第40話
凍境へ向かう途上にある馬車の中、みなが眠った深夜に、さくらにひそひそと耳打ちされた。
「今更だけど、安請け合いしちゃってよかったの。もはや君が現実にただひとりの女の子に貞操を誓えるとは、到底思えないのだけれど。神である僕を幼妻にしていいと言ったのは、まったくの冗談でもないんだよ」
ユッタは冗談で済ませたいが、いざとなれば考慮する必要がありそうなのが恐ろしかった。
「……本当に躰が宙に浮かんでいる気がしますよ。自然の美、人間の美、人々の暖かい声、リンを抱いた感触。現実の物事の何を見て、何を聞き、何を触れても、心動かされることがない。自分がここにいないのです。どうしても天上に舞う、
ユッタは馬車の座席に収まりながら、闇深く狭い車内に、今も数十人の妖精を踊らせていた。
「実は、今までも君みたいな修道士とは会ってきたんだ。たまに外に出られたとき、天使になれそうな子を探してね。凍境の腐った神官共に一泡吹かせるためさ。でもみんな、超古代の究極の偶像神に吸い込まれ、精神の至福に包まれながら肉体を滅ぼして死んでいった」
「でしょうね、感覚世界が色褪せてしまう。針先にひとりでも、人間に神は重すぎます。あらゆる感覚像を超え、それらを美貌に象徴した観念像こそ、人間の天使的知性がついに直観しえた神、か……。これは苦痛ですよ。想うだけでいつでも神が手に取れてしまうのに、人としての肉体は捨てられない。肉を離れたら最後、彼女たちに食い尽くされてしまう」
「具体的にはどう見えてるの。全認識を魅力的な異性という鋳型を通して得ざるをえない君に、世界はどんな景色なの」
ユッタは、隣に座って時たま肩がぶつかりあうジノヴィオスにかつて渡された、秘薬のことを思い出した。あれを呑んで
「とうてい口で言えません。この天使的知性を、あなたはどこに保持していたんですか」
「
「死んだ超古代人の霊魂が宇宙に……。人は死んでから、そこにいくのですか」
「宇宙はあくまで
「あなたが死ぬことは、あるのですか」
「生まれてからずっとこの姿のままだし、多分死なないんじゃない。肉体あるなら死ねるとも思えるけど、死の危機に瀕したことないしね。そんなにつらいなら、心中してあげよっか」
「神と心中しても、行く末は神になり損ねた人、
「まあ、こんな可愛い女の子の前で何度もいっちゃって、君以上に幸せな人間もいないんだから、死にたいなんて言わず、もうちょっと頑張ってみたらどうかな。がんばれっがんばれっ」
「あなたが考えている以上に何度も何度も何度もしていますよ。もう躰に反応すら出ません」
今のところは健常だが、健常であるかどうかすらも正常に判断できない。ずっとこれでもつはずがなかった。天使の精神は、人間の肉体を置いて今にも天界に昇ろうとしている。
「……感覚的経験を究極して、形而上学的存在に到ろうなどと。人間の信仰心が行き着き、このような悪魔の所業を成したというなら、我々の本質はやはり堕天使なのです」
「でもね、信仰の極みはそこから始まるはずだよ。
「人間にとっての神が、この身に宿ってしまった自分に、そんなものが見えましょうか」
「君は、君だけはなぜ、天使になることができたんだろうね。人類文明何千年の果てに産み落ちた幻の偶像神に負けず、なぜ君はまだ昇天せずにこの
そんなもの、と口に出しかけ、強いて忘れようとしていた、彼女の面影が浮かぶユッタであった。だが、いくら彼女のことを想っても、彼女のもとへ翔んでゆくことはできなかったのである。おそらく、彼女のことを被造物とすら思えず、無意識のうちに自分の天使か神のように考えていたのが災いした。天使の知性をもってしても、彼女を直観できなかった。
「実際、君にこんなことで参ってもらっちゃ困るよ。さすがにもう、凍境が清らかな神官たちの静謐の楽園だなんて思ってないよね。現世を捨てた神官が、天使のように生きるための天国に、僕たちは向かっているんだ。人間のための、天国に。出来る限り僕が応援するから、これからも君には頑張って人間として生きてほしい。観想暦六千年を統べた諸悪の根源たる、神官たちに立ち向かうためにね。まあまあ、今からそんなしけたつらしないでさ。ほら、がんばれっがんばれっ」
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