第14話 山川が仰天した真相
◆ 8月15日(土)、秋月は診療現場に戻った。
「おはようございます。あらっ、見事に日焼けなさってますねぇ。海ですか? 山ですか? それでご機嫌は直りましたか?」
無遠慮な山川の質問に「海だ。そこで子守をしていた。あれはまるっきり子供だ、裸で波と遊んでた。僕は疲れた」
疲れた? 山川はクスッと笑って立ち去った。
秋月は診療現場に戻ったが、腹を立てた。盆休みだというのに、どこからこんなに患者が来るんだ。救急指定にもかかわらず、腹が痛い、喉が痛いと訴える。その程度で俺の所に来るなと怒鳴りたかった。そもそも秋月は面倒な問診を嫌って外科医を志望した。内科の診察をしているうちに気が滅入ってしまった。
「内科の佐野先生や近藤先生はどうした? 姿が見えないようだが、あの先生方がいれば僕は不要だろう」
「おふたりは旧盆で帰省なさってます。本日の先生方は田舎がない方ばかりです。観念して診療してください。でも、暗くなったら雪子さんが浴衣でお見えになりますよ」
「なぜだ? 別れたばかりなのになぜ会いに来る?」
「お気に召さないならいいですよ。私の弟にお相手させていただきます。大濠公園で花火大会があります。若先生の名前でお誘いしました。来てくれるそうです」
「ちょっと待て。山川くん、僕の名を使って雪子に電話したのか? 今まで何度もしたのか?」
「いいじゃありませんか。この前は雪子さんをいきなり着の身着のまま連れて行かれたでしょう。翌日お母様から私に電話が入りました。ご心配なさらないようにと申しあげました」
あーっ、山川は何と話したのだろう。秋月は不安になった。
午後7時、雪子は秋の草花が描かれた着物姿で現れた。顔に日焼けの跡はなく白い肌は健在だった。襟足と喉元に残るアレの跡を山川から見られてしまったが、本人は知る由もないのでにっこりと笑顔で挨拶した。秋月が顔を赤くして視線を逸らした姿を山川はしっかり見ていた。
雪子が「お支度ができるまで待ってます」と言ってロビーに降りて行ったあと、
「悪戯されたのではありませんか。雪子さんはご存知ないようですが、明後日から教壇に立たれるのでしょう。喉元はいくら何でもまずいでしょう。ヘパリン軟膏を渡しますか、それともマッサージしましょうか」
秋月はなんともバツが悪い顔をした。
山川が雪子に「その痣はどうされたのですか」と聞くと、「ムカデから噛まれました」と明るい声が返ってきた。
「痒いでしょう? ムカデは跡が残りやすいので、薬を塗ってガーゼの上から絆創膏を貼りましょう。あとどこを噛まれたの?」
「あっちこっちです。でも蒼一さんは全然平気だったんです。不思議ですよね」
「それはね、男の人は皮膚が厚いの。だからムカデは皮膚が薄い若い女の人が好きなのよ。ムカデもより好みするのね」
「へぇー、知りませんでした。山川さんはすごい! なんでもご存知なんですね。尊敬します! ありがとうございました」
こうすると痣が消えると蒸しタオルを当ててマッサージをしてやった。家でやってみますと雪子は喜んで礼を言った。
「雪子さんがお待ちかねです。あのままで塾に行かれたらお気の毒だと思いまして、処置しておきました。ムカデは若い女の人が好きだと教えました。それでは行ってらっしゃいませ」
秋月は恥ずかしさを隠すため気難しい顔を装って出て行った。
大濠公園にはそぞろ歩きで行った。飲食物や射的などの露店が並び、蝦蟇油売りやバナナの叩き売りに人集りがしていた。途中から雪子は遅れがちで、足を引きずっていた。どうも妙な歩き方なので足元を見たら、鼻緒に血が滲んでいた。下ろし立ての下駄の鼻緒に食いつかれたのだろう。辛そうな顔をしているので抱き上げてやったら、「わあ、花火がすごくよく見えます」と嬉しそうに喜んだ。このバカ、痛いだろうに何をはしゃいでいるのかと呆れた。
抱き上げたまま人混みを縫って木立の陰に座らした。見事に右足の第1趾と第2趾の間の皮がずるりと剥けていた。ハンカチを裂いてしっかり縛って応急手当をした。
「歩けるか? この程度で人は死なないから我慢しろ」
「ふぁーい、大丈夫です」
雪子は笑っていた。そのとき、
「ユッコちゃん? そうでしょ?」
声をかけた人がいた。
「あっ、おばさん! ご無沙汰してます」
「まあ、すっかり大人になって。元気だったの?」
「はいお陰様でこんなに元気です。みんなは元気ですか」
「雪子、この方はどちら様なのか?」
