八 無間蟻地獄
おなごを誑かす術を無間が使うことは、兄弟子に限らず、つとに世間が知るところとなっていた。といって、術に誑かされた女の
興福寺の機嫌を損ねるとどういうことになるか。当時、その権威を知る者に
ただ、おそらくは
翌年の夏であった。
日は、かなり西に傾いていた。
日陰を作る、興福寺、
己の足下に落ちていた木の枝で、そこに小さな円を描いてしばらく、それを無間は見下ろしていた。いつものように、少し離れたところから黙って法春は見ていた。
やがて、その円の中に何匹となく蟻が集まってきた。それが、円いっぱいに黒く広がったところで、無間はしゃがんだ。そうしておもむろに、円の真ん中に右手の人差し指の先を向けると、たちまちすり
慌ててそこから蟻どもが
「無間地獄……」
連想を、そのまま法春は口にした。
最後の一匹がその底に吸い込まれる前に、すっと立ち上がった無間は、その穴を凝視したまま、少し首を捻って、
「地獄が見えたか……」
とつぶやいたが、それは法春に投げられた言葉だったかもしれない。
その背後から、
「無間」
かけられた声は、油蟬の鳴き声にかき消されそうであったが、そちらに視線を法春は向けた。
しかし、己の術に満足がいかぬのか、蟻地獄に視線を無間は落としたままである。
「無間」
さっきより強い声で呼びかけた男は、右手を懐に隠していたが、
「さよを…… さよを返せ」
言うなり懐から
同時に振り返った無間は、その足下に素早くしゃがみこみ、鑿を突き出した男の両足を囲むように円を描いた。
鑿を握った男はとっさに無間を見下ろした。
「あ」
声を上げて法春が穴に近づいたときには、それはもう東金堂の陰を作る地面に還っている。
いせいに油蟬の声が止んだ。
若い仏師の姿はもちろん、無間の影すらない。
「無間さん」
穴のあった辺りにそっと呼びかけても、応える声はない。
「無間さん」
今度は少し声を張り上げた。
すると、またいっせいに油蟬が鳴き始める。
とたんに気配を感じて振り返った法春が、思わぬほど近くに立っている無間に面喰らいながら、それでも、
「あの男は?」
尋ねると、
「さて、地獄はどこにつながっているであろうか……」
とぼけたようにそれだけ無間は言うと、半眼のまま宙空に視線を放った。
大仏殿の裏にある池の
昼過ぎ、師僧に呼ばれて、
「死んだ仏師と興福寺の小僧が一緒にいるところを、東金堂の裏で見たという者がおってな……」
聞かれたが、法春は、
「存じません」
と、ただ答えただけで、無間の誑かした女の、仏師が係累であるらしいことや、無間の遣った蟻地獄の術について話しはしなかった。
もちろん、
「仏師が、なぜ鑿で喉を突かれていたのか、心当たりはあたるか」
と問われても、
「存じません」
身を低くして応じるだけであった。
「そうか」
言って
「法春」
と、改まった口調で、
「おのれは御仏の弟子か、それとも外法を
師僧は問うた。
「御仏の弟子にございます」
法春は即座に答えた。
「無間は、長く当寺に在する
「嵐から船を護る法を、まだ学んではおりませぬ」
「嵐から船を護る法?」
「鑑真和上の船を嵐から護ったと言われる法術にございます」
「それを、あの無間が心得ていると申すか」
「はい」
瞬時、師僧は微笑んだが、
「それが、もし仏道に
「ならば、僧兵によって力を誇示することは、御仏の教えに適うておりましょうや」
少し驚いた表情を見せたが、
「御仏の教えを世に広める方便じゃ」
と、重々しい声音を、ことさらにゆっくりと師僧は返した。
「……」
何か違うのではないかと思いながら、法春は抗弁できなかった。
そのときは、権威の
それから三日ほどして、
「やり直すか」
独り言のような言葉を残した夜に、興福寺から姿を無間は消した。
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