〈一〉
丞必はといえば、花の香りを移した茶を
広い
隣は石壁の窓に面しており、申し訳程度に風が入り込んでいる。窓のすぐ下、
「
呼びかけた主はまだ九つにも満たない子どもであり、傍に寄っても固く閉じた目を
形の良い鼻を微かにひくつかせた幼君はようやく長い睫毛に縁取られた瞼を糸の細さほどに開く。
「……暑い」
呟きに丞必はことわり、きつく締められたその
「冷茶をお持ちしましたよ。立てますか」
紅珥は両膝に顔を埋めた。座ると床につくほどのつややかな漆黒の髪が流れ落ちる。主は機嫌の悪い時には、ぐずらない替わりに無言になるか攻撃的になるかのどちらかで、不機嫌とはつまり不調な時だった。今日は当たり散らさず無言の日だ。こんな日はいらつきを爆発させる気力もないほど弱っている。
首筋に手を当てると
青白い肌は生気なく頬は
原因はその特異な体質にある。一族に伝わる、五感が鋭敏で六感七感以上にも優れた能力。これを常には
聞得は血の継承により子々孫々に伝えられる。一族の長たる当主は並外れて聞得の能高い一家から選ばれ、その力を維持するために、やはり同じような一家の者と婚姻する。紅珥もそうして生まれた次期当主候補のひとりだ。しかし、そのせいで生命の危険に
当主である父も
もちろん閼氏も丞必も様々に手を尽くした。聞得の能力を生かすには自分で制御出来るようになるしかない。常に多くの音を拾い、微かな臭気を
ところで、一族の領地、
聞得の能力を持つ者は只人とは異なる。大きく違うのは年中山間を漂う毒霧の影響を身体に受けないという
話を戻すと、聞得とは
これでは世話をするほうも入念に気を配らざるを得ない。不興を買って世話役はもう五人も辞めていた。結局、幼君の生まれた時から傍で見てきた丞必が
そう内心嘆息して額に浮かぶ汗を拭いてやっていると、ようよう覚醒してきたのか、主は熱で
「
そういえば先刻ぶつかった、と丞必は頷いた。
「申し訳ございません。血のにおいがしますか」
「……平気。おまえの香りでほとんどわからないから」
あとこれで、と危なげに硝子の
「
丞必は微笑んだ。普段は鷹揚でよく笑う素直な子だ。憐れに思った。母親に似た美貌の主は儚げでいまにも壊れてしまいそうで、さりげなく小さな額から手を離した。
「
「高竺に相手をしてもらっていますよ」
そう、と呟いた声はほんの少し羨望の色を滲ませていた。
「今日は
二人は紅珥の歳上の遊び相手だ。時おり泥だらけのまま上がり込んで勝手をしていく小鬼たちで、丞必は片付けが大変なので御免こうむりたいが、紅珥の良き友たちといえた。
「あれらも訓練で忙しいようですね。特に侈犧は」
「そうなんだ……ぼくも外に出たいなあ……」
寝そべった紅珥に問う。
「今日はどうされますか。また書庫からなにか見繕ってきましょうか」
「それもいいけど、今日は居て。なにか話して」
近頃、紅珥は族領の外に興味津々なのだ。丞必も紅珥が生まれるまで頻繁に霧向こうの諸国に任務で行っていたから珍しい話には事欠かないが、さて今日は何を話そう。
少し考えてさきほど主が口にした徼火のことに思い至った。
「では今日は
「徼火の先祖のこと?」
「ご存知でした?」
「よくは知らない。あいつ、そのことなにも
いじけたように言ったのに苦笑して頭を撫でた。
「これは次の当主になるかもしれない紅珥さまには知っておいて頂きたいお話です」
「当主には
「そう、砂人も大抵街で暮らします。
獅徇は紅珥の一番下の義兄の母親だ。街に住んでいて、母と仲が良く何度か連れられて顔を見せたことがある。
「ああ……そうだったかしら。だから瞳が青いの?」
紅珥は初めて思い至ったのか宙を見据えた。
「そうでございますね。砂人は目や肌や髪の色が珍しいです」
「徼火の髪と瞳もくすんだ
丞必は頷いた。
「砂人は昔から我々の領地で共に暮らしてきました」
「彼らはどこから来るの?どうしてぼくたちとは色が違うの?」
「西の砂丘からやってきます。何十年、何百年かに一度、突然現れるのです」
紅珥は初めて聞いた話に目を丸くした。あの広大な砂の山から?
「あの向こうには何も無いと聞くけれど」
「ええ。行けども行けども砂のうみ。旅に出た酔狂の中で帰って来た者はおりません。鳥と獣の行き来はともかくも、ただあるのは虚空に浮かぶ我々の
へええ、と紅珥は興味深げに拳を握った。久しぶりに生気の灯った瞳が輝く。
「しかし、一族の中では砂人の立場というものはあまり良いものではありません。彼らは不吉とされています」
「どうして?」
「砂人が流れ着いた年には原因不明の病が
「彼らは今までどこにいたんだろう。何をしていたんだろう」
問いには首を振った。
「砂人はこちらで目覚めると、以前の記憶をほとんど失ってしまうのです。最初は謎の言葉を話して意思疎通もままならないとか」
「違う
ふふ、と丞必は笑った。「紅珥さまは面白いことをお考えになる」
「だって、そうじゃない?」
「かもしれませんね。ということで、我ら一族と砂人はこの土地でずっと暮らしてきましたが、今までのことで彼らを毛嫌いする者も多いのです」
つまるところ砂人の身分が低いのは一族の差別でしかないことを丞必も分かっている。
「ですから当主は獅徇さまが砂人の血を引く方だったために、それを
「そうなんだ……だから徼火も皆と訓練していいんだね」
「左様です」
「砂人を見つけたらどうすればいいの?」
「見つけることなど一生のうち一度あるかないかですが、ともかく同じ人であることは間違いございませんから、干からびそうであればお水をあげてくださいね」
丞必はまるで
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