戦争の悲惨さは学べても、当時の国民の無念さは理解できないだろう。俺は春日原(かすがばる)という所に疎開していたが、丘に登れば小倉や戸畑方面の空が真っ赤に焼けているのを幾度も見た。終戦間際の昭和20年6月19日の夜中から翌日にかけて、200機以上のB29による福岡大空襲は忘れられない。雪子が『落合・心の旅めぐり』で述べた丘の上と下の戦争被害の違いは、この国ではいたるところにあっただろう。それに眼をつぶり、何事もなかったかのようにこの国は復興した。

 雪子、キミは言っていたね。本当に悲しいことは人には話せないと、そのとおりだ。戦後生まれのキミが綴った記録を俺は受け止めよう、許そうと、秋月はページをめくった。


 高嶋家の敷地は、江戸時代は酒井という殿様が愛妾を住まわせた土地らしいと文中で推理していた。秀明斎先生の「情念の雪景色」はその愛妾が織りなす恩讐の涙なのだろうか。

 雪子は雪子の世界で背一杯頑張っている様子がよくわかった。あれ以後は戻りたいと駄々をこねることもなく、いつも明るく俺の話を聞いてくれる。だらしないのは俺だとよくわかった。


「雪子、読ませてもらったよ。よく出来ていた。合格のハンコをあげるよ」

 秋月から褒められた雪子は嬉しそうに、

「林芙美子邸には見事な竹林があるのですが、竹林よりも薔薇です。画家の旦那様は薔薇づくりが趣味で、薔薇の絵をたくさん残されています。梅原龍三郎さんの薔薇の絵は林邸の薔薇なんですって。知ってましたぁ?」

「いや、知らない。梅原龍三郎は薔薇と富士山の絵を画集で見たことがある。力強い絵を描く人だろう」

「そうです。あと画家といえば佐伯祐三さんの家はすごく素敵です。アトリエはトンガリ帽子の三角屋根で、夜はお月様が飛び降りてきそうな大きな窓があります。光の中で自分を見つめて絵を描かれた方だと思います。家の外側は水色のペンキ塗りで、すごくロマンチックな洋館なんです。蒼一さんに見せたいなあ」


 いつも雪子の話は生き生きして、無理しているとわかっているが秋月を元気にした。コイツの健気さが嬉しい、あの泣き虫を早く絡め取ってキスしたいと、受話器を置くたびに苛立たしい距離を恨んだ。



◆ 秋月は父に最後通牒を突きつけた。


 毎晩、院長室で父と息子は話し合ったが、母の晴子は同席を拒んだ。

 秋月は法人化するメリットとデメリット、秋月家の今後予想される収入のシミュレーションを提示した。次に、東京女子医科大学から、心臓外科医 秋月蒼一をスカウトしたいと書簡が届いたことを告げ、同封された契約書類を父に見せた。秋月を助教授待遇で迎え、学生に講義する傍らオペの最前線で執刀して欲しいというものであった。その報酬は院長が驚いて数え直したほどで、ゼロがひとつ多かった。しかも必要であれば、蒼一チーム全員を受け入れるという付帯条件が添えられていた。


 この話のカラクリを秋月は見抜いていた。オペの最前線で成功例を重ねることで、大学と病院の広告塔になれということだ。オペのテクニックを盗めば俺と俺のチームはお払い箱だ。それを秋月は読めたが、父はどう読むのか興味があった。法人化に同意するか、東京女子医大のスカウトを承認するか、どちらかを認めてもらえない場合は秋月家を出奔すると宣言した。


 父は息子に尋ねた。

「家を出てどうするんだ? 東京に行って雪子さんと暮らすのか?」

「そうです、雪子にやっかいになります。雪子は働いて僕を養う覚悟をしています。雪子はこの病院や若先生の僕には興味がありません。父さんはわかってますか? 去年の幹事長のオペは雪子の励ましがなかったら、自信がなくて出来ませんでした。あのとき、僕は得体が知れない重圧に押し潰されそうだったのです。そのとき雪子は、僕が温かい飲み物を選んだことでオペが控えていると気づきました。

 そして、自分自身を信じてくださいと励ましてくれました。この病院の明暗を分けたあの手術を成功させたのは僕ではない、雪子です。僕はそう思っています。雪子は、僕がオペの前には生ものや冷たいものを摂らないことを短時間でわかったようです。こんなことを父さんは知ってましたか、わかっていましたか?」


 息子の苦悩に気づかないふりを続けていた父は、窓辺に視線を移した。「若先生という看板に悩んだとき高校生だった雪子に出会いました。面白い子だった。雪子は、真夜中まで働いて冷凍食品を食べるのですか、可哀想ですと泣いてくれました。それからです、アイツが真面目に料理に興味を持ったのは……

