BORDER

木村文輔

在りし日の憂い

永遠に答えの出ない問いを、投げかけ続けている。


胸に溜まった薄暗い異物を取り除く方法を探していた。叫び出しそうな、絞り出すしかない“それ”は、いつだって僕の中にいる。


机の上で美しく咲く花を見つめ、ひとつ溜息をついた。窓際、一番後ろの席に飾られた白い百合。

最早見慣れた光景だ。遠巻きに注がれる奇異の眼を無視して、僕は花瓶を取り上げる。そして教室後ろの低い棚の上に、ことりと乗せるのだ。

その後はただ席の椅子を引き、学生カバンから自身の教科書を机に投げ込む。いつも通りの朝。ここ2カ月、このルーティーンが崩れたことはない。


いじめ、と呼べばそれまでだった。だが単純にそう呼ぶには、彼らにはあまりにも害意がない。毎朝飽きもせず花を供えるばかりで、それ以上の事は起こさない。いや、起こせないのだろう。

僕に向けられる目線は、怯え、恐れ、そして僅かな好奇心、でしかないのだ。


花が示す意図はひとつ。『学校に来るな』

それだけだ。


物心がつく頃には、父親が塀の中にいた。母親は『父は必死に組織を抜けようとしていたんだ』と言っていたが、僕にとってはどうでもいい。どんな綺麗事を並べ立てようと、父親が犯罪者であるという事実は、変わらず僕らの生活を蝕んだのだ。

住んでいる場所を転々としたが、数年も経たぬ内にどこからか噂が流れ、周囲の人間は僕と母親を忌避した。ひっそりと生きていく事に慣れ、それを受け入れていてもなお、拒絶され続けた。


小学校3年生の時、父親が犯した罪が殺人だった事を知った。

母親伝手ではない。その時近所に住んでいた女性が、遠巻きに、しかし大きな声で話していたのが耳に入ったのだ。

何故息子すら知らない事を、赤の他人で、それも僕らを避けている人間が知っているのか。

確かに僕が意識的に父親の罪状を知ることを避けていた節もあっただろう。だが、それにしても滑稽だった。父の罪状に対して何の感情も湧きはしなかったくせに、思わず笑いだけが込み上げてきた事を覚えている。

