飼い猫-3-
バタンという、扉が開く音で目が覚めた。それは人間の帰りを告げる音でもある。体を伸ばし欠伸を一つ。「ただいま」という声を聞き、その声につられるように人間の元に向かう。
それから人間は「トト、元気だったかぁ」と私を持ち上げて頬擦りをした。私は、それに答えるように人間の頬を舐めると、人間は少しばかりの疲れの色を見せつつも、満足そうに微笑むのだ。
その笑みに、私は答えたい。「とても嬉しそうだね」と、そう語り掛けたいのだ。
「ニャー」
人間の足にすり寄って鳴いてみせることしか出来ぬ私であるから、精一杯人間にすり寄った。足元をグルグルと回った。いつも以上に、今日はそうしたかった。
「いつもありがとう」「愛してくれてありがとう」「出来る事なら、あなたと話がしたいのです」「私の声は届いていますか?」
しかしながら、人間はいつまでたっても笑っているだけで、時折私の頬を撫でる程度であった。
ああ、やはりダメなのだ。私の声はあなたには届かない。分かっていたことではないか。私とあなたとの間には、この世界と外の世界を隔てるあの目に見えぬ壁がある。それは透明であるから、こうして私はあなたのことを見ることが出来るけれど、決して触れ合うことは出来ないのだ。それがこんなにも辛い。あなたは、私のこの辛さが分かるのだろうか。この辛さを直接知って欲しくはない。ただ、そのように私が思っているのだということを知っていて欲しい。
試しに喉をグルグルと言わせてみても、「ご飯は少し待っていてね」と言うばかりであるから、私はついに鳴くことを止めた。なんだか途端に馬鹿らしくなって、人間の手を軽く噛んでやりたくすらなった。
私にも牙はある。私の中にも牙はあるのだ。私は、あなたのことを傷つけることが出来てしまう。口を開き、その手に牙を立てれば、たちまちあなたは血を流すだろう。その時、あなたは私をどのような顔で見るのだろう。私のことを嫌うのだろうか。
「シャワーを浴びたら、ご飯を上げるよ」
人間は私の頭を撫でる。実際に口を開けてその手に喰いつこうか、どうしようかと、考えを行ったり来たりしているうちに人間の手は私の頭を離れる。そうして、人間は私の前から消えた。
結局私は人間に牙を立てることが出来なかった。本当に不甲斐ない。私は、結局何がしたかったのだろう。背中を床に擦りつけている内に、自分いうものが擦り減っていくようで、何も分からなくなってくる。
思いっきり外を駆けまわりたい。自由に、外の世界の広さに触れたい。この、全身にねっとりと纏わりつく黒い霧を振り払い、私を掴み取りたいのだ。
いつもの窓際へ行き、空を眺める。空は暗く、雨粒が絶え間なく地面を叩いている。
ああ、私はいつも、この場所から目に見えぬ壁越しに、外の世界に憧れの念を抱いて見つめていることしか出来ぬ。
嘆かわしく、またいつもよりも胸の内が晴れ晴れとしないものであるから、腹いせに右前足で目に見えぬ壁を叩く。するとどうだろう。今までビクとも動くことがなかった壁が動き、左端に背の高い細い隙間を生み出した。この狭い世界と、まだ見ぬ外の世界とを繋ぐ抜け道が、私の目の前に開いたのである。
抜け道に近づくと、轟々と風が吹き荒れる音が聞こえる。その音は、私の奥底に眠っていた何かを呼び覚ますようだ。目覚め行く何かは、未知に対する恐怖を踏みつけて行く。
足を動かすだけで良い。足を動かすだけで、憧れの場所へたどり着くことが出来る。
灰色の雲に覆われた空から聞こえた何かの鳴き声が、私を縛り付けていた最後の鎖を引きちぎった。
水滴で濡れた床を踏み、そうして一歩前へ踏み出した。
風が顔を殴る。降り注ぐ水滴は体を貫いて行くようであった。
世界は広かった。終わりが見えぬ。壁なんてものはどこにもない。足さえあれば、どこへでも、どこまでだって行ける。
私は駆けだした。抑えることが出来なかった。何かが私を突き動かし、また何かが私を導くのだ。後ろを振り返る余裕などない。ただ、私は駆け抜けた。空から降り注ぐ水滴が、地面に落ちて飛び散るよりも早く、私は駆けた。
何もかもが新しい。こんなにも人がいる。まだ見ぬ、名前すら知らぬもので世界は溢れかえっている。
時間が歩みを始めたようであった。あの狭い世界で人間と共に過ごした時間は、まさしく停滞していた。この空から降り注ぐ水滴こそ、私が氷解していく証拠なのだ。雨の後には晴れることを私は知っている。晴れ晴れとした青空が待ち遠しい。ずっと、雨の後に広がる悠々とした青空を、私はあの狭い世界から透明な壁越しに眺めて来た。
さあ、早く私に青空を見せてくれ。そして、私の知らぬ世界を見せてくれ。
脚は止まらない。止まることなく濁った水たまりを踏み、水滴をまき散らして進む。地面に水が溜まるなど知らなかった。こんなにも人間がいるなんて思わなかった。あんなにも大きな鉄の塊が、とてつもない速さで行列を成すなど知らなかった。空がこんなにも遠いだなんて想像以上だった。
私は浮かれていたのだ。フワフワと、思いもしない所から欲していたものが私の元に飛び込んで来たのだから、はしゃぐなと言うのは酷であろう。足元など見るはずもない。遠くにある見慣れぬ景色に気を取られ、間近に迫るものに気が付くこともなかった。
そんな私を立ち止まらせたのは、遠くで起きたある出来事であった。遠くから、「キィィ」と聞き慣れない甲高い音がしたと思えば、行列を成していたあの鉄の塊が一瞬乱れた。それから、止まった車は何事もなかったかのように再び行列の方へ戻って行った。
何が起こったのだろうかと、車が止まった辺りに近寄り眺めると、道に一匹の猫が横たわっていた。始めて見た私の仲間であった。私以外の猫を、私は初めて見たのだ。私と同じように外の世界を目指してきたのだろうか。ともかく、ようやく私以外の誰かと言葉を交わすことが出来るかもしれないと心が躍った。しかし、それは瞬きをした直後、綺麗に消えた。
血が流れている。腹から何かが飛び出している。私はすぐに、あれは骸なのだと悟った。初めて見た仲間は、雨に打たれようが走ることもなく、行列に避けられ血を流しながら道で倒れている。
悟って、途端に雨が酷く冷たいものだと感じた。冷たくて、冷たくて、どうしようもないほどに冷たい。温もりが欲しい。あなたの温もりが欲しい。あなたの熱で、私を暖めてほしい。
「ニャー」
鳴き声は誰の元にも届かぬ。誰も私を撫でてはくれぬ。私が知っている者などどこにもおらず、私を知ってくれている者などどこにもいなかった。おまけに、ここがどこなのかも分からぬ。私が暮らしてきた、あの狭い世界がどこにあるのか全く分からない。
「ニャー」
この広い世界で、私は独りであった。
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