第42話

「宗教馬鹿なんてものじゃなかった、完全に狂人じゃない。ねえ、ジーノとミモザを連れて、早くここを出ましょうよ。そうだわ、さくらとかいう子が錯誤神サクラスだというなら、神が人間ごときをやってやれないわけがないじゃない。彼女を頼りましょう」

 ユッタがリンとともにあてがわれた邸宅に入ったのは、神官たちが一斉に祈りはじめてからすぐのことであった。明かされた神官の目論見にどう対処すべきか、コウをあのままにしてよいのか、考えることはいくらでもあるのに、それもまともに考えられないような認識能力の変調が、ユッタの中の天使にだんだんと生じてきていた。そのことに慄然として、ユッタは布団の中にうずくまっているしかなかった。

「今は何も考えさせないでくれ」

「なに馬鹿なこと。あの巨人に取り込まれた女の子、知り合いなの。それだったら彼女も連れて、とんずらこくべきと言っているだけじゃない。どうしたのよ、一体何があったというの」

 リンの言葉が、ほとんど聞き取れなくなっていた。意識が、肉体から離れつつあった。

 ユッタはコウのことを考えていたはずだった。天使の知性を得た自分を、現実に引き留めている唯一の未練が彼女だった。凍境に入る前から気にかかっていた、どころか、蝶波ちょうばを離れてからずっと意識の片隅にあった。いつも彼女のことを考え、今もそのことに変わりはないはずなのに、その面影を脳裏に思い浮かべることができなかった。神官たちの目指した、信仰と性愛の完全なる分離。それはユッタも望んでいたことだったが、それは人として生きる限り、修道士として生きる限り、逃れ得ない苦悩である。それを拒絶した報いを今、受けているというのだろうか。天使を夢見た傲慢な人間の末路が、これだというのだろうか。

「起きなさいよ、あの子を助けに行くんでしょう」

 あの子、とは、コウのことだ。コウ、と考えた瞬間、見知らぬ神官が目の前にいた。ユッタは見覚えのない部屋にいた。柱も壁紙も調度も全て真っ白に塗られた狭い四角い部屋にベッドがあり、その上に修道服をはだけた神官が笑っている。とうが立った年頃だがそれだけ肉体は熟れており睫毛の長い憂いがちな瞳に吸い込まれるような美女である。その見目良さは幻像エイコーンに勝るとも劣らず、乙女の柔肌にはしっとりと汗ばむほどに体温が感じられる。ユッタの全認識を支配していたはずの幻像エイコーンは消えて代わりに何か考えるそのたびに知らない神官が実際に目の前に現れる、ユッタの脳内に浮かんでいるのではなくユッタの躰自体が神官たちのもとへ瞬時に翔ぶ、躰ではなく意識だけなのかもしれないがむんと香り立つ香水と陶酔しきった女の耳元で囁く天使に愛を囁くユッタではない天使に囁く囁くような声、声音がいやらしい、神に仕える聖女がそのような売女の声を発していいはずがないとそう思うと「天使様との合一に卑しいことがありますか」目の前の神官が口を開いて言うがその言葉は直接頭の中に響いてくる瞬刻に凝縮されて伝達にラグがない。「どうなっているのだ」「天使様の知性はもはや我々しか見えません」「なぜだ。ここはどこだ、コウはどこにいる」「あなたは模像によりて真理を受け取ってしまったのですよ」「何」「あなたの認識能は我々が捨てた肉体をのみ感覚像、観念像とすることが許される。天使的知性は我々が捨てた肉の性愛の情念の祈りのみ呪いのみを受信する。それ以外に認識すべき事柄など地上にはもはや存在しない。肉体の感覚を全て取り払ったあなたは考えるだけで唯一のこの世の答えである清らかな女体に時間と空間を超越して到達する。それ以外はノイズであって悪しき霊は悪しき肉以外に目的を持たない。天使さま私たちの魂とはなんなのでしょう、神の与え給う奇跡でしょうか、感覚的経験の集積でしょうか。私は欲望したくない私は欲望されたくないのです。それは天使さまも同じでしょうひとつです私たちも」「うるさい、コウはどこだ」「彼女と私たちはもはやひとつです。私がコウ」「違う」「あなたはなぜ彼女を求めるのです」「なぜ」「その心根の正しいためですか、その肉体の清浄なるためですか、その唇が愛をささやくためですか、顔かたちが整っているためですか、さらさらと髪の綺麗なためですか、頬にきざす赤みが初々しいためですか、大きな瞳でまっすぐにまなざすためですか、睫毛の長いためですか、うなじの線の美しきためですか、小さき肩のななめに落ちるのがなよめかしきためですか、腰の細いためですか、脚の白いためですか、指先があなたを求めて動いたためですか。あなたのなかで彼女を彼女たらしめているものとはなんなのですか」「あいにくぼんくらで、そんなつぶさに女を見てはいない」「ならば私でもよいではありませんか、彼女とどこに違いがありますか」「言葉にできれば苦労はしない」「それではあなたは彼女を認識できない」「そんなことは」「できませんよ」頭が強く震動した。神官が消え、目の前に銀髪と赤目の女性が。「……いわよ……ているか知らないけれど、早く起きなさいっ」