その時からだ。喉の奥に薄暗い異物が住み着いたのは。

叫び出しそうな、決して吐き出せないこの違和感は、大きくなることも小さくなることもなく僕の胸と喉の間に居座った。


「怖い」

「恐い」

「今はおとなしいが、怒らせたらきっと殺される」

「いなくなってしまえばいいのに」

「どうしてここに住むんだ」


周りの人間がそう言って僕達を遠ざける事を、僕はちゃんと受け入れていた。

だって、そうしない保証なんてなかったから。

侮辱されたり、殴られたり、あまつさえ殺されかけた時に、相手を殺したいと思ったことは幾度となくある。ただ、それをする事に意味を感じず、実行しなかっただけで。

目の前の人間は、自分という害を退けようとしているだけなのだ。彼らには彼らなりに正義や理由があって、僕を忌避している。

僕はこの世界にとって害でしかない。けれど、僕はできる限り無害でありたい。



ガラリ、と引き開けられる扉の音。

それまで僕に注がれていた視線が遠のくと同時に、思考が現実に引き戻される。


「一義君!おはよう!!」


その場の視線を一身に受けた人物が、大きな声で僕の名前を呼んだ。その挨拶を、僕は当然のように無視する。

ぐんぐんと近づいてくる気配はすぐ真横までやってきた。そして、視界の端でニカリと笑いながら声をあげた。


「お!は!よ!う!」

「……おはようございます」

「なぁ~一義君。いい加減、敬語は取ってくれよ」

「……」


ぐ、と喉を絞る。薄暗い異物が口の中を満たしかけるが、辛うじて飲み込んだ。

彼は僕から反応を得られないと分かると、やれやれと言った様子で前の席の椅子を引く。

僕は鞄から一冊の本を引っ張り出し、挟んであったしおりを頼りにページを繰った。

前方から性懲りもなくかけられる声を延々と無視し続け、朝のホームルームが始まるチャイムが鳴った瞬間に本を閉じる。

眼前に映る少年は、茶色い短髪の生えた頭をポリポリと指でかくと


「なんでそう頑なかな……」


そう呟いた。

教室前方のドアが開く。担任の「おはよー。朝のホームルームはじめるぞー」という間延びした口調。それまで立ち上がって雑談していた生徒は、誰もがおとなしく席に着いた。

担任は前方の席から出席番号をとってゆく。


「美月一義」


名を呼ばれ、僕は淡々と返事を返した。

名前のような変わった苗字。父親の姓だ。

父親の無実を頑なに信じる母親は、離婚という選択肢を取る事も、姓を変えるという事もしなかった。

このおかげで僕達の素性が周囲にバレる事は数多く、最初は僕も母親の愚行だと思っていた。けれど、きっと彼女は彼女なりの考えを持ってそれを貫いていたのだろう。

そもそも、僕を放り出すこともせず、義務教育を終えてもなお高等教育機関に通わせてくれている母親には、感謝こそすれ、恨みなどあろうはずがない。

この姓が嫌であれば、僕はさっさと母親の元から離れ、就職なりなんなりすればよかったのだ。それを選ばなかったのは僕なのだから、文句を言う筋合いもない。


「ねぇレイジ……いい加減かかわるのやめなよ」

「なんで?」

「いや、なんでッて……」


担任がクラス名簿を読み上げている最中、前方の男子生徒と右斜め前の女子生徒の声が僕の耳に届く。隠そうともしない声量は、間違いなく僕にも向けられていた。


「一義君は何一つとして悪い事はしていないじゃないか。何もしていない人間を避ける方がおかしくないか?」

「いや……それはそうかもだけどさー……」

「おーい、石井。石井零士。遅刻かー?」

「うわっひでえな先生!どう見てもクラス全員そろってんじゃん!!」


名を呼ばれおどける彼に向けて、クラスの数人がくすくすと笑う。

好意に満ちた笑みばかりだ。――そう。分かっている。彼は、石井零士という人物は、確かに善人なのだ。

僕は静かに目を閉じ、喉の奥までせり上がった感情を何とか飲み下す。異物、としか言いようないそれが何の感情を孕んでいるのか、僕には分からなかった。だが、それが多くの感情を綯交ぜにした黒々としたものであることは確かだ。

そして、彼が近くに寄るたびにその異物は存在を主張し始める。

あぁ、なんて煩わしい。近寄らないでほしい。放っておいてほしい。ただ、ただそれだけで良いのに。


「あー。まぁ、皆も多分知ってると思うんだがな」


律儀に出席を取り終えた担任が、徐に咳ばらいをして切り出した。

その瞬間、それまで教室のいたるところで勃発していた小さな話声が一気に止む。

僕はといえば、一番後ろの席を良い事に先ほどまで開いていた本を再び開き、文字列を目で追う事に忙しい。

文庫カバーがいちいち取れかかるのが煩わしかった。エラリー・クイーンをはじめとした推理小説を読むことは好きだが、あらぬ噂を立てられないためにはブックカバーは必須である。


