第40話

 凍境へ向かう途上にある馬車の中、みなが眠った深夜に、さくらにひそひそと耳打ちされた。

「今更だけど、安請け合いしちゃってよかったの。もはや君が現実にただひとりの女の子に貞操を誓えるとは、到底思えないのだけれど。神である僕を幼妻にしていいと言ったのは、まったくの冗談でもないんだよ」

 ユッタは冗談で済ませたいが、いざとなれば考慮する必要がありそうなのが恐ろしかった。

「……本当に躰が宙に浮かんでいる気がしますよ。自然の美、人間の美、人々の暖かい声、リンを抱いた感触。現実の物事の何を見て、何を聞き、何を触れても、心動かされることがない。自分がここにいないのです。どうしても天上に舞う、幻像エイコーンの少女たちに見劣ってしまう。全ての価値判断が彼女たちを通して行われる。小生は彼女たちの、奴隷だ」

 ユッタは馬車の座席に収まりながら、闇深く狭い車内に、今も数十人の妖精を踊らせていた。

「実は、今までも君みたいな修道士とは会ってきたんだ。たまに外に出られたとき、天使になれそうな子を探してね。凍境の腐った神官共に一泡吹かせるためさ。でもみんな、超古代の究極の偶像神に吸い込まれ、精神の至福に包まれながら肉体を滅ぼして死んでいった」

「でしょうね、感覚世界が色褪せてしまう。針先にひとりでも、人間に神は重すぎます。あらゆる感覚像を超え、それらを美貌に象徴した観念像こそ、人間の天使的知性がついに直観しえた神、か……。これは苦痛ですよ。想うだけでいつでも神が手に取れてしまうのに、人としての肉体は捨てられない。肉を離れたら最後、彼女たちに食い尽くされてしまう」