「はい、ケンタのおばさんです」
「林くんのお母さんか?」
「そうです。小さい頃からずっとお世話になりっぱなしです」
健太の母は、雪子が抱き上げられたまま人混みを縫い分けていたときに気づいて、後を追った。
「はじめまして秋月蒼一と申します。雪子の婚約者です。どうかお見知りおきください」
「えーっ、ユッコちゃん婚約したの? それはそれは、おめでとうございます。でも水臭いわね、ひとこと言ってくれてもいいじゃないの」
「おばさん、これにはいろいろと事情があって」
「ケンタは知ってるの? ユッコちゃんが婚約したって」
「いえ、知らないと思います。詳しい話はあとで……」
秋月が分けて入り、
「申し訳ありませんが先を急ぐもので失礼させていただきます。雪子、行こう」
雪子の肩を抱いて人混みに紛れ込んで行った。残された健太の母は、秋月? どこかで聞いた名前だと思ったが思い出せなかった。
「どうしてケンタのおばさんにあんなことを言ったんですか、困ります。どう言えばいいんだろう、あーあ……」
「心配するな、本当のことを言ったまでだ。林くんのためだ。雪子を諦められる。彼が過去の過ちに捉われるほど不幸なことはない」
「なぜ、そう言うのですか」
「彼に限らず、人は過去の過ちから脱却することも必要だ。強すぎる呵責の念は人を悲傷にする、そう言いたかっただけだ」
「私、帰ります! 帰らせてください」
「いや、待ってくれ。雪子の恐怖や苦しみを僕は知っている。彼だね、雪子が怯える原因は。何もなかったのだろう、許してあげなさい」
「嫌です。許せません! あんなことをするなんて、するなんて。私は必死で暴れて骨折しました」
両眼から瞬く間に涙が溢れ、ポタポタと下駄の鼻緒を濡らした。
「どうにも出来ないと思ったので、先生、ごめんなさいと舌を噛んで死のうとしました。そしたらケンタは静かになりました。怖くて、怖くて、許せません、絶対に許しません! なぜケンタが突然あんなことをしたのかわかりません。だから許しません。絶対に許せません!」
雪子はいつまでも泣いていた。遠くから見ると痴話喧嘩にしか見えなかったが、秋月は背を向けた雪子を抱きしめたまま無言で立ち尽くしていた。タクシーを拾い、ふたりは病院に戻って来た。
夜勤の山川がふたりに気づいた。
「何をしたのです! 雪子さんはこんなに泣いてるじゃありませんか。若先生は離れてください。私が宥めますから」
山川は婦長室に連れて行き足の手当てをして、雪子を優しく抱きとめた。
「泣きたいときは泣けるだけ泣くのよ。私がついているから安心してね」
雪子はずっと泣きどおしだった。
「どうしたの、若先生と喧嘩したの? 何かされたの? 恐かったんでしょう?」
雪子は首を振った。
「違います。蒼一さんではありません。私が悪いんです。ケンタが、ケンタが……」
「いいのよ、何も言わなくても。男は勝手なんだから、たくさん泣いて忘れましょうね」
ケンタという名が雪子の口から漏れたとき、山川は思い出した。雪子を特別室で面会謝絶にしたとき、受付で面会させてくれと幾度も頭を下げて頼んでいた青年がいた。確か、幼馴染でハヤシケンタと名乗っていた。あの青年は雪子さんを若先生に取られそうで何かしたのか? まあ、こんな小さな体で無事に逃げ果せたかと思うと、若先生はなぜそんなことを問い詰めるのか、どうして雪子さんを信じてあげないのかと、完全に誤解してしまった。
ようやく泣き止んだ雪子を連れて、秋月の部屋を訪れた山川は、
「自分のことは棚に上げて雪子さんを虐めないでください。今のままの雪子さんでいいじゃないですか。何か不満がありますか? 若先生は自分勝手です!」
腹立ちまぎれにドアをバタンと閉めて、山川は走り去った。秋月は山川の怒りの原因がまったく理解できなかった。
「雪子を苦しめる気はなかった、思い出させるつもりもなかった。林を許して欲しいと思っただけだ。だから林の母親に婚約者だと言った。わかってくれるか? キミを守るためだ。僕は雪子を、そして林も責めてはいない。ごめんなさいと僕に謝って死のうとした雪子を一生大切にする。林を許すことは出来なくても忘れてあげなさい、僕がいるじゃないか。ふぁいと言ってごらん」
秒針が刻む金属音だけが響く部屋に時間だけが過ぎていった。突然「ふぁい」と返事がした。秋月は抱きしめて優しくキスして、「今度はいつだ、いつ会える?」と笑った。
林とのことはいつだったのか?
