永遠なる問い

「前から訊いてみたかったことがあるんだ」


大きな事務机の上には大量の資料。その奥にある座り心地のよさそうな椅子に座り、彼は穏やかに問いかけてきた。


「……何でしょうか」

「君は、人を殺したいと思った事はあるかね」


 スケジュールが毎秒刻みの多忙な人物だという事に疑いはない。捜査一課の管理官ともなれば致し方のない事だろう。

 だが、そんな突拍子の無い質問をする程の余裕はあるのか、と思ってしまう事に罪はないはずだ。

 怪訝な表情を向けてやれば、管理官は「はは」と人のよさそうな笑みを零す。


「突拍子のない話ですまないね。……ま、ただの世間話だよ」

「随分穏やかではない話ですね」


 俺が返せども、表情は崩れない。

 捜査一課に所属してから長年の付き合いとなる管理官が、単なる世間話として俺にその話をするとは到底思えなかった。何か裏があるのではと勘繰っていたのがバレたのか、彼は一度目を伏せ、その続きを口にする。


「君は優秀だ。警部への昇進も間もなくだろう。……だが、そんな君にやっかみの声が上がっているのも確かだからね」

「随分あけすけに物を言いますね。普通そういうの、本人に言いますか?」

「隠し事や陰口は、君にとって有効ではないだろう?」


 だからといって、と反論する気も失せていた。そういった声が自分に対して向けられている事など百も承知だ。しかし、特段の弊害なく昇進自体は出来ている。目の前の上司の計らいであることは言うまでもない。そして、認めてくれているからこそ、先程の問いが投げられたのだ。

俺は口調を崩すことなく答えた。


「ありませんよ。あの時から、一度も」

「そうか。……ま、捜査一課の警部補殿が『沢山あります』なんて言ったら大問題だわな」


 彼はにこりと口元をつり上げると、先程俺が渡したばかりの報告書を軽く掲げて見せた。


「ああ、おかしなことを聞いて悪かった。今日はもう帰りか?」

「いや、別件の書類をまとめる予定なので、今日は泊まります」

「ほどほどにしとけよ」

「管理官に言われたくありません」


 今度は声を上げて笑う管理官に一礼して、俺は部屋を出る。外に出ると、通路に立っていた数人の刑事が、こちらを一瞥してすぐさま視線を外した。室内の話が聞こえていたのだろうか。だが、それは決して悪し様な視線ではなかった。

本当に、いつになっても管理官には頭が上がりそうにない。


庁内の廊下を歩き、ふと立ち止まる。

窓を雨粒が打っていた。夜闇から現れては窓に打ち付けられ、そしてひしゃげる水滴を、俺はじっと見つめる。


非難の声には慣れていた。昔から、形を変えつつ俺に降りかかっていたものだ。

だが、あの日から、その声は確かに俺自身へと向いていた。


当然だ。人一人殺しているのだから。


あの日。修学旅行先で、石井零士は持ち前の正義感から、一人の人間を助けるために裏組織の人間に喧嘩を売った。結果として妙な薬を打たれ、彼は錯乱して大事故を引き起こした。――それがあの事故に関わった俺、警察から告げられた真実だ。だが、実際に何が起こっていたのかを知る術などない。


唯一言えることは、事故を引き起こした石井零士は『善人』だった事。彼が佐々木幸平を意図的に殺すとは思えない。恐らく彼は、半身が千切れた佐々木幸平を救うために連れていたのだ。そして俺は、そんな石井零士を殴り殺した。ただ感情的に。衝動的に。


俺は殺人罪に問われなかった。正当防衛が適用されたからだ。どんなに殺しの事実を訴えても、――或いは訴えたからなのか――『罰しない』という結論は覆らなかった。

だが、刑事となった今でも、俺は周囲から「人を殺した」と認識されている。

そして、俺自身がそう思っている。

法が俺を裁かないのないのなら、俺はどう償えばいいのか。分からないまま、今日まで生きてきた。


――生きている。

それは救いだ。いや、救いだと、思わなければならない。


喉の奥に堰溜まった薄暗い異物。叫び出しそうな、絞り出すしかないそれを。取り除く術を俺は知ってしまった。

けれど、もう二度と取り去る事は許されない。

俺が許さない。


『カズ』


どうして人を救えるアイツが死んで、何もできなかった俺が生きているのか。


『――助けてくれ』


永遠に答えの出ない問いを、投げかけ続けている。

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BORDER 木村文輔 @adxxwb3140w

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