「具体的にはどう見えてるの。全認識を魅力的な異性という鋳型を通して得ざるをえない君に、世界はどんな景色なの」

 ユッタは、隣に座って時たま肩がぶつかりあうジノヴィオスにかつて渡された、秘薬のことを思い出した。あれを呑んで天妖フェアリーを幻視したのと事情が似ていた。他者に知覚できないが、ユッタにだけ見える少女たちが周囲にふわふわと浮かんでいる。そのとき考えていることによって、少女たちは絶えず入れ替わる。形姿がちらちらと微視的に変わってゆく。思考に対する答えが彼女たちの組み合わせで啓示されているらしく、ああ、と納得してしまう。その過程が瞬間瞬間繰り返されるのだが、実際的な意味は何もない。肉体に影響は及ぼさない。ただ、眠れない。疲労が溜まっているはずだが、それを感じられない。腹の空き具合が自覚されず、腹が鳴ったのを人に指摘されて初めて知る。先ほどは、枝木に引っかかれた傷に気付けなかった。いつの間にか言えないところが言えないことになっていることも多い。つまり、器官的感覚からの刺激や肉体の変調が意識に届かない。いや、届くことは届く、それを意識しようと強く望めば、そう思考すれば。そういえば、しばらく水分を取っていない。喉は乾いていないかな、と思った瞬間、激しい乾きが唐突に押し寄せる。こんなにからからにかわいていたのか、と驚く暇もなく、少女のひとりが我が唇を割って口腔に舌を入れ込む幻視、幻覚を感じている。蜜のように甘い水がさらさらと舌を通り、喉が潤う。甘い、美味しい、喉が潤う、綺麗な少女だ、少し恥ずかしい、そういう感じたい感情や感覚だけは意識に入ることを許されている。その取捨はおそらく無意識になされ、興味のない話は大声で言われても耳に入らないし、ジノヴィオスの肩が肩にぶつかる感触も今はほとんど遮断されている。思考が感覚を支配している。感覚が思考に働きかけるのではなく、思考が感覚を自由に操作している。感覚したいことならば今できないようなことも容易く行われる。何か食べたいと思えば口腔に食べ物が入っている。腹を満たしたいとだけ思えば胃が膨らんだ気がする。これは思考や欲望をいかに自制するかを常に要求される。肉を食べたいとふと思ったとき、少女の肉づきのよい内腿うちももにかぶりついていたのには度肝を抜かれた。違う、牛でも豚でも動物ならなんでもいいが人の肉を食べたいわけじゃない、肉の味だけが欲しい。そう自分に言い訳すれば少女は離れ、歯に肉厚な噛みごたえ、口中に溢れる肉汁。味覚だけと思っても食べごたえまで再現されている。つまり、思考を駆動させる欲望は無自覚にも複合的なものであり、少女の躰を口に含んでいたのも食欲にこっそりと性欲が混じっていたということであった。いや、全真理が少女として表現される限り、性欲は全ての欲求に内在している。本能的と思われるものほど未分化で、肉体の奥底で渦を巻いている。欲求を理性的に制御しなければ、全感覚を全時間的に満たすという破滅的な至福を夢見てしまい、そしてそのとおり実行されてしまう。今自分が現実にどのような状況に置かれており、何を感じ、外界にどうリアクションを取ればいいのか、そういったことを感覚ではなく全て思考で捉え、配慮しなければならない。感覚が観念に覆い隠され、麻痺しがちになるのである。思考すれば何でも感じられるということの弊害であった。以前よりも現実のあらゆることに気を配って神経はすり減るのだが、神経のすり減ったことを自覚した次の瞬間に完治している。ただ睡眠だけは取れない。疲労を取りたいと思えば忘れさせてくれるが、意識を途絶えさせてくれはしない。永久に思考するしかない。死だけは考えられない。少女たちを通して何かを考えなければいけない、もしくは少女たち自身を考える。口に出して言葉にはできないが、人間の知れることは全て知らされてしまった気もして、こうなると後者のほうが多くなる。思考が移ろいやすいように、一瞬ごとに変貌してゆく彼女たちに対して、君は誰、と個人として呼びかける、個として思考を焦点化させることはよほど難しい。問いかけは宙に浮いて消える。このひとり、というのが決して見つからない。これは以前見たのと同じ少女か、と思えば微妙に違っている。おそらく同じ少女も繰り返し見ているのだが、一瞬すぎて同定できない。どうすれば彼女たちを個として定着した形式で認識できるのか。考えてみれば、性愛という欲望を駆使する以外にない。脳裏にちらついた一瞬の少女のひらめきに、君が見たい、君と話したい、君が欲しい、そう瞬時に強く乞い願う。すると、ああ、やっと捕まえられた。ユッタと目が合うとちょっと驚いてから優しく笑んで、中空からふわっと降りてくる。さて、ここが正念場だ。ここで自分は彼女に何を求めているのか、どうしたいのかが試される。少女は美しく、肢体はなまめかしやかで、ほとんどの場合は裸形である。もし性愛が勝てば、次の瞬間には下半身に鋭い感覚がはしっている。本当に一瞬のことで、本心は隠せない。何を彼女に求めているかが読み取られて、無時間的にそういう光景へと事態が推移している。せっかく個体化できたのに、少女はまた明滅している。失敗だった。下着を洗う手間はさすがに、思考するだけではどうにもならない。否、思考するだけで無頭人エグリゴリすら討ち果たしたのである。無時間的かつ無空間的な純粋知性は、個人の認識を超えて地上の全被造物に影響を及ぼしうるはずであった。強く服の沁みを消したいと願えば、やってやれないはずはない。だが、ここまで下らないことには真理の力は及ばないらしい。不思議なことで、ここに何かのヒントがある気もするが、現実に手を動かしてすべき何かがまったくなくなるわけもないのである、人間であるかぎりは。先の少女の個体化を、もう一度試す。次は性愛ではなく、まったく性愛だけなのではなく、少女の内面を知りたい、神の人格ペルソナを知りたいという他者欲で願う。明滅する概念の少女はユッタの認識に定着し、空から舞い降りて傍らに寄り添う。何百回試しただろう、ようやく、つかめた。「君は誰だ」「誰であってほしいですか」「誰でもいい。君はどうありたい」「私はあなたの望むようにあります」「僕のことは関係ない。君はどう考える」「私の思考はあなたの思考です」「君に思考はないのか」「あります。常に思考しています。あなたと同じように」「小生と同じように?」「あなたに真理を与えるために、いつも真理を考えています。今、真理をどう表現したらいいのか。どう表現すべきかを」「真理はひとつではないのか」「正確には真理の一歩手前で、あなたに分かる真理として表現するのです。それは無限に多様です」「だから君たちは表現として無限に明滅しているのか」「はい」「人は感覚から免れ得ないから?」「はい」「感覚を消し去ったら?」「そうなればあなたは私と同じになります。そのときこそひとつになれます」「君たちのような純粋精神の存在に、思考するだけの天使か、神に?」「はい」「自分を神と思う、天使と思う?」「どちらでもよいことです」「君たちは実在なのか」「よくわかりません」「君たちは感覚像イメージなのか」「感覚像イメージ に真理を埋め込まれています」「君たちは真理そのものなのか」「真理について考え続ける精神主体を自覚しています」「君たちは複数、単数?」「膨大ですが、お互いをお互いとして認識できません。あなたの中で融け合っています」「君の名前は」「どのように呼んでくれても構いません」「君は僕をどう思っている」「愛しています。深く」「僕が君をどう思っているか分かる?」「愛しています。畏れてもいます」「違うね。僕は心底から君が嫌いだ」「そうなのですか?」「僕から離れろ」「無理です」「消えろ」「できません」「なぜだ」「完全な感覚像イメージですから」「君は僕の感覚に生じているのか、精神に生じているのか」「どちらでもあります。どちらでもいいことです」「もう疲れた」「ごめんなさい。ゆっくり休んでくださいね」「この意識を消してくれ」「だめです。そのときは死ぬときです」「君も死ぬ?」「それはわかりません」「もういやだ」「そんなこと言わないで。私はあなたのことが大好きです」下半身に鋭い感覚がはしった。少女は明滅していた。気を抜くとそう望んでしまっているのだった。さくらの質問を受けてから数秒が経っていた。