山川が婦長室に雪子を連れ去った後、骨折したと聞いたのが気になって星野に電話した。
「ああ、星野いたのか、ちょっと教えてくれないか」
「何です? 珍しく秋月さんから電話をもらったと思ったら尋問ですか?」
「いや、そうではない。雪子が骨折したことを知っているか?」
「ああ、それは去年のことでしょう。えーっと、9月の後期授業が始まったばかりのときでした。ちょうど大隈講堂に機動隊が突入した日なのでよく覚えています。大学指定の診療所の前で、何だかババア臭い膏薬をベタベタ貼られて湿布薬の袋を抱えて、包帯グルグルでした。そのことですか?」
「そうだ。どこを骨折したと言っていた?」
「えーっと、手の甲とか? 確か左手でした。階段から転げ落ちたとか言ってましたが、違うと思いました」
「なぜだ?」
「階段から転げ落ちたにしては顔に傷がないし、庇い傷も見当たりませんでした。階段から落ちるときに左手で掴まろうとしますか? 普通は右手でしょう。左手が硬い物にはさまれたか、内側にグイッと曲げられたか、どちらかでしょう。それから全身打撲がありました。歩くのもやっとで辛そうでしたから。1週間ぐらいで元気になったので気にしませんでしたが、それが?」
「いや、いい。星野はどうして医者にならなかったのか? その観察眼は確かだ。よくわかった。ありがとう」
電話を切った後、あんなグリズリーから子リスがよく逃げ出せたものだと秋月は戦慄した。雪子の怯えを少しづつ忘れさせてあげよう、そう思った。
◆ 8月16日(日)、ユッコ、オマエの心はどこにある?
林健太の母は半信半疑で考え込んでいた。夜遅く戻ってきた健太に、
「今晩、大濠公園の花火大会でユッコちゃんと会ったけど、何だか気になるの」
「何? かあちゃん、ユッコと会ったって?」
「うん、ユッコちゃんなんだけど、背が高くて痩せた男の人がいて、自分はユッコちゃんの婚約者だって言ったの」
「はあ? そんなバカな、ユッコは20歳になったばかりの学生だぞ。それはかあちゃんの聞き間違いだ!」
「でもはっきり聞いたのよ。その人は秋月さんと言っていた」
「秋月?」
「アンタ、知ってるの? その秋月さんって人」
「秋月はユッコの家庭教師だった男だ。秋月総合病院の跡取り息子で心臓外科医だ。冷徹な男でカミソリ秋月と呼ばれて嫌われている。それでユッコはかあちゃんに何か喋ったか?」
「婚約したことをなぜ知らせてくれなかったのと言ったら、これにはいろいろと事情があってと、ユッコちゃんは話したそうだったけど、秋月という人がユッコちゃんを引っ張って行ってしまったの。婚約者だなんて本当かね?」
「本人がそう言うなら本当だろう」
「最初はね、女の人を抱き上げたまま人混みを縫っているカップルを見て、新婚さんかと見たらユッコちゃんにそっくりなので後を追ってみたの。女の人が足を怪我したようで、木陰で男の人が布を巻いていた。そのとき花火で明るくなって、絶対にユッコちゃんだとわかったの」
「かあちゃん、ずっと見てたのか?」
「あの人はユッコちゃんを好きみたい。そう見えた。アンタ、聞いてんの?」
「ああ、わかった。もういい」
健太はベッドに倒れこんだ。ユッコ、なぜ話してくれない? だが自分のしたことを考えると何も言えなかった。ユッコが秋月から愛されていることはわかっている。秋月がユッコを裏切ることはないだろうが、ユッコは幸せになれない。そんな不安がいつも過る。ユッコ、オマエの心はどこにある?
