四、仮面と実

 夢の中、私の手には、一尺余りの観音像があった。古様にして肉厚の容貌、力強い衣紋の表現、金色の玉眼。聖人の持仏だと認識していたが、その身体付きは、若い女人とまるで違わず、豊かな乳房を備えていた。

 肩の天衣を脱がせると、観音は声を出せないのか、身を捩って恥じらいを示した。私は手を止めなかった。椿の蕾の、硬く閉じた花のしべにたどり着くまで一心に、花弁を一枚ずつむしり取った幼児の記憶が甦った。気付けば私も衣をまとっておらず、膝の上には、小さな観音の衣や宝飾が散らばっていた。

 娘のような桃色の頬をした観音は、私へと両手を突き出して、金色の目に涙を浮かべながら、首を振る。その唇の動きが何を訴えているのか、私は読み取ろうともせずに、柔らかな乳房へと唇を寄せた。淡く濡れた肌が、唇に張り付く。桃の香り。強い官能が、身体の底から突いて湧き出でた。

 痺れるような不快感に飛び起きると、悪夢の冷や汗とは異なる興奮の発汗が、全身を濡らしていた。拾もまだ起きない薄闇、部屋を抜け出し、裏庭の井戸で冷水を被った。

 私はそれまで、自ら水を汲んだことがなかった。着物を洗ったこともない。荒縄を引き上げる手は、何度目かには擦れて痛み、終いには血も滲んだ。

 生体の衝動は浅ましく、したたかだった。私の意識が、どれほど浄らかさを求めても、無意識には因縁深き悪欲が、発露の機を伺っていたのだ。ついに今朝、幾重もの抑制を押し退けて、排出されるに至った。


 その日は、夏籠りである夏安居げあんごが始まる前日で、衣替えの休暇日だった。拾へは、水垢離の訳を、清浄な寺より出る前の潔斎だと述べた。拾は疑いもせず、丁寧に髪を梳いて乾かすと、いつも通り、櫛目正しく結い上げた。

 朝の勤行を終え、拾に葛籠つづらを背負わせて、半里の道を東に歩いた。

 たたなずく青垣、大和を囲む峰々を境に、夏雲の青空と、それを映した盆地の平たい水底があった。連日、田楽囃子が響いていた通り、田植えは着々と進んでいるようだった。風の塊が時折、早苗を分けて細波を起こしては、道筋の跡を見せる。波を扇に広がらせ、畝を越えて、私たちにも吹き寄せた。

「夏は良えもんですねぇ。春も良えですが、夏はこう、いろんなもんが元気で、なんや気ぃを分けられますわ。そいで、走りたなるよな気ぃのしませんかぁ?」

「そんな、子どもでもあるまいに」

「え、大人だろうと走りますでしょう? 気持ち良えですのに。あ、走ってみません?」

「はぁ……何処なりとも勝手に行け」

「そんな、義王丸さま置いて行くわけにいかないじゃないですかぁ。一生、お側離れずお仕えすると誓っとるんですよ?」

 私の八つ当たりに等しい溜息に、拾がしょぼくれた顔を大袈裟に振って見せた。私は朝日が目に入らないように、笠を深く引き下げた。眩しさは苦手だった。

「そなた、十善戒じゅうぜんかいの五つ目、言うてみよ」

「あー、ええっと……? なんや、やったらあかん、のですよね?」

不綺語戒ふきごかい、無益なことは言わぬこと。そなたの話には、思惟しゆいがないのじゃ」

「シ、ユイ……」

「考えろということじゃ。感じたままに滔々とうとうと述べるでない」

「――ああ、義王丸さまぁ!」

 歩みを速めた私を、拾が追い駆けた。拾の方がよほど健脚だが、私も意地になる。

 田に影を落とさないように低くられたくわの木が、東へと伸びる道を縁取る。鱗のように茂った桑葉の陰では、口内に酸味を思い出させる未熟な赤い実が、風に吹かれては互いに身を寄せていた。

 拾は長身を屈めて、私の笠の下を覗き込んだ。真剣を向けるような黒い眼差しが、間近に訴える。

「義王丸さま、義王丸さま。聞いてくださいったら、ねぇ。俺の言葉なん、義王丸さまには益もないかもわかりませんけど」

「――かしましいのは好かぬ」

 更に笠を下げて顔を背ければ、拾は、小さな声で言うからと弁明して、それでも、私よりずっと大きな調子で話し続けた。

「確かに俺、全くシユイのできておりませんけれども、もうずっと前から、本当、義王丸さまにお会いした日ぃから、毎日思っとります、この慈悲深きお方に一生って。考えなしに言うとるわけと違います」

