⑦ 暴かれたのは恋の歌
劇場を出てすぐ、あたしたちはどうやら馬車に乗ったらしい。
らしいっていうのは、頭もすっぽりファントムお兄さんのマントに覆われて、なにも見えないから。
ごとごとと、身体が揺れる。
すぐそばから声がする。
「しばらくは不自由だろうが、我慢してくれ」
ちょっと残念なエセ怪人だと思って、完全に油断してた。
あたしをさらうなんて、ファントムお兄さんって、いったい何者?
なにが目的なの?
頭の中に考えをぐるぐる巡らせながら、マントの隙間から外が見えないかと、何度もトライしてみる。
でも、だめ。隙間が小さすぎてなにも見えない。
ほんの五分くらいして、馬車を降りたファントムお兄さんはどこかに向けて歩き出した。
それにつれられて、彼のマントの中のあたしも歩く。
扉がぎっと開く音がしたから、ここは建物の中なんだろう。
「やぁ」
ファントムお兄さんは、だれかに向けて挨拶した。
「舞台をあっけなく降りたと思ったら、またずいぶんとおもしろそうなことをやってるみたいだね」
そのせりふに、大きく息を吸う。
声を上げることすら忘れた。
「いまさらなんの用」
いつもと違う、鋭い口調だけど。
この声は。
お姉ちゃん……!
「そう怖い顔するなよ。ちゃかしにくるほど暇じゃない。れっきとした用事があるんだ。――売り子さん、勝手なことをされては困るんだよね」
てことは、あたしたちは今、『魔法のミュージカル屋さん』のいつものフロアにいるってこと……?
「この店がミュージカル魔法を安く売るおかげでうちの質のいい技術商品が売れなくなってね」
頭をできるだけ高速回転させて考える。
ファントムお兄さんは『ひみつのミュージカル屋』の一味なんだろうか。
「人が懸命に努力して得た演奏技術を奪っては高値で売りさばく。間違っているのはあなたがたのほうよ」
きっぱりと言い放つお姉ちゃんの声。そのあとに、かわいた笑い声が響いた。
「そう言うと思った。相変わらずいこじな女だ。ではこれでどうかな」
ぱさっとマントが翻る音がして、視界が自由になる。
「チュチュちゃん!」
目の前には青ざめた顔をしたお姉ちゃん。
そして肩に、ファントムお兄さんの腕の、信じられないほど強い力を感じる。
なんとかこの場を切り抜けなくちゃ。
なのにでてくるのは、情けない涙声だけだった。
「お姉ちゃん、ごめんなさい。ごめんなさい……!」
お姉ちゃんはきっとひきしめた顔をファントムお兄さんに向ける。
「わかったわ。言うとおりにします。要求はなに?」
「それでいいんだよ」
ぽん、と肩に白い手袋に包まれた手が置かれる。
「この舞姫さんをハー・マジェスティー劇場にデビューさせるのをあきらめてほしいんだ。
今以上にきみたちが人に知られると、こちらの具合が悪いのでね」
お姉ちゃんはかっと目を開いた。
あたしを見るその栗色の中に、悲しみが揺れている。
そして、その栗色が長いまつ毛といっしょに伏せられた。
「……いいわ。条件を飲むから、チュチュちゃんを返して」
とたんに、ファントムお兄さんの手の力から、肩が解き放たれる。
「わかってくれてうれしいよ。妹想いの愚かな歌姫さん。だから君が好きだ」
あたしを自由にすると、ファントムお兄さんはお姉ちゃんのすぐそばに歩み寄って――そのマントで、抱きしめた。
お姉ちゃんはされるがままに身を任せて、そしてつぶやく。
「やっぱり、最低ね」
……なにかが、おかしい。
頭の中で、そう声がする。
ファントムお兄さんはほんとうに、『ひみつのミュージカル屋』の一味なの?
一味のボスである座長は、あたしをハー・マジェスティー劇場の舞台に立たせて、 ダンスの技術を盗もうとしていたのに。
彼はその反対のことをしようとしている。
『魔法のミュージカル屋さん』をこれ以上有名にしないため?