塾の終業後、古谷は更衣室から着物姿で出て来た雪子を見て驚いた。
「西崎さん、その格好は縁日へ行くのか、デートでなければ僕もついて行っていいか?」
「すみません、茶道の半東に行くんです」
「なに? この時間から茶道教室に通うのか、そのハントウって何だ?」
「東京で茶道の先生の離れに住んでいるので、そのご縁で半東を努めることになりました。すみません、時間がないので失礼します」
雪子は着物の裾を持ち上げ、足元はスニーカーで首からポシェットをぶら下げ、慌てふためいて駆け去った。
「おい、ちょっと待て、なんだアイツ? ふーんお茶か」
秀明斎の指導は好評で、病院内には茶道クラブが誕生した。また秀明斎の人柄に魅かれて、一服の茶に安らぎを求める人々が訪れた。本格的に親しみたいと志す人には作法どおりの茶道を教えるが、今までこのような茶席を体験したことがない人には、温和な表情で自由にお楽しみくださいと、茶碗の絵柄をどっちに向けようとまったく気にしなかった。
高嶋先生と違うところはここだと、傍で替茶碗の用意をしながら雪子は秀明斎の所作を見つめていた。
秋月が最後の客として訪れた。秀明斎の茶を一服含んで舌に転がし、眼を閉じて味わった。
「僕は無粋な人間で茶の味はよくわかりませんが、先生の茶は人の心を労わって、ささくれ立った気持ちを包み込んでくれる気がします。ありがとうございました」
「雪子さんの茶はどうですか」
「先生の前で評価できるような茶ではありませんが、瑞々しい若葉のような前を向く力を僕に与えてくれます」
「そうです! 秋月先生、茶は日々の暮らしには何の役にも立たないかも知れません。しかし茶を点てる人とそれを求める人の心が相通じると、気持ちを和ませ、癒し、明日を生き抜く力にもなります。
母、いや、高嶋先生は完璧で荘厳な茶を追求されています。例えば天皇陛下の御前でご披露させていただく茶と、侘しい庵に喉の渇きを癒しに来る方への茶も、どちらも刃を交わす最後の茶席だと考えている方です。それで袂を分かちました。
雪子さん、私を再び茶の道へ戻してくださったことを感謝しています。私の茶を『生き返った気がします』とおっしゃったことを忘れてはいません。そのとき、私は微力な人間ですが、もう一度皆さまの心の安らぎにお役に立ちたいと思いました。このような場を私に与えてくださった秋月先生と雪子さんに、心より深謝いたしております」
雪子は秀明斎の言葉に涙が止まらず、一言も聞き漏らすまいと俯いて聴いていた。
頑なに心を閉じて遁世なさっていた秀明斎先生の琴線を揺るがして解放した雪子は、何者なのだろうと秋月は不思議に思った。
寄って行けと、雪子を部屋に招いた秋月は秀明斎の茶を絶賛した。高嶋先生の茶は緊張していたので、実はよくわからなかったと白状し、雪子の茶は清々しく凛としていると思う。だがこれは僕のエコヒイキだと涙目の雪子に手を伸ばしたとき、ノックと同時に山川が入って来て、
「本日の日誌です。また雪子さんを泣かしているんですか。もう、バカ先生なんだから」と、勝手に怒った。
「いえ、秀明斎先生のお話が胸に沁みました。蒼一さんのせいではありません」
「あら失礼いたしました」と言いながら、山川は雪子の喉元と襟足の痣を確かめると、
「やっとムカデの痣が消えましたね。若い女性が好きなムカデに噛まれないように気をつけてくださいね」
「はい、気をつけます」
ジロリと秋月を見て出て行った。
いったい最近の山川はどうかしている。まったく雪子の味方じゃないか。ふーっと大きく秋月は息を吐いた。
秀明斎先生は高嶋先生のご子息だったのか…… 親子で同じ道、それも姿形が見えないものを求道していくことは、想像を絶する精進と苦難の連続であっただろう。そして秀明斎先生は家元の座を捨て、庵を結ばれた。雪子が傍にいることも忘れて宙を見つめ、考え込んでいた。
「聞いてくれ。僕がこの病院を離れても本当について来てくれるか? 苦労をかけるかも知れない、貧しい暮らしかも知れない、病院も地位も富もない秋月蒼一だけでいいのか? 今なら雪子は引き返せる。どこかの男と幸せに暮らせるかも知れない。どうなんだ?」