「考えた時間の長短ではない。心とは無常なものじゃ、変わりゆくものじゃ。一時の心境に基づいて誓い立てるとは、愚かなこと」

「そしたら、五十年後に答え合わせしてみましょう!」

 さも良い思い付きであるかのように、拾は白い歯を惜しげもなく見せた。私には恐ろしく、応えられない。話を逸らした。

「……随分と長生きするつもりじゃな、古希こきとはのぅ」

「運が良ければ、古希、喜寿きじゅ、えっと……? まぁ、八十くらいまでは生きれるみたいですからね。俺のいた村でも――」

 低い鼻梁びりょうの向こうには、濃い眉毛と、同じく濃い睫毛まつげが見えた。私と目が合えば、この上なく嬉し気に笑いかける目。私は、延々と続くおしゃべりを聞き流しながら、秘かに拾を憐んでいた。悲しいほど、寺には似合わない明るさ、純粋さ、単純さ。

 拾は、自身に相応しい世界が何処であったか、考えようと試みもしない。初夏の薫風を切って、意のままに走り抜ける日々こそが、本来であったはずなのに。今となっては、醜い私を尊ぶまま、観音の幻影に縛られたまま、一生を私の側にて終えるしかない。

 私は、この男の幸いを担って生きねばならない。いっそのこと、そのまま、何も考えずにいてほしいとも思った。私の側こそが至高であると疑わずにいられたなら、拾の認識の中で、拾は幸いなのだから。

 拾が、熟した桑の実を探し出して、三粒の内、二つを私に差し出した。口に含めば、甘酸さが身に沁みる。この好ましい若者が、せめて極楽往生できるように、左袖の下で水晶の数珠玉を一つずつ繰りながら念じた。

 

 長谷川の集落は、二間幅の環濠かんごうに四方を囲まれており、堀の土手には孟宗竹もうそうちくがひしめく。西の跳ね上げ橋を渡ると、紺屋こうや紙漉かみすき屋が軒を連ねる町が置かれ、町の中心にはさらに堀を巡らした長谷川の館があった。

 家人に案内を受け、拾を庭に残して、母屋の南縁から広間へと上がった。板敷の十二畳間には、薄い畳が二枚、一間を空けて置かれている。下座側に座り、安禎を待った。

 細い柱に縁取られた南庭では、拾が数羽の雌鶏めんどり揶揄からかって追い歩く。放し飼いでも逃げ出すことはないという。畜生とは、給餌きゅうじと寝ぐらのある場所から敢えて逃れはしないものだ、などと考えを巡らすうちに、片足を引きずる足音が聞こえ、私は畳に手を着いて、安禎の入室を迎えた。

 一畳は孤立の島、一間は疎遠の隔たり。袖に隠れる数珠に念じて、情緒の笑みを保ち、顔を挙げる。安禎が頷き返した。

「日々、お励み賜いけると、聖人殿より聞き侍りけり。まこと、よろしきこと」

「かたじけなきお言葉にぞ侍りける」

御坊ごぼうにご不足、あり賜わずや?」

「ありがたきご案じにぞ。別なることは、侍らずとぞおぼゆる。おやかたさまも、お風邪ご快癒遊ばさるると。安心し侍り」

「義王丸殿の御祈祷にこそ」

 五十を過ぎた安禎はすっかり老けて、何処にでもいるような好々爺こうこうやの笑い声を挙げた。

 何故、幼きころの私は、この男を父ではないと思い込んでいたのか。安禎をお館さまと呼ぶことも、断固として父上とは呼ばなかった結果だった。

『吾は仏の子にぞ侍る。現世には、父をも母をも持たじ』

 そう宣言したのが、六つの時。安禎と乳母が、呆れたような恐れたような顔を見合わせたことを覚えている。

 安禎は決して、私を冷遇などしなかった。妾に生ませた子故に、館の外にて養育したが、集落外れの小さな家へとよく訪れたし、衣食にも学問にも、不足を覚えさせなかった。七つよりは寺に出されたが、それも庶子の厄介払いとは違う。

 安禎は、私を法貴寺の貫首となるまで育て上げることが、人生最大の功徳と考えていた。幼き私を将来の仏弟子として扱い、稚児名を得てからは、嫡子にも用いない尊称をもって私を呼んだ。

「――義王丸殿は近頃、何をかお習い賜いける。お聞かせ賜えるか?」

 一昨年の落馬で痛めた右脚は、膝が曲がらない。左脚ばかりを胡座あぐらに、右脚は畳から下ろして摩りながら、安禎はありがたいものを見る目を私へと向けた。

 私は自身の格好に相応しい、理知と慈愛の顔をして、仏の救済ぐさいを語った。最後、左手に水晶の数珠を握り、右手は安禎の膝へ据えて、痛みが減ずるように、薬師如来の真言を唱えた。説話集にでも出てきそうな孝行息子の格好を取りながら、私の胸中は、言い表せない不機嫌と罪悪感とに掻き乱されていた。

 乳母より夏衣の葛籠を受け取り、安禎からはたくさんの饅頭まんじゅうを箱入りで持たされ、私たちは桑の木の道を戻った。

「いやはや、お父上さまは本当、義王丸さまのことをいつくしまれておいでですなぁ。お饅頭、良え匂いですわぁ」

「食べてよいぞ、吾は要らぬ」

「え、お好みじゃありませんでしたか?」

「甘味は贅沢じゃ」

 違う。私は覚えている。安禎に懐かなかった幼い私が、唯一、安禎の手より受け取ったものが、甘茶の饅頭だったのだ。以来、安禎は何かにつけて、私へと菓子を与え、そのたびに、乳母は、私に代わって大袈裟に喜び、私が如何に喜んでいるかを安禎に伝えた。

