第5話

 二人はエスカレーターで上り、二階のフロアに来ていた。ドーナツ屋はフードコートの端にある。昼食にするにはまだ少し早い時間だったが、フードコートはそれなりに人が多く、ドーナツ屋にも列ができていた。


 タオルが入ったバッグを手に持ち、夕月はじっと黙って列に並んでいる。アルバイトをしているおかげもあって体力には自信があったが、心なしかどっと疲れが出ていた。


 その異変に、咲万は気がついた。


「どうしたの? 体調悪い?」


 心配する声に、夕月は咄嗟に反応する。


「あ、いえ、どこも混んでいるなと思いまして」

「ああ、並ぶの苦手なひとか」

「まあ、ちょっと」


 と誤魔化して前を向く。


 数分もしたら順番が回ってきて、二人はトレイとトングを持ってケースの前に並んだ。


「ここはあたしの奢りだからなんでも取っていいよ――あ、これ好きなんだよね」


 咲万は同じ種類のドーナツを三つトレイに乗せていた。嬉しそうな顔を横目に、夕月もドーナツをトレイに乗せていく。折角だから明日の朝食分もここで買ってしまおうと思い、選んだドーナツはいつもよりも多くなった。


「もういい?」


 咲万が横から確認してくる。


「はい。ありがとうございます」

「オッケ。じゃあそこで待ってて。買ってくるからさ」


 夕月のトレイを受け取って、咲万はレジに持っていった。

 少し離れたところで咲万の後ろ姿を眺める。咲万が着ている服は自分の物なのに、丈は彼女の身体にぴったりと合っている。意識していなかったが、夕月は咲万が自分と同じくらいの体型なのだとそこで初めて気がついた。髪型を同じにすれば、後ろ姿は姉妹にみえるかもしれない。


 なんだか不思議な感じたと思っている間に、咲万が会計を済ませてドーナツの入った箱を持ってこちらに来ていた。


「おまたせ。一緒にしちゃったけどいいよね」

「はい、もちろんです。ありがとうございます」

「いいっていいって。それじゃあ次は?」

「夕飯の買い物をしていきます――その前に、お手洗い行ってきてもいいですか?」

「どうぞ。あ、それ持っておくよ」


 そう言われて、夕月は少し遠慮がちにバッグを咲万に渡した。両手に荷物を持った彼女に見送られて、夕月はトイレに向かった。


 用を足し終え、咲万の姿を探す。辺りをぐるりと見渡して、夕月は首を傾げた。咲万がみつからないのだ。


「あれ。咲万さんどこだろ」


 呟きながら、足はその場から動き出す。きょろきょろしながら人混みを入念に確認していくが、どこにも咲万らしき人物がいない。まさか帰った? なんてことはないよね、と考えつつ、とりあえず二階フロアを一回りしてみる。けれど咲万をみつけることはできなかった。


 一階にいるのだろうか。夕月はエスカレーターで一階に下りる。それにしても、咲万はふらふらとどこかへ行ってしまうのが癖なようだ。またあとからちゃんと言っておかないと。


 食料品売り場に着いたのだが、やはりいくら見渡しても咲万の姿は確認できない。どうしたものだろう、と思案していると、急に肩を叩かれて夕月はとっさに振り向いた。


「咲万さん!」


 にっと笑う彼女がそこにいた。その笑顔が不安になっていた自分を嘲ているように感じて、夕月は内心怒っていたが、それを表に出す気力もなかった。しかし、言うべきことは言っておかないといけない。


 夕月は咲万からバッグを受け取ると、眉をひそめた。


「どこいってたんですか。探したんですよ」

「ごめんごめん」


 咲万は調子良く応えた。


「ちょっと気になる物があって見てたんだ。それだけ」

「それはいいですけど、行くかもしれないなら言ってくださいよ」

「もしかして帰ったと思ったの」

「ちょっとだけ思いました」


 夕月は不機嫌そうに言った。


 咲万はまたちょっと笑って、

「そんなことするわけないでしょ。そもそも、あたしあなたの家の鍵持ってないし」

「まあ、そうですけど……」


 夕月はまだ納得していなかったが、これ以上言ってもまた今朝のようにはぐらかされて終わってしまうのが目に見えていたので、追及することはしなかった。


「あまりふらふらするのはやめてください」

「わかったって」


 咲万の返事がいい加減な気がして、夕月はちらっと睨みつけた。その視線に気がついた咲万は、綺麗と言われ慣れたユリの花がしていそうな愛想笑いで、「わかったよ、もうしない」と諭すように言った。


「わかればいいんですけどね」


 夕月はそう言うと、咲万にその場で待っているように伝えて、自分は買い物かごを取りに向かった。その後ろ姿を見つめる咲万の瞳は、暖かい海のようだった。


    ★


 買い物は三十分くらいで終わった。


 二人は、テーマパークでも作れそうな大きな緑地に沿って舗装された道を並んで歩いていた。太陽は既に西にかたむいていた。


 夕月は両手で持った買い物袋の持ち手をずらして、少し重そうにしている。


 その仕草に気がついて、隣にいる咲万がほとんどひったくる感じで、夕月から片方の持ち手を奪い取った。


 急な行動に、夕月はとっさに咲万のほうを見た。


「一緒に持とうよ。その方が楽でしょ」


 咲万は夕月を見返して、笑顔でそう言った。


「ありがとうございます。ちょっと買いすぎてしまったかもしれませんね」


 夕月は苦笑する。買い物袋の中には、しょうゆや油なども入っていた。


「いつもは近くのスーパーで買い物するんで大変ではないんですけど、デパートまで行くとちょっと疲れますね。それに、今日に限ってこんなたくさん買わなくてはいけない物があるなんて……」

「あとでスーパー寄るとか工夫したほうがよかったかもね」


 夕月は、そうですね、と肯定を示す。買い物袋を見るとため息をが出そうだった。


 咲万は緑地のほうを見ていた。ふと思い出したかのように提案してくる。


「それかここでちょっと休憩でもしていく?」


 二人は同時に立ち止まり、緑地の中を眺めた。いくつかの公園を合わせて作られたこの大きな緑地は、家族や友達と遊びに来るにはちょうどいい場所で、今も多くの人で賑わっていた。しかし、隅のほうにあるベンチは誰も使うことはなく、ぽつんと松の大樹の根元で寂しそうにしている。


 夕月はぴりぴりとしてきた自分の手の状況を考えて、休憩することにした。


「そうですね。じゃあちょっとだけ」


 緑地への入り口は少し進んだ先にあったが、二人はそれを無視して、松が並ぶ間を縫って入っていった。そして、ベンチに荷物を置きひといきつく。


「いいところだね」


 ベンチに腰を下ろした咲万が、たわむれる人たちを見て呟いた。


 夕月も同じように思っていた。


 まさしく自然の中であるこの緑地は、近隣の住人だけでなく、わざわざ遠くから足を運んで来る人たちの憩いの場である。よく見ると、カップルとおぼしき二人組もいたりして、デートスポットとしても活用されていることがわかる。


 夕月は隣にいる咲万をちらっと見ようとして、偶然にも二人は見つめ合う形になった。咲万も夕月に視線を向けていた。


 どきっと夕月の身体は小さく跳ねて、ばつが悪くなって目を逸らした。


「カップル多いね」


 咲万が出し抜けにそんなことを言ってくる。


「そ、そうですね」

「あなたは彼氏いたことあるの?」


 唐突な質問に、夕月の身体は固まった。数瞬の間のあと、夕月は緊張しながら問い返した。


「なんでそんなことを聞くんですか?」

「あたしはいたことないから。いたらどんな風なのか知りたくて。でも、その感じだといたことなさそうだね」


 咲万は表情乏しく言った。


 失礼な! とは夕月に言えるわけもなく、質問を続けるのだった。


「欲しいんですか、彼氏」

「うーん……、彼氏っていうか、一緒に添い遂げてくれる人が欲しいかな。性別は関係ない、年齢も。動物でもいい。けど、動物ってだいたいあたしたちより先に死んじゃうでしょ。だからできれば人間がいいかな」


 咲万は視線を斜め上に上げ、松の天辺でも見るかのように遠い目をする。その声音は、初めて逢った日、夕月の部屋でやり取りしていたときに近く、力はあまり感じられない。


 どこか思い詰めている表情を横目で見ていた夕月だったが、綺麗だなっと思っているといつの間にか視線は咲万を向いていた。


「どうしたの?」


 急に咲万の顔が夕月のほうを向いた。夕月ははっとして我に返る。しかし、我に返ったことでさっきまでの自分の思考を思い出してしまい、耳が熱くなった。


「いえ、なんでも。なんか大人っぽいこと言うからびっくりしてしまって」


 作り笑顔で取り繕う夕月。


 何かを感じ取ったのか、咲万はおもむろに顔をぐいっと夕月に近づけた。


 その距離三十センチ。


「えっと……、咲万さん?」


 緊張の糸が夕月の身体に絡みつく。無理矢理目を見てくる咲万の視線を、どうにか逸らしているが、夕月のその仕草は完全に焦りが滲み出ていた。


 咲万が口を開く。はっと吐息が夕月の顔にかかるのを感じる。


「あなたでもいいな。あたしの彼女」

「な、何を言っているんですか咲万さん」

「わかんないの? 好きだって言ってるの」

「好き⁉」


 夕月は目を見開いて、咲万の目を凝視した。時が止まっているように感じる。周りの喧騒も聞こえているはずなのに、夕月の耳にはまったく届いて来ない。とても寒い時期だというのに、夕月の身体は熱くなって、背中には少し汗が滲んでいた。


 顔と顔が近づく。咲万の端整な顔がすぐ目の前まで来て、もう鼻先が触れ合う寸前のところで、夕月が咲万の肩を摑んで自分から離した。


 夕月は顔を背けて、落ち着かない様子で言う。


「えっと、あの、わたしそういうのまだよくわからなくて。咲万さんがわたしを、その、求めてくれるのは嬉しいんですが、まだ気持ちの整理ができていないというか、心構えがないというか……。だからあの――」


 と夕月が言いかけたところで、咲万は、晴れやかに笑い声をあげた。


「ほんと、押しに弱いね」


 夕月は驚いたような目で咲万を見る。


 咲万は夕月の手から離れて、着席した。


「からかったんですか?」


 怪訝な顔で夕月は言った。


「いいや、本気だよ。あたしはあなたのこと本気で好き。けど、カレーを口移しした時と反応が似てて、おかしくて」


 言葉とは裏腹に、咲万の口調は冗談を言っているようにも聞こえてくる。


 何が本当なのかわからなくなって、夕月の頭の中はぐるぐると回っていた。


「それで、返事を聞きたいんだけど」


 咲万はいたずらっぽく笑みを浮かべ、そう問い掛けてくる。その顔を見つめ返す夕月は困ったように眉を歪めて、どう答えるべきか考えた。


 そして十秒ほどして、夕月はおもむろに口を開いた。


「わたしは咲万さんのこと嫌いではないです。どちらかと言ったら――、好き、の部類に入ると思います。けど、気持ちの整理ができなくて。あの……、本当なんですよね? 本当にわたしのことが好きなんですよね?」

「うん。好きだよ」


 真面目な顔つきで、咲万は返事をする。


 夕月は自分で質問したにもかかわらず、改めて好きと聞かされると、胸が熱くなるのを感じていた。


「わ、わかりました。その……、答えなんですけど、持ち帰らせてください」

「いいけど、どうして?」

「……ちゃんと答えたいからです。本気だっていうなら、なおさら」

「真面目だね」


 優しい声音で咲万が言う。


「正直、本気で考えてくれるとは思ってなかったよ。あたしたち、最近逢ったばかりだし、あたしは自分の情報出さないし、おまけに同性だし。同性に告白されるの嫌じゃないんだ?」