涙が乾いたばかりの雪子を抱きしめて、密かに最後の決断を下して話し続けた。書類を持って来た山川はドアを細めに開けて中を伺った。そして呆れて引き返した。
◆ 雪子は星野の姉の京子に会った。
星野から電話があった。
「オレの姉ちゃんがユッコに会いたいそうだ。親父もうるさく会わせろと言っている。どうだ来る気があるか? 遊びに来ないか?」
「私もお会いしたいです。明日ではだめですか?」
「わかったよ。明日の好きなときに来い」
雪子が星野の家を訪れたとき、父と息子は冷酒を楽しんでいた。院長は雪子を見た途端に立ち上がって両手で抱きしめ、
「元気でよかった。雑巾掛けに草むしり、いつも大変だね、心配してるんだよ」と微笑んだ。
「親父、もういいだろう。ユッコを離してやれよ。ユッコさ、秋月さんにだけに旨いものを食わせないで何か作ってくれよ。お袋と姉ちゃんは岩田屋デパートから帰ってないし、オレら腹ペコなんだ」
「いいんですか、冷蔵庫を開けても」
「かまわない、どうせ残飯しか入ってないからさ」
「15分くらい待ってくれますか?」
台所に入ってすぐ、サイコロ状に切った胡瓜とソーセージとチーズをピックに刺して持って来た。15分後、胡瓜とミョウガのピリ辛漬け、残り物の刺身で竜田揚げ、枝豆の混ぜ和え、トマトとハムのフライ、とうもろこしの醤油バター炒め、かまぼこのチーズ揚げを運んできた。
「いやー、驚いた! 秋月さんには勿体ない! 私が嫁さんに欲しいぐらいだ」
「親父、何を言ってるんだ、いい加減にしてくれよ。ユッコが困ってるじゃないか。旨そうだな、食おう、食おう」
雪子はガツガツと食べ始めた父と息子を笑って見ていた。
「ふーっ、やっと落ち着いた。オマエいつの間に料理が出来るようになったんだ? 僅かな時間でこんだけ作れるとはな、我が家の女どもには出来ない芸当だ」
「あーら、出来ない芸当で悪かったわね。それが秋月の女? 秋月も趣味が悪くなったな」
いつの間に帰ってきたのか、姉の京子は雪子を見下ろしていた。
「初めまして西崎雪子と申します」
「私は京子、涼から聞いたけど私はあんたの姉になるらしいね、よろしく。これアンタが作ったの? ちょっと食べさせてよ。ふーん」
「姉ちゃん、お袋はどこへ消えたんだ?」
「途中でキンキラキンのババアに出会って食事に行った。まあしばらくは帰って来ないだろう。うちらは出前でも取るか?」
「オレは嫌だよ。いつも出前ばっかり。もう飽きた、うんざりだ。そうだよな、親父」
「何! 私に作れと言うの? ふざけんなよ、作れるわけがないだろう」
「あのー、何か作れるかも知れません」
雪子がおずおずと言った。
「へえー、アンタが何か作ろうって? 面白そうだ、作ってもらおうじゃないの」
「ユッコ無理するな、姉ちゃんは秋月さんから会う前に見合いを断られて、未だに怒ってるんだ。だからユッコに八つ当たりしてるだけだ。気にするな。そんなことよりホントに何か作れるか?」
「缶詰とか小麦粉はあります?」
「うん、あるある。あの戸棚だ」
雪子は缶詰を具材にして3種類のお好み焼きを作り、残り物の豚コマ肉で甘酢南蛮漬け、夏野菜のサラダ、最後に明日の朝食用として冷やご飯を利用した冷やし粥を作った。
「アンタけっこうやるじゃないの。なんだったっけ、雪子か。雪子、妹に認めるから、秋月なんかポイして涼と一緒になったら? 実家に帰れば旨い飯があるってのはいいなあ。可愛がってあげるからさぁ、嫁においでよ」
「姉ちゃん、ユッコが驚くようなことを言わないでくれよ」
「涼はいつもこんな旨いもん食ってるのか?」
「とんでもない。しょっちゅうユッコの弁当を食ってるのは秋月さんだけだ」
「なーるほど、それで秋月は雪子を離さないってことか」
「姉ちゃん、そんな簡単なもんじゃないだろう?」
「美人は3日で飽きても、旨い飯さえあれば男は帰って来るって云うだろう。いつかアンタのとこへ泊まりに行ってもいいか?」
「はい大丈夫です。兄さんの他に姉さんまでいると知ったら高嶋先生がびっくりなさるでしょうが、お許しになると思います。でも布団は一組しかありません」