 菓子の授与は、儀式だった。私は、受け取る代償としての微笑みを覚え、二人に見守られながら食べた。菓子が高価であり、庶民の口には余程入らないとは、すぐに知るようになった。余計に、美味いと思えなくなった。

 未だに要らないと言い出せないのは、息子の孝心を捧げられない代わりに、安禎が喜ぶのなら黙ってもらっておいてやろうとの、傲慢な心に基づくのだ。

「……拾は、饅頭を嫌いではなかろう?」

「ええ、まあ。ですけど、義王丸さまがお召しにならないのに、俺だけはいただけません」

 しばらく勧誘と遠慮とが繰り返されたが、折れない拾が面倒になった私は、もうよいと話を切り上げた。

「そなたは要らぬのじゃな? ならば、悲田院へ持ち行くぞ」

「あ、それが良うございますわぁ! 流石は義王丸さま、慈悲深きことにございます」

 私はもう答えもせずに、葛籠を背負い饅頭の桐箱を提げる拾へと背を向けて、足速に歩き出した。悔しいことに、私の息が弾むころになっても、拾は軽い足取りのまま、おしゃべりを続けながら、ついてくるのだった。


 悲田院が置かれた塔頭の本堂に、子らが集められる。乳を離れたばかりの三歳から、十二歳までの十三人。長谷川荘内に生じ、今は長谷川が預かる子らだ。いずれ、何処かの家の奴婢ぬひとして買われていく。その代金が悲田院の運営に当てられていた。哀れとは思えども、仕方のないことだった。

 私は、長谷川に属する者として、彼ら一人ずつの頭に手を乗せて念じた。健やかなままに長じるように、険しい行手ゆくてにせめてもの幸いがあるように。梳かれもしない髪、粗末な麻の衣。子らの身形は良いとは言えずとも、背筋を伸ばして合掌する様は、既に仏弟子の姿だった。

「――さらば、長谷川のお館さまより、善き子らへと賜りける菓子をば渡さん」

 拾へと顔を向ければ、拾は笑顔で頷き、子らが膝前に広げた懐紙へと、甘茶色の饅頭を乗せていった。

「ほら、良え子にしとったか?」

「良え子にしとるよ、喧嘩もしとらんよ」

「おお、偉いなぁ。良え子やなぁ」

 男児の頭を撫でる手付きには、形ばかりの私とは違う、心よりの慈愛が表れていた。

「良え子になぁ。良え子にしとったら、きっと良え家に引き取ってもらえるわ。良えご主人さまがいたら、きっと寂しゅうのうなる」

 拾の言葉に、胸が痛む。これほど不機嫌で慈悲のない主を、拾は何故、愛するのだろう。今も、私を振り返り、幸いに満ちた笑みを見せるのだ。私は微笑み返せない。

 房主の号令に合わせて、子らが大きな声で礼を述べ、饅頭を頬張る。口々に美味しいと言い、笑い声を挙げる。房主は重ねて私へと謝礼して、流石は良寂聖人の御秘蔵ごひぞう、流石は生観音のご慈悲と拝んだ。

 私は、改めて己の醜さに恥じ入った。富者ふうじゃの傲慢。形ばかりの善行。手の内に転がり込んできた品を、棄てるも同然の心地で下げ渡しただけだ。しかし、聖者の顔をして。

 私とて、母がいないのだ。彼らと並んでいたとして、隣に座る子へと饅頭を分け与えられただろうか。否、むしろ、如何にして二つ目を得るか、考えていたに違いない。

 私は、偶然にも、金色の玉眼を持ち、長谷川の家に生まれたために、義王丸の名を与えられ、施す側に立ちえたのだ。

 私は、他者と争わずとも生きられる。奪ったり、盗んだり、殺したりせずとも。義王丸の名が、私を粛々と生きながらえさせる。醜く愚かな私を、仮初かりそめにも浄くあらせてくれる。

 だからこそ、私は、自身が観音でないと知りつつも、観音を演じ、他者へ施すのだろう。名を疑われては、生きていけないから。

 人と欲とがひしめくこの世で、私が生きるために許された隙間とは、この名に与えられたものと等しい。饅頭の代償に、安禎への微笑みが求められたように、生の代償に、長谷川のために祈り、聖人に抱かれるだけの話。

 私は、やはり幸いな者だ。名にし負う義務を果たす限り、俗世の穢れから離れ、仏道に専念して生きられるのだから。この名に感謝して、浄くあれるよう努めなくてはならない。私は、善き仏弟子、善き主として生きる。 

 夏安居が始まり、梅雨が来て、私の得度式とくどしきの日取りも、八月の朔日ついたちと決まった。

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