「今日からクラスに仲間が増えるからな。転校生だ。仲良くするんだぞ」


「うちのクラス、他のクラスより人数1人少ないからクラス対抗戦不利だったもんなー」と続けながら、担任が黒板にチョークを打ち付ける音。

だが、担任が続きの言葉を紡ぐより先に、教室の扉が開く音がした。


「あ、やっべ」


そう声が聞こえるや否や、バン!と教室の扉が乱暴に閉められる。

思わず顔をあげるが、そこに『転校生』らしき影はなかった。どうやら先走って扉を開けた癖に、入らずに閉めたようだ。

一瞬唖然とした雰囲気に包まれた教室が、誰かが吹き出した事を皮切りに笑い声で包まれる。


「あー……。佐々木。入ってきて良いぞ」


苦笑ともつかない表情の担任が扉に向かって手招きすると、彼はそろりと扉を開け、愛想笑いを浮かべて入ってくる。

短い茶髪に快活とした表情が似合う少年。のように見えた。


「うわー……初手からミスっちまったんでクソはずいんすけど、えっと、佐々木です」

「いや、下の名前」

「あッ、コーヘーです!幸せな平面で幸平!」

「幸せな平面ってなんだよ!!」


前方の人間からヤジが飛ぶ。笑いに包まれる教室。まるでその場の全員が陽だまりに浸かったようだ。

恥ずかしそうに頭をかきながら苦く笑う少年は、そんな笑顔を一身に受けている。

僕はそれだけを確認して、再び本に目を落とした。


あぁ、きっと彼も『良い人』なんだろう。

少なくとも、他者を笑顔にできる人間だ。僕とは違う。

そんな感想に、僕自身の感情はない。


「んじゃ、佐々木は一番後ろの席な」

「マジすか!?俺目ェめっちゃいいんですよ!」

「だから何なんだよ」


呆れ気味の担任が言葉を返す。脈絡のないそのやり取りがツボに入った人間も多いようだ。

先程まで僕に視線を送っていた人間が変化したわけではない。人間の変わりようは不思議なものだと感嘆さえ漏れる。

転校生は、担任に指定された席へと歩いた。教室の一番後ろ。窓際から数えて二番目。つまりは僕の隣だ。


「あ、よ、よろしくな?」


席に着くと同時に、何故か疑問符の付いた挨拶。

僕が本から顔を上げれば目がしっかと合ってしまった。逸らすタイミングを見失い思わず硬直した途端、目の前に手を差し伸べられる。


「俺、コーヘー。おま、き、……あー、なた様は?」


おまえ、きみ、あなた、と探して着地したのが『あなた様』とは、随分言葉選びが下手らしい。

眼前の少し抜けた様子の少年にかけられた問い。僕がそれに答えたのは、ほとんど反射のようなものだった。


「……美月」


瞬間、教室内の空気が凍り付いた。

奇異の視線。だけではない。不信感、驚き、それから、不安だろうか。

あぁ、失敗したのか、僕は。いや、挨拶をされて返す事の何が悪い。僕は何も悪い事をしていない、はずだ。

けれど、自信はなかった。周囲が何を考えてこの空気を作り出しているのか僕には分からない。

胸と喉にあの不安な塊が押し寄せるばかりで息が詰まる。


「へー。ミツキ。良い名前だな!」


差し伸べられた手を引っ込めることなく、彼は僕にそう言って笑いかける。

が、僕にその笑顔を見る余裕などなかった。


――僕は、この手を取るべきなのだろうか。

分からない。分からない。

視線は何を考えているのか。名前を名乗っただけでこの空気になる程だ。手を取ったら、どうなる。


僕は

僕は無害でありたい。それだけだ。どうすればそういられる。

掻き混ぜられる思考がショートするその寸前、不意に横から彼の手を掴むものがあった。


「コーヘーっていうんだね!よろしく!オレは石井零士!」

「え?」


僕の前に座る石井零士が、転校生の手を取って握手をしたのだ。

――助かった。のだろうか。少なくとも僕が彼から視線を逸らす理由はできた。

転校生は突然割って入った石井零士に気を取られたようで、困惑しつつも愛想笑いを浮かべ直している。


「仲良くしろよぉ。じゃ、一時間目の準備をしてください」


そう担任が締めくくると同時に、僕は英語の教材を机から引っ張り出し席を立った。


「あ、ちょい」


転校生は何かを言いたげだったが、聞こえないふりをする。

僕が彼の背後を何も言わず通り過ぎるなり、転校生の周囲にはあっという間に人だかりが出来上がった。


「ねぇねえ!どっから来たの?」

「部活何入るとかあんの?」

「え?あ、えっと、……どっから?トーキョー?」

「東京!都会っ子じゃん!」

「てかウチの学校、3年の修学旅行先東京だよ?里帰りじゃん」

「えっ、マジ!?うわー、沖縄とか行きたかったわ」


――あぁ、良かった。


背後から聞こえてくるそんな言葉を、声を聞いて、僕は安堵する。

転校生に対する対応を僕は少し間違えたかもしれない。けれど、変わらなかった。

ちゃんと、僕は無害でいられた。


僕とさえ関わらなければ、転校生の彼は、これから先きっと明るい高校生活を送る事ができるだろう。


決してこの学校は陰湿な訳ではない。

誰しも他人の机の上に花を置くなんて遠巻きな嫌がらせを好んでやりたい訳がないのだ。

彼らは僕が怖いだけ。僕さえいなければ平穏な生活を送れると信じているだけで。


ごめん。僕は無害でいるから。何も、何もないから。だから、せめて存在する事は許してほしい。


教室を出る僕の背後からは転校生を歓迎する声が絶えず湧く。

僕は後ろ手に、ゆっくりと扉を閉めた。

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