「そうですね、あまり気にしませんでした。そもそも男子にもそんな気持ちになったことないので、どんな感じなのかわからないっていうのが本当のところです」


 夕月は苦笑してそう言った。


 そうなんだね、と咲万が返す。辺りの喧騒は夕月の元へ戻って来ていた。時間が進み始める。冷たい空気の中で、二人はどことなくぎこちなく、ベンチに座っていた。


 緑地の外周をランニングしている年配の人、遊びにやってきた子どもたち、設置されている遊具の金属音。ありふれた日常の風景を感じること数分、二人はそろそろ帰路に就こうとしていた。


「片方持つよ」


 買い物袋の片方の持ち手を持つ咲万に、ありがとう、と夕月は返事をする。


 家に着くまで、並んで歩く二人の間に会話はひとつもなかった。



  わたしは咲万さんのことが好きなんだと思う。


 蒸気に満ちた浴室で、温かいシャワーを頭から浴びる夕月は、目を瞑り考える。


 咲万に初めて逢った時、見て見ぬふりはできないと心が言っていた。捨てられた野良猫を見たときとは明らかに違う、いつか優しい誰かに拾われてほしいという思いを、咲万には向けられなかった。


 一人暮らしの自分の部屋に、見ず知らずの誰かを連れ込むようなことは、今考えてもとても危険なことだ。実際に、咲万としてはお礼だったあの一歩間違えれば人を殺せる行為を夕月は自ら味わった。


 唇に意識を向けると、まだあの日の感触が鮮明に蘇ってくる。


 しかし、一緒に過ごしてみれば咲万自体にはなんの危険もなかった。もちろん、部屋から忽然と姿を消したり、出所のわからないお金を持ってきたりしたのは見逃すことができない出来事だったけれど。告白されたからといって、それをすべてなかったことにするのは難しいだろう。


 だからこそ悩む。自分は咲万をこのまま家にい続けさせてよいのか。咲万の心の奥にある事情は、知らないままでいいのか。咲万に応えていいのか。


 当の本人は自分の事情を話す気はないだろう。だから、今日一日咲万の行動を観察して本意を確認しようと思っていたのだが、痛い出費で心を折られ、久々の誰かとの外出でそんなことは忘れてしまっていた。一瞬姿を消した時があったが、あれは本当に商品を見ていただけなのだろうか。あの時先に、咲万の姿をみつけられていたら、もしかすると何かわかったかもしれないのに。


 悔やんだところでどうしようもないことだった。


 夕月は身体を洗い終えると、お湯に浸かり、白く細い足をぐっと伸ばした。水気をたっぷりと含んだ艶やか髪が、照明の光を反射する。成長著しいお椀型のふんわりとした胸。きゅっと締まるくびれが、水面で揺れている。


 夕月は手を皿のように合わせお湯をひと掬いする。水面に歪んだ自分の顔を見て、小さくため息をついた。


「どうしたらいいんだろう……」


 皿にした手を解放すると、水がちゃぽんと音を立てて落ちる。あてどもなく、ぼんやりと波紋を見つめていた。


 もし告白を断ったら咲万はどうするだろう、と夕月は考える。自分の部屋から出ていって、またあの日のように道端で凍えながら座り込み、誰かが声をかけてくれるのをじっと待ち続けるのだろうか。声をかけたのが自分以外の誰かだったら――、あるいは、大人の男の人だったら――。


 そんな状況を想像する。咲万はたぶん誰にでもついていくのだろう。いかにもきまぐれな猫のように。


 それは、ダメな気がする。


 夕月が咲万の人生に口出しすることはできないが、同じ女の子として、超えてはいけないラインがある。自分はそのためにたまたま運命に選ばれたのかもしれない。


 咲万がどう思っているのか。夕月以外の誰にでも同じようなことをしたのかどうか。


 夕月はざばぁっと勢いよく立ち上がる。身体の表面をお湯がたらぁと流れていく。湯船から出て、使い古されたバスタオルで身体を拭いた。パジャマに着替えると、リビングへ直行する。


 炬燵では咲万はゆったりとしながらテレビを見ていた。


 風呂から上がった夕月に気づく。


「おかえり」


 のんびりとした口調で咲万は言う。


 そんな彼女を真っ直ぐ見つめ、心を決めたように夕月は口を開いく。


「咲万さん――」

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