 僕はスーパーマンではない。病院の看板を背負って悩み、自分を見失い、挫折を重ねて苦しむ日々がありました。そんなとき、雪子はにっこり笑って、大丈夫ですよと励まし続けてくれた。雪子は僕の大切な人で僕の全てなんだ、父さんこれだけはわかってくれ!」


 父は息子に言った。

「普通の家庭であれば、夜中まで働いている息子に母親が温かい食事のひとつも、いや、お疲れさんと声をかけるだけでもいい。それが常識だろうがそれもない虚ろな家庭を作ったのは私だ。ただ、私は妻のように雪子さんに敵意を持ってはいない。若いのによく出来た娘さんだと思っている。問題は妻だ。あれは蒼一が好きになった女性であれば必ず猛反対するだろう、それは私の罪だ。お前の提案をじっくり考えてみる」

「父さん、もうひとつだけ聞いて欲しい。雪子は法人化には一切無関係だ、相談もしていない。父さんはこの病院の院長として僕だけではなく、他の人の意見も聞いて欲しい」



◆ 秋月の心はようやく静まった。


 秋月の心はようやく鎮まった。父には言うべきことは告げた。あとは院長としての父の決断だ。母とは暫く決別するが、何と言っても親子なのだから時が経てば理解してくれるはずだと安易に考えた。

「雪子さんがいないのに若先生は上機嫌ですねぇ。どうなさったのですか? 新しい恋人でも見つけたのですか」

「まあそんなところだ」

「今何とおっしゃいました? ぬけぬけと何を言っているのです! お坊っちゃま!」

「はははっ、ついに出たな、お坊っちゃまが。僕の悪さがバレたとき、山川くんは赤鬼のような顔をして『お坊っちゃま、何をしているのですか』と叱ったなあ。あれから15年以上経ったが、山川くんから見たら僕は変わっていないのだな」

「いいえ、そんなことはありません。お坊っちゃまは立派になられました。でも、物陰でよく泣いていたことは忘れられません。満点の答案でないと院長先生から叱られてましたよね。今だから言いますが、可哀想に思って80点を100点に改竄したことがあります」


「ああ、よく覚えている。手を洗って戻ったら80点が100点に変わっていて驚いた。あれは山川くんの小細工だったのか」

「50点だろうが80点だろうが、そんなのはどうでもいいじゃありませんか。こんな病院なんか飛び出して、バイクを乗り回して不良になれと思いました。でも若先生は度胸がなくて、結局こんなに立派になってしまって……」

「山川くん、心配かけてばかりで悪かった」

 秋月は山川の肩に手をかけて涙ぐんでしまった。こんなスタッフを置いてはいけないと思った。

 

「僕は山川くんやチームスタッフに支えられている。僕一人では何も出来ない。これがわかったのは雪子に出会ったからだ。母がどんなに反対しても雪子を妻にしたい。山川くん、雪子を支えてくれるか?」

「当たり前です。私は雪子さんが好きなんです。お坊っちゃまにはぴったりです」

「そうだな、ありがとう」



◆ 女将が言う雪子の素性とは


 篠崎と一献重ねたくなった秋月は篠崎に電話をし、近々どうですかと誘った。

「ああそうですね。ところで西崎はどうしてます? この前、『落合・心の旅めぐり』を送って来ました。西崎なりにやっているようですね。お会いするのは明日だったらいいですよ」

「それでは車を寄越します。私も久しぶりに飲みたいので、楽しみにお待ちしています」


 連れて行かれた所は老舗割烹『一柳』だった。篠崎はこういう場所へ初めて足を踏み入れたので、落ち着かなかった。部屋に案内されると、すでに秋月は一献傾けていた。

「やあ秋月さん、久しぶりです。西崎の『スクール紹介』のお陰で、朋友学園の志願者が高校は前年比2.3倍、中学が2.1倍になりました。西崎サマサマです」

「それは篠崎さんのご指導でしょう。密かにあの日は雪子と泊まりでドライブする計画をしていましたが、行けませんでした。今でも篠崎さんを恨んでいます」

「まあまあ、怒らないでください。これも全て、み仏のお導きですから」

 篠崎が、み仏の導きなど宗教がらみのことを言うときは、ろくなことがないのを思い出した。


「篠崎さん、お呼び立てしまして申し訳ありません。雪子のことを知りたかったのでここにしました。ここは雪子の亡くなった父親が足繁く通った店です」

「はあ? こんな所にですか」


 女将がぶすっとした表情で現れた。型通りの挨拶を済ませ、

「若先生は雪子さんの何が知りたいのですか。探偵事務所のような質問には答えませんよ」

「雪子の父親のことを聞きたいだけだ。雪子は幼い頃この店に何度も来たのだろう?」

「そうですけど、雪子さんのお父さんを悪く言う人はひとりもいません。亡くなられた後、奥様が幾つかあった家屋敷を処分して、縁があった方々にまとまったお金を渡されたと聞いてます。雪子さんのお父さんは、博多どんたくのときは木綿の羽織を裏返しに着て、絹地に描かせた浮世絵を見せるような粋な旦那さんでしたねぇ」