「だったら、秋月が泊まった時はどうしたんだ? 婚約者なんだろ」
「はい、客間にお泊まりになりました」
京子はゲラゲラ笑って
「聞いたか、秋月のマヌケ面が見たかったなあ。雪子にはわからないだろうが、涼の方が秋月よりマトモな男だよ、考えとけ! まあそんな話は先のことだが、東京でも食わしてくれるか? 私は護国寺に男と住んでいるが雪子は落合だ。目と鼻の先だから押しかけたときは姉として歓待してくれ、これで決まりだ」
雪子は京子の歯に衣着せない正直な言葉に好感を持った。
翌日の午後。
「昨日、星野院長にお会いしました。お姉さんとも話しました」
「ああ、女医になったという人か?」
「はい、日大板橋病院の女医さんです。弟が兄ならば自分は姉だとおっしゃって、私の離れに泊まってくれるそうです。ちょっと変わった方ですが好きになりました」
「そうか、姉さんまで出来てよかったじゃないか。それに日大板橋病院はあの離れからは近いはずだ。何かと心強いな」
「はい、私が作った惣菜を気に入ってもらえて、院長先生はお腹いっぱいになって眠そうでした」
「うっ、あの家でそんなものを作ったのか、みんなで食べたのか? 今後は絶対に作るな、わかったか」
「どうして?」
「雪子は僕のためだけに作ればいいんだ、許さない! 本当にわかったのか?」
「?????」
ペナルティだと雪子を引き寄せ唇を塞いだ。
「ああ、苦しいです。離してください」
「いやだ、当然の報いだ」
雪子の料理を家族で食べたと聞いて、それが秋月には羨ましくて雪子を虐めてしまった。雪子のせいではないが腹が立った。そのとき、母を雪子に会わせていないことに気づいた。思い切って茶席に呼んでみよう。最近は父とも疎遠で遊興三昧の母を心配していた。
◆ ひとり息子にかける母の愛憎。
8月26日(水)、蒼一の母が茶道教室を訪れた。
釜の火を落とし、道具を清めている秀明斎と雪子の前にひとりの婦人が訪れて茶を所望した。
秀明斎は静かに用意を始めたが、その婦人は「誠に失礼ですがそこの方にお願いしたくて参りました」と言った。ただならぬ気配に秀明斎は「雪子さん用意はいいですか」と長閑に伝えたが、「私でよろしいのでしょうか」と雪子が尋ねると「ご用意なさい」と峻厳に応えた。
連珠(れんじゅ)まで温度が落ちた湯が松風(しょうふう)になるまで、その婦人は雪子を見つめながら湯の沸く音を聴いていた。
「お出かけくださいましてありがとうございます」と深く頭を下げ、雪子は穏やかに茶を点てた。雪子の茶を一気に飲み干し、「けっこうなお手前でございました」と去って行った。
「雪子さんは今のご婦人をご存知ですか」
「いいえ、お会いしたことはありません」
「そうですか」
「何か?」
「いえ、あの方には埋めようがないほどの孤独の影が見えましたので、気になりました」
秀明斎は母の弟子と恋に落ちた。そして恋人は身ごもり、やっと母の許しを得て新しく建てられた離れにふたりは住んだ。毎日が幸せで楽しくて、日増しに大きくなる妻の腹を触って、まだ見ぬ我が子に語りかけた。臨月にもかかわらず妻は「私に出来ることはこれぐらいしかありません」と、長い廊下を拭き掃除していたが、ある日、縁側から転げ落ちて靴脱ぎ石に腹を打ちつけ、母子ともにあっけなくこの世を去ってしまった。
悲嘆にくれる秀明斎に高嶋は「妻の代わりはあっても、家元の代わりはありません。気を落とさないように」と言った。このとき、ひとり息子に対する壮絶な母の偏愛を思い知らされた気がした。母と決別しようと思ったのはこのときだったと記憶している。何もわかっていない雪子さんもこのような思いをするのかと、人の世の不条理と悲しさに涙した。
灯りを落とそうとしたとき秋月がやって来た。
「雪子、今しがた母が来なかったか?」
「いいえ?」
「秋月先生、お話があります。雪子さんには外してもらっていいでしょうか?」
「お疲れさま、雪子は帰りなさい。秀明斎先生がお話があるそうだ」
小さな灯りをひとつ残した部屋で、秀明斎と秋月は長い間話していた。
◆ 8月27日(木)、塾生が交通事故に遭遇した。