 っ。目と鼻の先にリンがいた。それ以外に何かを認識することは危険だが多少頭は醒めた。

「あたしを助けに来たときから、君の様子がおかしいことには勘づいていたけれど、頭を強打しなければ白目をむいたまま応答しないとはどういうことなの。仮にもあたしに誓いを立てたのだから、事情くらいは白状してもらわなくては嘘になるわよ」

「小生の天使的知性が神官に乗っ取られた。美少女をしか認識できないのに、つけこまれた」

「はあ?」

 なにを言っとるのかと怪訝なリンに、少しでも何か伝わるようにとユッタは口を動かした。

「おそらく肉体を捨てた全神官の精神が融け合いひとつの巨大な霊体となって空間的にイメージすれば凍境中を包み込んでいる、そして廃棄された肉体も同時に魂が抜けていても器官的感覚だけでゾンビのように空疎な意識を保ち続けている。取り残された性愛の欲求が模像の神に祈り続け小生の認識を犯している、純粋精神となった神官たち普遍的一者となった彼女たちが至高神といつ結ばれるのか果たして本当に結ばれるのかは定かでないがそのときが来るまで小生を模像の愛玩物として弄ぶつもりなのだ小生が壊れるまで。同じくほぼ純粋精神と化した小生が幸運にも壊れられるかも分からない意識が続く限り彼女たちに犯され続ける、肉体感覚が稀薄な小生は眠れないのだ思考し続ける女をこの世の真理を、でも違う現実にいたいんだコウ」を認識したい、あどけなさの残る神官なのに甘く蕩けたようなうっとりとした女の表情、下がったまなじり、薄い唇を湿す舌から流れる蜜、フォーマルな修道服を乱して晒された膨らみに抱かれる、「彼女はもう神になってしまった私たち娼婦プルーニコスに、だから彼女を想ってすらあなたは地上にいられないなおさら、昇、昇って躰から遊離し」てしまう、分かっていたが想うしかない、コウ。コウを想うたび邪魔される、濁流に紛れて彼女ひとりを識別できない、白い部屋が深い深い闇の中にあって無数の顔が見て、いる、意識の中心に視線が注がれているが、意識の輪郭すら保てなくなってきていた吸い込まれる胸に、柔らかく暖かい慈しむようにかいなが頭を撫で、こ、こ、誰さくら。神、が。

「あれだけ注意したのに、まったくだらしないなあ。ぱーぺきにキマってぐでんぐでんじゃない。でも、僕を識別してくれてよかった。少しは僕のせくしーぼでぃに魅力を感じてくれてたってことだもんね。でも、まだまだ若くて健康なユッタくんだから、肉欲の亡者となった神官どもの抜け殻にどうしても引き寄せられちゃうみたいだね。まあしょうがない。しけたじじいのつらでも見て、頭を冷やしてみることだよ。それじゃあ、またね」

 脳に直接冷や水を浴びせられたように覚醒し、意識が固定した。

「おーい」

「あっ」

 そこはどこまでも暗い虚無であったが、あちこちには小さな星々がきらめていていた。

「あかんことになっていたようだが、少しは落ち着いたかのう」

「ノッジシ師っ、なのですか」

 頭に馴染みのある声が響いた。星のひとつが他より、ほんの少しだけ光輝を強く放っていた。

「だいじょぶ?」

「あ、はい」

「あー安心した。心配させおって。ちょっと深呼吸したほうがいいぞ」

「お亡くなりになられたのに、生前よりお元気そうなお声で」

「ふっきれたよ、だいぶ楽。肩肘を張らないでいられるのはよいものだ」

 意識がだんだんとはっきりしてきた。身体感覚もある。自分の輪郭を確かめられる。外界との境界がしっかりと定まっていた。周囲は真っ暗で何もなく、どこにいるのかまったくわからないのが不安を誘うが、不安がれるような正常な心の働きがあることに嬉しくもなった。

「ここが……死者が召されるという、地上と天上の境界ホロスなのですか?」

「らしいな。可憐なお嬢ちゃんに案内されてここに来た。あんな子が神様なら、まだまだ世の中捨てたもんじゃなかったのに、惜しいことをしたのう」

「そうですか……」

「なんじゃ、女の趣味をお前にとやかく言われたくないわ」

「言ってません」

「ふんだ。それより、今のお前はどうなっておる。ここまで昇ってくるのは相当危うい証拠だというのは分かるだろう。二重三重にわけのわからないことになっておるではないか。お前は何をしておる、凍境に一体何をしにきた」

 言われて思い返されるのは、砂漠へ発った師を思い、信仰を極めた先にある聖地、凍境にいつか辿り着くことを志した成人式の日である。あれからさして時も経たないのに、神官たちの信仰が行き着いた逃避的な行状と、この国の潔癖であるがゆえに腐敗した天使主義を、ユッタは知ってしまった。神官の思惑に踊らされていただけと気づけば、生まれてから今まで貫いてきた信仰に、何の意味があったのだろうかと虚しく思われ、胸の塞がるものではある。

「……わかりません。修道士として生きてきた自分は、一体何だったのでしょうか」

「お前は神官に祈ってきたのか。違うだろう、神にだ。教会がまんまと叡智ソフィアの轍を踏もうが、お前には関係あるまい。それとも、お前の祈りは神官と同じ類の祈りだったのか」

 そう指摘されても否定はできなかった。コウとの別れ、リンとの旅路、創造主からの啓示。この奇妙な冒険がなければ、肉体のままならぬことに信仰を惑わされ続ける、腰の座らぬ陰鬱な日々は、いつまでも変わらなかったはずである。現世の苦痛多きことを定命じょうみょうの者の運命さだめと受け容れ、憂鬱を抱えながらやり過ごしてゆくのは、自分に耐えられることではなかった。果てのない彷徨を終わらせ、天使になり、神の国に住まいたいと願うのは、神官にも自分にも自然なことだったのである。

「……お前も、信仰と恋をやはり別けて考えるか。聖なる神性と爛れた人性をきっぱりと区別したいか。それの混じりあう人の現実の猥雑さに、耐えがたいか。それも致し方あるまい。だが、それで不貞腐れるのが利口なのか。天使の知性を得たお前なら、目を向けるところは自分以外にもあるのではないか。下界を見ろ。今のお前には、さぞ見晴らしがよかろう」

 ユッタは頭を振った。四方八方はかすかな星がまたたく以外、混じり気のない闇一色の世界だった。下界、とはどこのことか。上下左右があるのかも怪しい。足元を支える場所も、手をかける場所もない。何も見えなかった。なぜこのようなところにいるのだろうか、誰かほかにいないのだろうか。助けを求めるように、視線を絶えず周囲に投げかける。ノッジシの声も応えず、ユッタは大いなる闇にもがき続けた。見知らぬ穴ぐらに落ち込んだような心細さがあったが、もがくのをやめれば不思議と心が落ち着き、自分の房にいるような居心地の良さすら覚えた。

(……人の心とは、腹の底にあるものか。それとも、いと高き天空にあるものか。鬱勃する内心と、神を目指す理性とは、同じ類のものなのだろうか。おそらく、どちらでもないのであろう。人はおよそ誰でも、このような寄る辺ない虚空に心を遊ばせている。そして、遥か遠い星々の輝きのように、他者の存在を微かに見て取り、手を伸ばし続けているのではないか……)

 ユッタは今にも消えそうな、微弱に明滅する星のひとつをじっと見つめた。ユッタの意識に、ぐぅっと流れこんでくる光景があった。見知らぬ荒れ果てた土地の廃屋で、少女が膝を抱えている。次の瞬間には少女は広大な高原を駆け、白き峰々の山脈を越え、街の人いきれに囲まれ、遥かな海原を望んでいた。いつしか少女は育ち、人跡未踏の森林を走り、猛獣を打ち倒し、男と肌を重ね、泣いていた。少女が寝たあとに、男も泣いた。ビジョンは一瞬であった。

 ユッタはまた別の星を見た。最も遠く、届きがたく思える豆粒大の星だった。その星が見せる景色は、狭い独房の灰色の壁と、藁の積まれた家畜小屋と、曇りがちな牧草地ばかりであった。少女は暗鬱な風景を延々と往復し続けていた。見えたのはたったそれだけであったが、少女の小さな背中は哀しくも頼もしく、ついぞ涙をこぼすことがなかった。

「まっこと、対照的な娘子たちよ。さて、弟子がどちらを選ぶかが見ものだな」

 ノッジシの声が届いたが、それは先と比べてずいぶん遠くから聞こえてくるようであった。

「ユッタよ、神だけを見るな。天使は天上の住人ではあれど、地上を見守る使命を持つ者だ。神に振り向いたままではいかん、地上へと向きを戻せ。お前は誰を見たい、誰を知りたい、誰を認識したいのだ。もう一度考えてみなさい。そして、それが分かっても難しいのならば、最後は神に逆らいなさい。いかに天上の知恵に完成された天使でも、神にひざまずかざるをえない天使でも、過ちを犯すことはできる。天使は自由意志によってのみ神に逆らい、堕天することができるのだ。生まれ持った罪など、本当はない。だが、天使になってしまったならば、罪を犯す覚悟を決めなさい」

 急速に、ユッタの躰は奈落へと引きずり込まれていった。風を切るような落下感のさなかに師の声はさらに遠のき、とたんに別れをつらく思った。師のことを何も知らない自分に気づいたが、それを受け止めなければいけないことも分かっていた。

「お前はお前だけの救済の道を、正統の教えから選択しなければならない。一個の人間として、だ。それが異端者の孤独な道とて、お前は一からお前の信仰を打ち立てねばならん。神と訣別し、神を捉え直すのだ。はじまりはひとりでも、いずれ報われるときが来る。報われないこともあるにはあるが、そのときはまあ、そのときだよ」

 師の笑顔が浮かんだ。虚空のなかにそれを捉えられただけで、ユッタは思いを強くできた。

「堕ちろよ。思いきって、堕ちてみろ。そして認識グノーシスの彼方に、お前の真実を掴み取るのだ」

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