「女将も惚れたのか?」

「ええ、まあ。女遊びは呆れるほどでしたが、きれいな遊びでした」


「どのような仕事をなさっていたのだろう。知っていれば教えて欲しいが」

「いえ、仕事のことは一切お聞きしていません。雪子さんは50歳近くなってのお子さんなので、眼に入れても痛くないとおっしゃってました。ある夜、懐に丸い小さなものを抱いてお見えになりました。子猫かと思ったら雪子さんでした。おむつはないのか、ミルクはないのかと言われて、そんな物はありません。慌てて浴衣を解いておむつを縫い、薬屋を叩き起こしてミルクを買いました、みんな昔の話です。女将は遠くを見つめ、20年前の追憶を懐かしんでいた。


「赤ん坊の泣き声は秘事を台無しにしますから、雪子さんが泣き出すと抱っこして柳橋から春吉橋まで何回も往復したものです。若先生が雪子さんを連れてらしたときは驚きました。真っ白な肌に濡れた大きな眼、ちょっと丸い鼻とおちょぼ口、赤ん坊のときと同じです」

 秋月と篠崎は箸を休めて、女将の話に聞き入っていた。


「お気の毒だったのは、雪子さんが嫁に行かなくても一生食べていけるだけのお金を『山一証券』の投資信託になさったことです。『山一証券』に取り付け騒ぎが起こり、どんなに大金を投じていても確か100万円でしたか、それしか戻ってこなかったらしいです。その1年後に亡くなられたと記憶してますけど」


 そうか、そんなに父親から愛されて雪子は育ったのか。病弱な雪子が打たれていた保険が効かない注射は、5回も注射したら標準家庭の1カ月の収入とほぼ同額だ。雪子が器に詳しく、完璧なテーブルマナーと器の知識を持っていることもやはり父親だったのかと納得した。

「若先生、雪子さんのことを聞いてどうしょうと言うのです? 私は雪子さんのおむつを何回も替えました。どうぞ教えてくださいよ。今までと同じように遊んだ挙句に捨てるというのでは私が許しません!」

「女将、ここに雪子の担任だった先生がいらっしゃるから、少し言葉を遠慮してくれないか。僕が女たらしの遊び人に聞こえるだろうが」

「あら、違いますか。私にはそう見えましたよ」

「そうではない、僕は本気だ。両親に雪子と結婚すると言った」


 篠崎が秋月の言葉を遮って、

「秋月さん、それはまだ早いでしょう。西崎は大学2年生ですよ。それはみ仏の御心(みこころ)に添いません。私は秋月さんの掌の上で遊ばせてくださいとお願いしたはずです。大人の事情を押し付けずに、西崎の欲を育てなさいとも言いました。西崎が様々な出会いと別れを経験し、秋月さんのもとへ戻って来たら迎えてください、必ず戻って来ると言いました。秋月さんは納得したではありませんか、何を焦っているのです。何か事情があるのですか? 私に話していただけませんか」

 しばらく秋月は無言で思案していた。


「篠崎さんには負けました。私は病院を法人にしたいと両親を説得しています。東京の医科大学からスカウト話も舞い込んでいます。両親には二者選択を迫っていますが、私の気持ちは法人化が実現しない場合は東京で雪子と暮らそうと考えています。私はフリーランスの医者として働きます。そうなった場合の心残りは、今まで私を支えてくれたチームスタッフに申し訳ないことです。病院の法人化と雪子とは何の関係もないことはわかっています。だが、眠れないままに考えていると、私にとって雪子はどんなに大切かと思い知らされました。もう雪子と離れて暮らすほどの精神力はありません。

 篠崎さんはまだ待てとおっしゃるが、私は待てません。私には雪子が傍にいてくれるだけで支えになります。雪子が必要なのです」

  

 篠崎は手酌で盃を傾けながら考え込んでいた。

「西崎はどう考えているのです?」

「正式には言ってません。冗談めかして嫁に来いとは何回も言いましたが、笑ってました。病院を飛び出して転がり込んでいいかと聞いたら、大丈夫ですと言ってくれましたがどこまでわかっているのか、不安な部分もあります。頑張るだけでは暮らしていけないことをわかっていないかも知れません」

「あなたの気持ちはわかりました。いいですか、私は秋月さんにふたつのお願いをします。ひとつは西崎を幸せにしてください。ふたつ目は大学は必ず卒業させて、あなたとは関係がない仕事に就かせてやってください。これが私の願いです」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る