雪子はまもなく東京へ行ってしまう、その前に会わせろ! 会わせろ! 山川にうるさく言い続け、今日は5時の仕事上がりに成功した。雪子は来週の月曜日でバイトが終了すると俺の前から消えて行くだろう。旨い弁当を幾度も作ってくれた。たまには食事でもご馳走しようとスーツに着替えて、道路を挟んで入り口の真正面に車を停めて待っていた。雪子はなかなか出て来ない。アイツは相変わらずグズだなあと癇癪玉が着火点を目指して動こうとしていた。
古谷と塾生らしい男子高校生が口論しながら塾から出て来たが、何を揉めているのかは秋月には聞こえない。古谷が塾生の腕を掴んで引き止めようとしたが、その手を振り払って塾生は道路へ走り出た。けたたましいクラクションと急ブレーキの音が同時に響き散り、塾生は頭上高く投げ出されて、道路に叩き落とされた。
秋月はすぐ走り寄り、意識状態と出血を確認し、気道を確保して自分の車に運び入れようとしたとき、雪子が驚いて塾から転がり出てきた。秋月の車が塾生を跳ねたのかと錯覚していた。茫然と立っている古谷に「そこの男、何をしている、早く手伝え! 車に乗せろ」と助手席のシートを倒した。「雪子、乗れ! 手伝って欲しい」と叫んで、2000GTを急発進させた。
「出血が多いのが少し気になる。頭を持ち上げろ! タオルを傷口に強く当てて押さえてくれ! ズボンのベルトを緩めて楽にしてやれ、万一に備えて胸をはだけておけ、そこの動脈をもっと押えろ」
秋月は矢継ぎ早に指示した。
「この子は震えている。手を握ってやれ、それでも動転しているなら抱きしめてやれ」
古谷が病院に駆けつけたとき、塾生は手術室に運ばれた後だった。7時少し回った頃、秋月は手術室から出て来て、
「心配ない。意識の混濁は認められず、2週間程度で退院出来る。出血はあったが外傷出血だ。頭部打撲並びに外傷、顔面打撲並びに外傷、左肘骨折、右膝外傷、そんなものだ。思ったより軽くて良かった」
ストレッチャーに乗せられた塾生になぜか雪子が付き添い、塾生の手を握って言葉をかけていた。
「西崎さん、君は?」
「古谷さんの生徒さんですか?」
「そうだ、なぜ西崎さんがここにいる?」
「古谷くんと言ったね。キミは医学部の4年生だと聞いたがこんなことも知らないのか。高校生といっても所詮ガキだ。動揺して取り乱す、それは当たり前だ。人は手をしっかり握られているだけで心が落ち着き、脈拍や血圧が安定する。それが母親ならベストだが、連絡が取れなかったようで雪子が母親代わりに手を握って励まし、ガキが心細くて泣いたときは抱いてやった。親御さんに心配ないと伝えて欲しい」
塾生を抱いて励ましたという雪子の薄紫のワンピースは血だらけで、顔や額や髪にも血痕がこびりついていた。古谷は秋月に首を垂れて礼を述べるしかなかった。
秋月の部屋で。
「ごめん。旨いものを食べさせようと思ったがアクシデントがあったから、許してくれ。出前でも取るか?」
「いいえ、それよりも今日は蒼一さんの仕事の億万分の1ぐらいを体験した気がしました。あーあ、私は何も知らなかったんだと痛感しました。蒼一さんの仕事は人命に関わることだと頭では理解していましたが、わかってませんでした。とても大切な仕事です」
「あー、何だそんなことか、僕は心臓手術の外科医だ。今日はいいところを見せられずに済んで良かった。雪子こそ、疲れただろう。山川くんが帰った後なので仕方がなかった。だが、あのガキはいつまでも雪子の手を握っていた。ストップさせようとしたら古谷がいたんだ」
「高校生に焼いてるんですか?」
「そうだ、いつまでも僕の雪子を貸してたまるかと怒っていた」
腹ペコのふたりは笑いあっていた。
雪子はシャワーを浴びて素肌に秋月のTシャツを着たら、ちょうど丈が膝上まであって「わあ、ミニのワンピースみたい」と喜んだ。「おい、小さなボタンが2つ落ちたぞ」とからかわれて、「えっ、どこですか」と床の上を探しまわった。
◆ 8月28日(金)、山川は仰天して驚いた。
副院長室に出勤した山川は仰天した。紙袋に突っ込まれた血痕が染み付いたワンピースと女性下着!