ううん。
ほんとうにそれが理由なら、さいしょから座長があたしをスカウトするはずがない。
それなら、どうして……。
よし。
あたしはそっと棚に近寄ってコーラスコープティーの茶葉とポットを取り出した。
とんとんという音であたしは思考から現実に返った。
抱きしめられながら、お姉ちゃんが、ファントムお兄さんの胸をたたいているのだ。
「なんで。なんであなたなんか好きになっちゃったのよ」
ポットを手から滑らせそうになって、あわてて持ち直す。
まさか。
ファントムお兄さんの正体は――。
彼は、なにも言わない。
胸をたたかれながら、抵抗もしなかった。
黙って、そっと、お姉ちゃんの腰を抱いて――そのポケットに手を入れる。
白い手袋その手が完全にかくれる直前、隙間からのぞく金色の光を見て――ぱっと 目の前が明るくなった気がする。
真実が、わかった。
お姉ちゃんに伝えなきゃ。
よし。
緊張に震える手で、ティーポットにお湯を注ぐ。
歌って。コーラスコープティー。
お姉ちゃんと、そしてファントムお兄さんのほんとうの気持ちを。
あたしは口を開いた。
伴奏と一緒に歌が、口をついて出た。
あなたを心から追い出すのは やっぱり難しいわ
このさきもあなたのことを考えない日は ないでしょう
抱き合ったまま、二人がはっとしてこっちを見る。
そのとき、いきおいよく店の扉が開いた。
入ってきた人を見て、あたしは笑ってうなずく。
レインは、『スィンクオブミー』のその続き――男の人が歌うパートを続けてくれた。
ずっと前
僕らはなんて無邪気だったことだろう
もうきみは忘れてしまっただろうか
でも僕は覚えてる
まだきみへの想いを覚えている
レインは走ってきてくれたみたいだった。歌う息が途切れ途切れになって、それが、余計に痛切な想いを表現していた。
「『スィンクオブミー』の歌の中で恋をしているのは女性だけじゃない。恋人の男の人の想いも歌われてるの」
あたしはびしっと、人差し指をつきつける。
かんねんしなさい。
コーラスコープティーは、うそをつかない。
「ファントムお兄さん。これがあなたの想いです!」
ファントムお兄さんはふっと笑って肩をすくめた。
顔を覆っている仮面にゆっくりと手をやる。
あらわになったのは、ハシバミ色の髪、通った鼻筋――コーラスコープティーの湯気のが映し出す、お姉ちゃんの過去の映像で見たのと同じ顔だった。
ファントムお兄さん、彼こそがヒューだったんだ。
「チュチュちゃん。たわごとはよしたまえ。僕は数年前、きみのお姉さんを利用した男だ」
レインが、よくとおる声で言う。
「あなたがチュチュを連れ去ったあと、ハー・マジェスティー劇場のショーケースを詳しく調べてみた。そこにあったのは、色とりどりの美しい宝石。身に着けると他人の声を奏でることができるようだった。そして、並べられていたバレエシューズ。これをはくと一流ダンサーのステップが踏める」
ヒューの顔が少しだけこわばる。
「ハー・マジェスティー劇場で座長にターゲットにされた女優が歌ったり踊ったりすると、その技術を盗まれてしまう。盗みの魔法の手口は完璧で、みんな気づかないうちにその努力の結晶を宝石に変えられてしまうという。チュチュは座長に目をつけられていた。ハー・マジェスティー劇場のミュージカルに出演させてダンスを盗むつもりだったんだ。あなたは父親のたくらみをを阻止するために、チュチュに出演をとりやめるよう要求したんだ」
レインに向かってうなずくと。あたしは一歩進み出た。
「ファントムお兄さん――ううん、ヒューさん。あなたには、もう一つ目的があるでしょう」
そして視線を、別の人に向ける。
「お姉ちゃん、ポケットを見て」
それまで茫然としていたお姉ちゃんははっとして、スカートについているポケットをまさぐり――声にならない驚きの声をあげた。
お姉ちゃんの手におさまっているのは、涙型の金色のトップがついた、ネックレス。
「あなたの目的、それは、お姉ちゃんが、あなたのお父さん――座長にささげた歌声を返すこと」
お姉ちゃんはじっと、ファントムお兄さんを見つめた。
「ヒュー」
そむける彼のシャツをつかんでぐっと自分のほうに向かせる。
「ほんとうのことを言って。今度こそ」
お姉ちゃんがシャツを離すと、ファントムお兄さんは、降参したように両手をあげた。
「やれやれ、すごいな、きみの妹さん方は」
重いマントとタキシードの上着を取り去って、シャツ一枚のシンプルな姿になる。
「父は、オレが言う通りの相手と結婚しなければきみを劇団から追放するといった。それでオレは結婚を承諾したんだ。そのあとで、きみの声を父が奪ったと知って、婚約を解消して旅に出た。あちこちできみの声を封じ込めた宝石を探しまわった」
とほうにくれたようにあげた両手をなげだして、あさってのほうを見つめる。
「すまなかった。父の手元にまだあるとつきとめるまでこんなにかかってしまった」
お姉ちゃんのきれいな目が、すっと細まる。
「……ばか」
そして、ファントムお兄さんの胸を殴りだす。
「ばかばか」
今度はグーだ。すごい。
ぽかぽかと殴るのをとめるたお姉ちゃんの目にはじわりときれいな涙がにじんでいた。
「わたしは誤解していたのよ。丸二年もあなたのこと。そうならそうと、はじめからどうして言わないの」
お姉ちゃんをかこうように回した手の平を宙に向けて、ファントムお兄さんは苦笑した。
「そりゃ、決まってるだろ? きみの歌手人生にとりかえしのつかないことをしたんだ。まだ好きだなんて、どんな顔して言えっていうんだ」
あぁ、さっきから聞いてればじれったい。
お姉ちゃんが怒るのもとうぜんだ。
あたしはいきおいこんで叫んだ。
「ファントムお兄さん! お姉ちゃんの言うとおりだよ」
名前を呼ばれた本人だけじゃない、その場にいたみんながあたしを見る。
「本家のオペラ座の怪人はね、めちゃくちゃしつこいの。恋人のウエディングドレス姿の人形作ってドン引きされたり、地下に閉じ込めたりするぐらいヤバイ人なんだからね!」
「チュチュ、だんだん論点がずれてるぞ」
レインがつっこんでくるけど、気にしない。
「でも、最後は彼女を開放するの。それくらい、愛してたの」
どんっと、ファントムお兄さんの背中を押す。
「だからファントムお兄さんも、決めるときは、びしっと決める」
「チュチュちゃん……」
ファントムお兄さんは困り顔をしていたけど、やがて意を決して、お姉ちゃんの手を握る。
「ティナ。オレと、もう一度、やりなおしてくれるか」
お姉ちゃんは彼の肩に手をかけ、背伸びして――。
わわわっ!
目つぶったほうがいいいのかな?
あわてて顔を覆う前に、お姉ちゃんが彼の頬にキスするその場面が、ちらりと見えてしまった。
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