「とうてい口で言えません。この天使的知性を、あなたはどこに保持していたんですか」

境界ホロスにストックしてる。超世界プレローマ経綸界オイコノミアを隔てる無限の境界。君たちとしては宇宙をイメージすればいいのかな」

「死んだ超古代人の霊魂が宇宙に……。人は死んでから、そこにいくのですか」

「宇宙はあくまで感覚像イメージの話。肉体は自然に帰り、霊魂は境界ホロスに昇り、贋天使アルコーンとして留まる。僕が死なない限り、永遠にそうやって管理してゆくつもりだよ」

「あなたが死ぬことは、あるのですか」

「生まれてからずっとこの姿のままだし、多分死なないんじゃない。肉体あるなら死ねるとも思えるけど、死の危機に瀕したことないしね。そんなにつらいなら、心中してあげよっか」

「神と心中しても、行く末は神になり損ねた人、贋天使アルコーンになるにすぎません」

「まあ、こんな可愛い女の子の前で何度もいっちゃって、君以上に幸せな人間もいないんだから、死にたいなんて言わず、もうちょっと頑張ってみたらどうかな。がんばれっがんばれっ」

「あなたが考えている以上に何度も何度も何度もしていますよ。もう躰に反応すら出ません」

 今のところは健常だが、健常であるかどうかすらも正常に判断できない。ずっとこれでもつはずがなかった。天使の精神は、人間の肉体を置いて今にも天界に昇ろうとしている。

「……感覚的経験を究極して、形而上学的存在に到ろうなどと。人間の信仰心が行き着き、このような悪魔の所業を成したというなら、我々の本質はやはり堕天使なのです」

「でもね、信仰の極みはそこから始まるはずだよ。天使アイオーンにすら性別があり、性は根源的な他者への欲望を生む。恋愛が信仰と結びつくのは、本来なら自然なんだよ。みっともないし、みんなけて考えたがるけどね。そういう信仰心の根源すらも完璧に満たされたとき、人は何を求めるのか。そのときこそ、絶対の神が見えてくるはずなんだ」

「人間にとっての神が、この身に宿ってしまった自分に、そんなものが見えましょうか」

「君は、君だけはなぜ、天使になることができたんだろうね。人類文明何千年の果てに産み落ちた幻の偶像神に負けず、なぜ君はまだ昇天せずにこの経綸けいりんの地に踏みとどまっていられるのか。きっと君はまだ、人間としての未練をどこかに残しているんだよ」

 そんなもの、と口に出しかけ、強いて忘れようとしていた、彼女の面影が浮かぶユッタであった。だが、いくら彼女のことを想っても、彼女のもとへ翔んでゆくことはできなかったのである。おそらく、彼女のことを被造物とすら思えず、無意識のうちに自分の天使か神のように考えていたのが災いした。天使の知性をもってしても、彼女を直観できなかった。

「実際、君にこんなことで参ってもらっちゃ困るよ。さすがにもう、凍境が清らかな神官たちの静謐の楽園だなんて思ってないよね。現世を捨てた神官が、天使のように生きるための天国に、僕たちは向かっているんだ。人間のための、天国に。出来る限り僕が応援するから、これからも君には頑張って人間として生きてほしい。観想暦六千年を統べた諸悪の根源たる、神官たちに立ち向かうためにね。まあまあ、今からそんなしけたつらしないでさ。ほら、がんばれっがんばれっ」

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