一体何をやったのか、ああ、あのバカ先生は! 頭がクラクラしたまま血相を変えて秋月の部屋に乗り込んだ。
「おはよう。どうしたんだ、山川くん」
秋月はパリッと糊がきいた白衣姿で振り向いた。
「こっちこそどうしたんだと聞きたいです。雪子さんをどこに隠したのです! あの血がついた服は何です! 何をしたんです!」
「ああ、そのことか。雪子に手伝ってもらっただけだ。今頃は教壇に立っているはずだが、それが何か?」
「まさか雪子さんを刺したとか、怪我させて誘拐したとか、そんなことはありませんよね!」
「言っただろう。雪子は塾でガキを教えている。あれでも講師だ。授業を休むことは出来ないと言ったから送って行った。心配ない、患者のサポートをさせただけだ」
「若先生、本当でしょうね」
「僕が信用できないのか? 昨日、雪子を迎えに行ったら塾生が交通事故に遭い、緊急搬送した。簡単なオペだが雪子にヘルプしてもらったまでだ。アレは一生懸命やってくれたが、他人の出血を見るのは初めてで疲れたらしく、眠そうだったので寝かしてやって送り届けた。母親には僕が事情を説明した。山川くんが心配するようなことはなかった。悪いが、雪子の服を洗濯に出してくれ」
「はぁ~ はぁ~」
ヘナヘナと山川は床にへたり込んだ。そんな山川の姿を見て、心配かけて悪かったと謝った。
一方、塾の教員室は騒然としていた。塾生は、車にはねられたのは古谷が背中を押したからだと、警察の事情聴取で語ったことが判明した。出勤した雪子を待っていたかのように質問が集中した。
「私は付き添っただけで事故は見ていません。でも、古谷先生はそんなことをする方ではありません。信じられないのですか? 古谷先生に失礼じゃないですか。古谷先生、授業にアナをあけてはいけませんよ。さあ、教室に行ってください」
「そうだな、ありがとう」
力なく笑って古谷は教室に向かった。
当然、目撃者の秋月にも警察の事情聴取が行われていた。
「僕は事故の瞬間を見ていた。その子が何と言ったかは知らないが、古谷くんは背中を押してはいない。古谷くんの手を振り払って道路に飛び出したにすぎない。古谷くんは潔白だ。そもそも医者の道を志す者は命の尊厳を叩き込まれている。そうした行為は断じてしない」
そう明言した。
授業が終わって古谷は、
「西崎さん、今朝はありがとう。1年前の君に言った言葉がそのまま返って来て、恥ずかしかった。よかったら秋月さんに会わせてもらえないか」
「はい、いいですよ。でも蒼一さんは忙しいから待たされるかも知れませんがいいですか?」
「勿論、僕が勝手に会いに行くのだから待たせてもらいます」
「じゃあ行きましょう」
「西崎さん、秋月さんはどんな人だか教えてくれないか」
「普通の人です。あっ、普通の人より頭はいいかな? だってお医者様ですもの。ゴッドハンドの心臓外科医という評判ですが、カンシャク持ちで、ワガママで、イジワルで、イタズラ好きで、だけど優しい人です。ああ、そうだ、ウソが下手で甘えん坊で子供のような人です」
古谷はますます秋月がわからなくなった。もし秋月が、古谷が背中を押したと証言していれば窮地に立たされる。そんなことはないだろうと否定しつつ、不安だった。
ふたりはかなり待たされて、副院長室へ通された。
「ごめん、待たせたな。昨日は疲れただろう」
ドアが開くと同時に雪子を抱きしめた。周囲のスタッフはそんな秋月に慣れっこなのか動じる気配はまったくない。
「あの~ 古谷さんが~」
「ああそうだ、古谷くん、僕は警察には見たことを言った。見なかったことは言わない。だが、あの子があんなことを喋ったことはキミの宿題だ。いいか、人は弱いものだ。僕だってそうだ。自分の都合のいいように周りに言ってしまうことがある。それはなぜだ? 自己保全だ。キミが医者になればそんなことは日常茶飯事に遭遇する。それを切り捨てずに宿題として背負え! 医者とはそういうものだ」
古谷は秋月の目をしっかり見つめて、黙って聞いていた。
「もういいだろう、帰りたまえ。今から雪子と出かける。実は昨日がデートの日だった。それから、しばらく僕とは接触しないほうがいい。口裏合わせたと勘繰られたら心外だ。それではデートの邪魔をしないでくれ」
古谷は、両親と姉からさんざん聞かされた秋月とは違う秋月と出会ったと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます