第8話 アザトースの涙 その四



 青蘭はささやく。


「僕らが二つに裂かれたとき、苦しくて、悲しくて、存在することがつらかった。だから、もう何も見なくていいように、僕は眠った。あのときからずっと眠り続けてる。夢のなかでなら、もう一つの僕に会えるかと思って。でも、どんなに探しても会えないんだ。僕はこのままずっと一つなんだ」


「青蘭……」


「何もかもがイヤ。僕の世界が死であふれてることも。永劫ではなくなった僕が再生し続けながら、一方で死んでいくことも。ひとりぼっちでさみしいことも。みんな、もう終わりにしたい」


 龍郎の足元で、ブツブツと発酵する音が激しくなる。

 よく見れば、青蘭の足はゼリーの大地と溶けあっていた。すその長いレースのドレスをまとっているように見えたのは、半透明の地面だ。それが青蘭の腰から下にまといついている。


 


 この果てしなく広大な世界、いや、宇宙そのものが。

 万物の造物主。

 すべての生命の源である海は死によって穢れ、孤独になげいている。


「でも、あなたはアスモデウスがここへ来たとき、希望をこめて、彼に自らの種を植えた。彼と一体になり、彼の目を通して世界を知り、おれと愛しあった。もう一人じゃない。おれがいる」


 それがアスモデウスの使命だったのだ。その身に大いなる神を負い、一心同体となることで、神の孤独を癒す相手をつれてくる……。

 そして、選ばれたのが、龍郎だ。


「おれは君がどんな姿でも、どんな存在でもかまわない。変わらず愛し続ける」

「龍郎さん……」


 泡立つソーダが溶けて、龍郎を包みこむ。この巨大な存在にくらべたら、龍郎など、ほんのちっぽけな一個の個体。このままゼリーの海に飲みこまれれば、あっけなく溶解され、おしまいだろう。それでもいい。


(青蘭。君を愛しているよ)


 ねっとりとソーダがからみついてくる。口や耳や体じゅうの穴から入りこんでくるが、不快ではなかった。

 龍郎の真意をしっかりと吟味しようとするように、たしかめているのだとわかる。



 ——でも、これは夢だ。いつかは覚めてしまう。そしたら、僕は二つに裂かれた自分を見て悲しくなる。


(また夢見ればいいじゃないか。何度でも。目覚めるたびに)


 ——今とは違う夢になるよ。


(同じ夢を見ればいい。君ならできる。君が願えば)


 ——全部が同じにはならない。同じに見えても、今とはどこかが違ってしまう。


(それでもいい。おれは存在するかぎり、必ず君を見つけだす)


 ——違う夢のなかでは、僕の姿も変わってしまう。その世界での僕は……とても醜怪な何かに変容してるかもしれない。人間の嫌う一匹の虫。獰猛どうもうな獣。道端の石ころ……。


(君がたとえ一輪の花だとしても、おれが必ず見つけるから!)


 ——…………。


(だから……目覚めてもいいんだよ? この夢が悪夢でしかないのなら。君はもっと素敵な夢を見ればいい)


 ——龍郎さん!



 二人の呼吸が一つになる。鼓動も溶けあう。龍郎の体は波間に消え、完全に青蘭と一体になるのを感じた。


 ああ、やっと、つがいになれるのだ。君と、おれは、一つ。一つになる……。


 満たし、満たされ、愛のなかで、どっぷりと至福にひたる。

 新たな鼓動が生まれてくるのを感じた。

 二人の心臓が重なることで、新しい世界の卵となる。


(夢を見よう)


 愛の夢を。

 失われたものを追い続ける死の夢ではなく。

 それはきっと、今よりもっと、いい世界。


 アザトースの全身が光り輝き、はじけた。あまたの涙となり、彼方へと降りそそぐ。


 その日、一つの宇宙が終わりを告げた。



 *


 宇宙がはじける瞬間、龍郎は多くの夢を見た。


 夢のなかでは、龍郎はただの人間で、青蘭と手をつなぎあって歩いていた。幸せそうに微笑んで、何事かを話している。



 ——今夜のご飯はなんにしようか?


 ——龍郎さんの作ってくれるものなら、なんでもいい。


 ——じゃあ、青蘭の好きな茶碗蒸しかな。あとは小松菜のおひたしと、シャケの切り身。


 ——龍郎さんの作るものはなんでも好き。なんなら、龍郎さんを食べちゃいたい。今、ここで。


 ——気が早いなぁ。青蘭。まだ真っ昼間なんだけど。



 笑い声の絶えない平穏な日々。


 そろそろ、青蘭の両親にあいさつに行かないといけないかなと考える。青蘭の父はイギリスの貴族で、今はアメリカを拠点にしているホテル王だ。母は赤毛の妖艶な美女。アンドロマリウスとグレモリー……そんな名が浮かぶ。


 あるいはプラハのカフェで、優雅にティータイムを楽しむ二人。星流とフレデリックだ。二人は腕のいいエクソシストとして世界中で活躍している。


 また、この夢のなかでは、ドイツの古城に住む五人兄弟がいた。長男のベルンハルト。次男のエメリッヒと三男のヴィクトールは双子だ。四男のクレメンス。五男はヨナタン。義父の遺した莫大な資産で、兄弟は仲よく暮らしている。


 穂村はあいかわらず遺跡発掘に余念がなく、清美は町で仕事と腐女子の趣味を満喫しながら、ときおり山中の実家へ家族に会いに帰る。近所の池にカエルの妖怪がいるとかいないとか。


 バリ島の山奥で、華やかな結婚式をあげるのは、ナシルディンとプトリ。新婦の兄のアグンは新郎の妹と駆け落ちするか、両家の両親を説得しようかと思案中。


 その宇宙の始まりの場所に鎮座する神は、夢のなかでいつでも双子の弟と手をとりあっている。安らかな眠り。幸福な夢を見る。


 そのまわりで蕃神たちが踊り、ナイアルラトホテップは退屈そうに子守唄の指揮をとる。


 海底のルルイエの都に水の王がよこたわり、黒き森には山羊たちが、ひっそりと女神を讃える妖しい儀式のために集う。


 世界のどこかにはルリム=シャイコースの巣があり、女王のとなりに座す王の名は、サンダリン。王女のルリムはあちこちの次元をきままに旅している。


 日本では、ルリムの化身、瑠璃が、兄の冬真と静かに暮らし、磯福や岩崎も、彼らの生活を平凡に続けている。きっと。


 また天界では、一つの卵から必ず双子が生まれるようになった。二つの心臓を重ねて生まれた卵から、その両親の魂を持つ天使が、生まれながらの一対として誕生する。


 ガブリエルはこのごろ、ラファエルといい感じ。たぶん、将来はつがいになる。

 ウリエルはルシフェルと。

 邪神との戦争がなかったため、ルシフェルも堕天しなかった。

 マルコシアスは相手を募集中だ。


 そして、ミカエルとアスモデウス。天使としての存在の彼らは、分身である人間の自分たちを、楽しげに天上から見おろしている。手をつないで歩く、龍郎と青蘭を。


 そんな、たくさんの夢。

 それは、これから生まれる世界でもあった。




 了

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