第2話 黒き森の山羊 その七



 えッ? 合格? 何を言ってるんだ?


 戸惑っているうちに、女神の周囲の景色が歪んだ。電波が乱れるような視界のザラつきのあと、とつじょ、まわりに天使たちが現れる。


「シュブ=ニグラス!」


 叫んだのは、アスモデウスだった。ウリエル隊や穂村の姿もある。

 おそらく、たった今まで、龍郎だけが女神の結界のなかにいたのだ。


(なぜ、おれだけ?)


 それは龍郎を呼んだということだ。何かしらの目的があったのは間違いない。

 しかし、今、考えている時間はなかった。女神の腕のなかには、ガブリエルが捕らわれている。ガブリエルは気を失っているようだ。目を閉じ、ダラリと腕をなげだしている。


「ガブリエル!」


 先行していたガブリエルたちは、女神との戦闘で負けたのだ。あるいは、あの幻惑の技で気絶させられたのかもしれない。


 一人ケロリとしている穂村がかけよってきた。


「すまん。遅れをとった。シュブ=ニグラスはかなりの大物だよ。油断するな。本柳くん」

「ガブリエルたちは全滅したんですね?」

「パワーズの数柱は誘惑に負けて堕天した。ガブリエルは必死に抵抗していたが、最後の手段だろう。自身の心を閉ざすことで誘惑をしりぞけた」


 ほほほと、女神シュブ=ニグラスが笑う。


「星の戦士よ。次の試練です。彼を救いたければ、わたしを打ち負かしなさい」


 女神の手に宝玉をかたどった短刀が現れた。ガブリエルの心臓を狙う。


「やめろッ!」


 心臓は天使にとって命より大事なものだ。それを破壊されることは魂の死に他ならない。


 龍郎はけんめいに走った。

 さっきまで手の届く距離にいたはずなのに、急速に遠くなる。


(くそッ! 絶対、殺させない!)


 跳躍しても、そのぶん女神の姿は遠ざかる。身動きしているわけではないのに、すべるように移動している。

 時間や空間がねじれていく。

 このままでは異空間に逃げられてしまう。


 無我夢中だった。

 なんだか、地面がフワフワしている気もしたが、ひたすら追いかける。やっと手が届いた。ガブリエルの腕をつかみ、力いっぱい、ひっぱる。龍郎がふれると、ガブリエルは目をあけた。意識が戻った。現状に気づいて、女神をつき離す。


 龍郎はホッとした。

 だが、その瞬間、女神の目が危険な色に輝いた。女神の背後から異様な怪物がとびだしてくる。触手がよじれあって一対の翼になった、人型の化け物。皮膚は灰色でサメのような牙ののぞく口内が不気味に赤い。


 天使だ。いや、堕天使と言うべきか。

 そのおもてに見覚えがある。女神の誘惑に負けて堕天したばかりの元パワーズ。


 堕天使の舌が数メートルも伸び、ヤリのように硬質な光を帯びて、龍郎に迫る。

 よけきれない。完全に予想外の攻撃だった。尖った舌が目の前に——


「危ない!」


 どこからか声がして、龍郎はつきとばされた。床にころがり、ふりかえったときには、アスモデウスが串刺しにされていた。


「アスモデウスーッ!」


 アスモデウスは胸を押さえながら、片手で浄化の光を放った。堕天使は醜怪に溶けくずれていく。

 だが、そのまま、アスモデウスは倒れた。


「アスモデウス!」


 龍郎がかけよったときには、胸のまんなかに穴があいていた。


「アスモデウス! しっかりしろ!」


 こぼれる血を受けとめようと焦燥するうちに、女神は笑い声をあげながら去っていった。


「これはマズイな」と、かたわらにやってきた穂村が言う。

「心臓に傷がついてるぞ。汚染されたかもしれん」

「汚染?」

「邪神やそのしもべの放つ邪気が心臓にちょくせつふれると、魂がけがされてしまう」

「そうしたら、どうなるんですか?」

「堕天するか、死ぬ」

「そんな!」


 永劫のような長い年月の果てに、ようやく青蘭は天使に転生することができた。それが、こんなにもあっけなく、死んでしまう。それどころか、堕天する。


「堕天……人になるんですか?」

「あれは特殊な罰だった。通常は悪魔化するんだ。つまり、邪神にな」


 この至上の美を誇るセラフィムが、あの醜い邪神になる。そんなこと、あってはならない。それでは青蘭があまりにもかわいそうだ。


「なんとかならないんですか?」

「幸い、心臓に直撃はしていない。汚染がひろがる前に助けるんだ」


 口早に言いあっているあいだに、天使たちが集まってきた。龍郎の腕からアスモデウスを奪いとる。


「アスモデウスをどうする気だッ?」


 龍郎の前にウリエルが立った。


「天界へつれてかえるのだ。今すぐ処置をすれば汚染はまぬがれるかもしれない。少なくとも、心臓をとりだせば、心臓だけは神聖さを保たれる」

「そんなことしたら、アスモデウスは死ぬんじゃないか?」

「心臓が存在するかぎり、我々は死なない。いつか、卵のなかから蘇る」

「でも——」


 聞いてはくれなかった。

 天使たちは全員でアスモデウスをかこみ、飛び立った。かきけすように消える。次元を飛んだのだ。


「アスモデウス……」


 青蘭があんなにも望んでいたことなのに、今また、天使としての生を終えようとしている。


 龍郎は絶望で目の前が真っ暗になった。




 了

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